辺境遊戯・幻想の冒険者達/©渡来亜輝彦2005
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辺境遊戯 第二部 

グレートマザー−16



 目を開くと、紫色の葉が茂る森の中だった。一種異様な空間に少しだけ驚き、そして、自分が元々そんな異様な空間にいたことを思い出す。
 うなされていたのかもしれないと思いながら、イェームは額の汗をぬぐった。夢の中の絶叫とともに目が覚めたのはわかった。
「…あの夢か…」
 イェームは、汗をぬぐった。
「もう見なくなったと思っていたのにな」
 何度見ても後味の悪い夢だ。元々気分が悪かったのに、夢のせいか、吐き気までする。軽く咳き込むと、口許を押さえた手に血糊がついていた。
 ギルベイスはまだこの森にいるのだろうか。もし、いるとすれば、その影響はもろに彼にダメージを与える。いまや自分の命は彼に握られているも同然で、ギルベイスは、まるで卵を握りつぶすように自分の命を消すことができるのだ。
 彼は乾いた笑みを漏らした。
「情けねえなあ。…もう、長くはいられないのかもしれない。折角戻ってきたのに、また逆戻りか。自業自得だけどさ」
 イェームは、あの時との言葉遣いの変化に気づいて苦笑した。
「な、なんだか…、いつの間にか、あいつの口調がうつっちまったみたいだな。オレ、いつからこんなすれた言葉遣いをするようになったんだっけ…」
 イェームはため息をつき、思い出したように顔をなでた。そこに顔を覆っていた布が無くなっているのは知っていた。
「顔は見られてるんだよな……」
 きっと自分の顔を見ると彼はとまどい、そして思い出してしまうだろう。あの時のことを思い出すだけなら、またレックハルドに辛い思いをさせるだけだ。
「オレは、戻ってこない方がよかったんじゃないのか…」
 まだ、考え事をするには頭が痛い。イェームは片手で額を覆った。
 思えば、自分はいくつ約束を破ってきたのだろう。絶対破らないといっておきながら、契約を破り、自分が守るといっておきながら、あの夢でマリスを守れず、今度は、聖域まで連れて行くといっておきながら、こんなところで朽ち果てかけている。
「…せめてもう少しだけ保ってくれ…。…一度だけでも約束を守らないと…オレは…」
 頭が痛くて、気分が悪い。考えている間にも、きっと体力は減っていく。もう少しだけ休ませてくれ、と心の中で呟いて、イェームはそのまま眠りに落ちた。次に目を覚ますことができるように、どこかで祈りながら――
 霞んだ彼の目には、見えなかった金色の霧雨が、さやさやと優しく注いでいた。彼はそれに気づくことはなかっただろう。
 やがて、くすくすと笑い声が聞こえ、深い眠りの中の彼を見つめながら二人の娘がふわりと空中から降りてきた。虹色の羽を持ち、透き通るように美しい娘達はそれにも気づかずに眠り続けるイェームを見て笑う。

