辺境遊戯 第二部
グレートマザー−18
あれほど恐れていたのに、意外にも目を覚ます時は早くやってきた。紫の色の森が目にまぶしいほどで、相変わらず黒い空が広がっている。
イェームは、起きあがり、覆面がなくなったことでおりてきた長い前髪をかきわける。
「まだ暗いままか。…一体いまいつなんだ?」
そういってあくびをしそうになったイェームは、はっと口を閉じた。手には血をぬぐった後がある。それを見て、彼は思いだした。眠りにつく前は、あの呪いにさいなまれていたはずだ。息をまともにすることすらできなかった。
「な、なんだ?」
違和感がある。今までとは何となく何かが違った。今までは、その呪いが発動していなくても、身体が少し重かった。だというのに、これは何だろう。妙に身体が軽い。
イェームは、ふと思って自分の胸に手を当てた。襟元をのぞき込んでみても、あの呪いの模様は見えない。
「こ、これは……」
驚いているイェームにどこか遠くから声が聞こえてきた。
『―あなたは自由ですよ…あなたを捕らえていた呪縛は解けました。』
はっと彼は声をした方を向いたが、そちらをむいても何もない。今度は後ろ側から声が聞こえた。
『――傷ついた体のほうも完治しているはずです。もうどこへいこうと、あなたの自由…。何もあなたを縛る者はありません。』
あっけにとられているイェームの前方から風が吹いてきた。色あせた紫のコートを風が巻き上げる。顔をかばいながら、そっと指の間からみえたのは紫色の光だった。
風はやんだ。そして、彼は、紫色の大きな木の前に立っていた。天までそびえ立つ木を眺めながら、イェームは目を見開いていた。
「…そ、そんな……なぜ……あんたがオレの前に現れる……!」
それが自分の前に現れるはずがない。自分は、謁見する資格などとうに失ったはずだ。だというのに、目の前にあるのは紫色の信じられないほど高く大きな古いグランカランが一本立っている。
「グレートマザー……」
イェームは、驚いて呆然と立ちつくした。
マザーやグレートマザーといった存在は、狼人の彼にとっても、遠い存在である。その存在が目の前にいるという事自体が、イェームにも驚きだった。
そして、そのあまりにも大きい紫の巨木に対する疑問は、溢れるように湧いてきた。
「オレを助けたのは……」
探るように聞くと、マザーの声が静かに聞こえてきた。
『助けたと言われるとそうなるかもしれませんね。』
「何故だ?」
イェームは、相手の考えを探るような目つきのまま巨木に尋ねた。
「何故だ。…どうしてオレを助けたりなんかしたんだ? …オレは、辺境の掟を破ったし、これからも破ろうとしていたんだ…それはわかっているはずなのに!」
『私の意志で助けたのではありません。あの青年がそれを願ったからです。』
グレートマザーは事務的な冷徹な声で言った。イェームは眉をひそめた。
「あの青年……まさか……」
『私は一つの交換条件を出しました。…ファルケンを生き返らせたかったら、あなたを殺せ…と。妖魔であるあなたを殺さなければ、ファルケンは所詮蘇らないと。』
はっとイェームは、顔をあげた。
「あいつを試したのか!?」
イェームは、少し緊迫した面もちで言った。
『ええ、そうです。』
グレートマザーの声は静かだった。
『あなたも知ってはいるでしょう。…私たちは、目の前に現れる者を試すことがあります。時に願いが大きければ、命を賭けた試練にかけて、その人物の本性を探る。……間違いをおかせば、その時はかけらも残さずにこの世から消え去る……。』
「あ、あいつは! あいつはどうなったんだ!」
さすがに血相を変えて、イェームは噛みつくように聞いた。
『……あなたが何故ここにいるかを考えなさい。…彼は正解を選んだのです。』
マザーは、静かだが圧力のある声で言った。
『…彼はあなたが妖魔ではないかと疑っていたし、魔幻灯に火を入れることで、その正体を見てしまってもいました。それでも、彼は、正解を選んだ。まず、目の前に倒れているあなたを助けることを選び、結局あなたを殺すことなどできなかった。』
マザーの声が少し強くなった。
『あなたは、自分がどうなってもいいと本気で思っていたようですね。…それで彼がどんな思いをするかも考えずに。』
イェームは、はっとした。
「そ、それは……」
『…実際、あなたはそうするつもりでここに来た。…あなたが聖域で何をやろうとしていたか、私にはわかります。あなたはかのシャザーンと同じ事をしようとしていた。』
「そ、そうだ…。オレは、扉を開けるつもりだった」
イェームはやや気圧されながら、ポツリと応えた。
『シャザーンは、それによって、この世界の空間をねじ曲げようとしていた。…あなたは違います。この世界の時間自体をひっくり返して、もう一度、「あの」時間に戻ろうとしていた。』
もう彼は応えなかった。マザーは静かに続けた。
『あなたは、元々心優しい子でした。そんなあなたが全てを壊してもいいと思い詰めるほどには、あなたの出会った現実は辛かったのでしょう。あなたにとってのよき時間はすでに遠く過去にあり、戻りたくても、今のあなたは昔のあなたとは違う。…だから、あなたは、あの頃の自分に戻りたかった。…しかし、それはもう無理なこと。』
イェームはまだ答えない。グレートマザーの声がやわらかく響いた。
『だから、あなたは時間ごと昔に戻ろうとした。…そのために自分が消えることも承知の上で。』
「オ、オレは…ただ…」