 くすくすくす…
 くすくすくす…

 妖精は幻のように笑いながら、そうっと彼のそばに跪く。そして、手にしたしろい花を掲げた。そのしろい花は、百合のような形をしていて、深いつぼに水がたまっている。上から金色の雨を受けながら、小さな水面は波紋を描く。
 妖精の一人がイェームの頭をもたげたが、眠りに落ちている彼は目を覚ましもしない。青ざめた顔に金色の雨がふりかかっても目を覚まさない。妖精はさらに幻のような笑い声をたてた。
 そして、そっとその花びらを傾けて、水をそろそろとイェームの口に注いだ。イェームは一度軽く咳き込んだが、やはり目を覚まさない。少しずつ水を飲ませ、ようやく花の中の水がからになると、妖精達はふわりと立ち上がる。
 緩まった襟から黒い紋様が浮き出ているのが見える。そのまがまがしい紋様のあたりから、ふとしろい光がわき起こった。紫の森ではある種異様にすらみえるしろい光は、優しい色をしていた。光はやがてイェームの全身に広がり、彼の身体を包み込むようになった。
 一度だけイェームは、びくりと痙攣した。そして、その口の中からキラキラと光る透明な液体のような固まり飛び出てきて、何かに引きつけられるように、ふわりと上の方に昇っていった。妖精はそれを見ている。きらきらと輝くものは、やがて空中で消滅し、光もそれと同時に収縮していく。イェームは顔を少し横倒しにしただけで、反応を見せなかった。ただ、しろい光が収縮していくのと同時に、胸の黒い紋様が少しずつ薄まっていくのがわかった。そして、光が完全に消える頃には、その紋様はすっかり見えなくなっていた。
「う、うっ…」
 かすかにイェームが呻いたのがわかった。薄目をあけて上を見ているのがわかったが、彼に妖精の姿が認知できているのかどうかはわからない。その目は霞がかかったようにとろんとしていて、とても目が覚めたという状況ではなかったからだ。妖精の一人がそっと跪き、彼の頭をそっとなでた。
『まだ眠らないと……治りきらない内に動いてはいけないわ……』
 そう呟いたのが彼にわかったのかどうかはわからない。ただ、イェームはまた目を閉じてしまった。それを確認してから、妖精はたちあがり、もう一人の妖精を顔を見合わせてうなずいた。
 そして、また幻のような笑い声をたてると、ふわりと空へ飛び上がる。飛び上がった瞬間に透明のような色になりながら、やがて彼女たちは空気に紛れるようにしていってしまった。
 残されたイェームは、いまだに夢の中にいる。それが辛い夢かいい夢かはわからない。ただ、まだ眠りから覚める気配もない。
 紫色の葉がさらさらと音を立て、その世界に飲まれたように彼もまた動かない。すでに時は日の出の時刻だった。太陽のでない空には、月と星がその時刻をかろうじて伝えているぐらいである。



 すでに朝になっていた。が、日蝕は相変わらず続いている。外は暗くて、朝だろうが夜だろうが関係がないようだった。普段ならもう太陽がすっかり昇って市が立ってにぎわい始める時刻である。
 朝早くに宿を出てきたマリスは、辺境の森の外郭に入ろうとしていた。
「ロゥレンちゃん! ロゥレンちゃーん。あたしよー、マリスよー!」
 呼びながら、歩いてみるが、いつもなら結構早く出てくるロゥレンが、全く現れない。昨日からずっと日蝕で、ロゥレンはそれに怯えて引きこもってしまっているのかもしれない。妖精にとっては、日蝕はそれほど恐ろしいものらしいのだ。
「ロゥレンちゃん、全然来ないわね。大丈夫かしら」
 ふうとマリスはため息をついた。日蝕の間、ロゥレンはどうしているだろう。不安に怯えていないといいのだが、と思う。それで、朝になってすぐに駆けつけては来たものの、暗い森を手持ちのランタンだけで進むと少し不安になる。
 心配になったマリスは腰に差した細身の剣の柄をなでた。
「少しは役に立つわよね」
 森は相変わらず暗くて深い。前はみんなで進んでいたからよかったが、一人で進むとまるで別の森のようだ。
「レックハルドさんもファルケンさんも大丈夫かしら」
 マリスはポツリという。あの時、マリスはただレックハルドを送り出したが、思い出すレックハルドの顔はまるで無理して笑顔を作っているようだった。それはきっとあんな寂しそうな顔のレックハルドを見たことがなかったからだろう。彼から預かった金貨はちゃんと今も持っているし、ファルケンがくれたという髪飾りは彼女の髪を飾っている。
「なんだか、この森に入ると、わかるような気がするんだけど…気のせいかしら」
 マリスはポツリと言った。これは予感にしかすぎないのだが、何となくそんな気がするのである。この森に入れば、あの二人の消息がつかめるのではないかという気が。
「久しぶりに会ってみたいのに…」
 マリスは呟いた。レックハルドの少しだけ照れたような笑みも、ファルケンの優しい表情も、昨日あった出来事のようなのに、彼らが戻ってくる気配もない。
 ロゥレンを探しながら、マリスは奥へと入っていった。日蝕はまだ続いたままで、太陽はその光を見せてもいない。





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©akihiko wataragi