ようやくイェームは言葉を発し、睨み付けるように高い木を見上げた。
「…オレは、元に戻りたかっただけだ! 今のオレはあんまり惨めだ。こんな世界にはいたくない! オレは元のあのころに戻りたかった! レックと旅をしていたあのころが一番楽しかったんだ! でも、今のオレじゃ、もうあんな風に旅はできない! わかってるんだろ…オレが、今のオレがどんな奴かってことが!」
マザーは応えなかった。少しうなだれながら、イェームは、それでも吐き出すように強い口調になっていた。
「四六時中、復讐のことばかり考えて生きてきた。あいつらをどうやって殺すか、あいつらをどうやって痛めつけるか。オレやレックが味わった苦痛の数倍の苦痛を与えて殺してやるって! あれから、オレはそんなひどいことばかり考えてきた。最初はそれでいいと思ってたよ。…でも、だんだん、前の自分とは変わってしまった」
イェームはきっとマザーを見上げた。
「あのとき、妖魔を追って過去に行って、たまたま、あの時間に出られたんだ。そのとき、オレは気づいたんだよ。報復ばかり考えてた自分が、どれほど惨めな生き物に成り下がってたかって事を! あまりにも前と違いすぎるってことを! だから、そんな惨めなオレを見せたくなかった! みんなの前にさらけ出すなんて嫌だった! 今のオレなんか見たら、誰だって軽蔑するだろ! そんな事になるなら死んだ方がましだ!」
ぐっと拳を握った、イェームの熱っぽい瞳に何かしら執念めいたものが浮かんでいた。
「だから、ああならないように止めようと思った! だけど、オレはチャンスを逃してしまった。だから、…最後に残った手段は、時間をひっくり返すことだけだった。…どうなるかはわかってたよ…でも、オレは…それでも……!」
『あの夢は、確定した未来ではありません。ハラールがあなたに見せた幻影にすぎません。』
思っていたことを突かれ、イェームは口を閉ざす。
『……それでも、あなたにとっては十分な衝撃はあったでしょう。それも含めて、あなたは余計に報復の為に自らを磨き、そして涙を飲んだ。それがあなたを今の姿に変えたというならば仕方のないことです。』
マザーは、ため息をついたようだった。足下の落ち葉ががさがさと、音を立てる。
『でも、あなたは大きな間違いをしています。あなたが本当に惨めな生き物だったとしても、あの青年はあなたを助けました。それとも、あなたは彼が目的のためなら、自分など切り捨てられるとでもおもっていたのですか? 変わり果てた自分など、見捨ててしまっても、心を痛めることもないとでも?』
「そ…それは……」
イェームは、わずかに歯がみしたようだった。マザーは少し厳しい口調で言った。
『あなたは、彼をそこまで冷酷な男だと見ていたのですか? …だとしたら、彼を信じていないのはあなたのほうです。』
言われて、イェームは反論しなかった。ただ、黙って地面を見ている。
やがて、グレートマザーは再び彼に静かに告げた。
『さあ、あなたは今から自分のやることをしなければなりません。私でも日蝕時の妖魔の力は押さえ切れませんでした。…レックハルドは、今、幻と闇の境にいます。妖魔は彼を殺す気でいます。』
「えっ!」
イェームは慌てて、顔を上げた。
「そ、そんな! あいつは妖魔と関係ないよ! どうして奴らがそんなことを!」
『妖魔にとっては、彼は邪魔な存在…。いずれわかるかもしれませんが、彼は、妖魔にとっては非常に恨みのある人物なのです。』
「恨み? 何故?」
『それはいずれわかります。今は先を急ぎなさい。』
ふわりと緑色の衣を纏った妖精が二人イェームの前方に現れた。うすぎぬの衣を揺らしながら、彼女たちは近くの茂みを手で押し上げた。茂みの向こうの空間はわずかに光っていた。空間が歪んでいるのか、向こう側は揺らいで見えた。
『――森への扉を開きましょう。…彼を助けるのがあなたのせめてもの謝罪。そして今度はあなたも彼を信じなければなりません。』
『さあ、早く……』
妖精が手招きしているのがわかった。グレートマザーを一度見上げ、そして、イェームはうなずいて走り出した。妖精のつくった光への道を通ろうとしたとき、茂みの妖精は、わずかに微笑んだ。
『頑張ってね…』
『それじゃあ、また。……若き『シールコルスチェーン』…』
はっとイェームは足を止めた。そして、思い出したように振り返る。大切なことを忘れていたとばかり、彼は少しだけ足を戻すと、グレートマザーに向き直った。
「ありがとう」
マザーはもう応えなかったが、代わりに妖精がくすくすと笑った。茂みの扉をくぐり、向こう側に抜けていく。彼がそこに飛び込んだとき、妖精達は扉を閉じた。
グレートマザーは、紫の枝をわずかに揺らした。長いため息をついたのだ。
『――私の娘が火を嫌ったのは、私が過去、それを止められなかったから――。それであの子がお前を嫌い、お前が辛い目にあったというのであれば、お前が礼をいう必要はなく、私はそれに対しての埋め合わせをしたまでなのです……』
聞こえていないだろう相手にそう呟いて、マザーはいった。
『お前なら、あの子を許してやれるでしょう――。そして、もう道に惑うことがないように………』
紫色に光っていたグレートマザーの葉の光は少しだけ小さくなった。ざわざわと鳴っていた葉擦れの音も、徐々に小さくなっては消えていく。
再び静かな森になった旧い聖地を、また守るように妖精と狼人達がそうっと行き交い始めていく。
日蝕は静かに開けようとしていた。わずかに光が広がり始める。