辺境遊戯 第二部
グレートマザー−15
レックハルドは、帰途を急いでいた。草むらをかき分け進む彼には、足下の影は見えない。
「さて、とりあえずはこれをもって…」
先ほどの妖精のいったことが本当なら、イェームを助けられるかもしれない。これが何なのかはよくわからなかったが、少なくともあの妖精に悪意はなかった。
「よし、待ってろよ…もう少し…」
レックハルドは、足を速める。戻る方向は合っているはずだ。
『相変わらず、甘いな、坊ちゃんはよ。』
ぽつりと声が聞こえる。レックハルドは慌てて周りを見回したが、何もいる気配はない。
「な、なんだ…!」
少しだけ動揺して、彼は思わず短剣の柄に手を伸ばす。
『そんな考えで、他の連中がついていくとでも思ったのか?』
先ほど一瞬いわれているのは自分かと思ったのだが、そうでもないのかもしれない。声のいう内容に聞き覚えがなさすぎる。
『…メルシャアドの坊ちゃん、…カルナマク。』
よく聞くと、この声は、他の誰でもない。自分の声ではないのか。レックハルドの心が一瞬凍てつくほど冷たくなる。真っ青になって、顔を上げたとき、彼の目の前の紫色の光景が溶けて、別の光景に変わっていった。
『オレを殺さなかったのは失敗だったな! ザナファル!』
また声が聞こえた。
目の前に黒衣の男が立っていた。自分と同じ顔をした男は、うすら笑いを浮かべながら、たくさんの兵隊の前に立っていた。
いつの間にか、周りは戦場になっていた。男の前には、また大勢の兵士達だ。男は黒い服のまま立っていた。その立場にしてはおそらく若いのかもしれないが、それでも、十分に貫禄はあるようだった。
「な、なんだ…これは……」
そういえば、前に見た覚えがある。いや、忘れもしない。あの時、夢の中にでてきた鏡に映っていた男だ。
そう思っているとまた世界が溶けていき、今度はわずかに薄暗い建物の中になった。レックハルドは光の来る方を見ていた。天窓があるらしく、天井の方から光が降り注いできていた。
「相変わらず、あなたはわからない男ね…。わたしは嫌いではないわ。あなたのそういうところ」
女の声が聞こえた。どこかで聞き覚えがあるような、少し妖艶だが、何か遠回しないい方をする。天窓の光にさらされていない女の顔は見えない。暗い方から声が聞こえるが、何となく少し神聖な場所のようだった。この建物の作りが、そう思わせている。
「そうですか?」
ふっと笑い、「彼」は応える。光を嫌うように、彼は天窓の光からわずかにそれた場所にたたずんでいる。
「わたくしめは、人から理解されぬようなことはしない主義でございますが…」
誰かの記憶のようだとレックハルドは思った。強いていうなら、この男の記憶なのか、場面はとぎれとぎれで、時系列もむちゃくちゃなのかもしれない。
「おもしろいことをいうのね。…そういうすっとぼけたところは好きよ。わたしは強い男が好きだわ。強いというのは力が強いという意味だけど、何も本当に力が強いという意味ではないわ。その人が持つ長所がどれほどすばらしいかという意味ね」
くすっと女性は妖艶に笑った。
「だから、あなたのように狡猾な男も好きだわよ」
「おやおや、これはひどい。わたくしを捕まえて狡猾とは。それにお戯れはおやめください。…そもそもあなた様は、そのような下世話なことをおっしゃってはならぬ身分ではございませんか? わたくしの出自をご存じの上でそんな事をおっしゃっているのですか?」
彼は薄ら笑いを浮かべながらそんなことをいう。本気でとらえていないのかもしれないし、ただポーカーフェイスを装っているだけなのかも知れない。
「ああら? 政略の為なら、何をしてもいいのかも知れなくてよ。私もあなたと同じだわ」
でも、と彼女が目を伏せた気配がした。
「あなたは今関わっていることから手を引かなければならないわ」
「またその話でございますか?」
男は表情を崩さない。なのに、レックハルドはいいようのない不安を感じた。この感覚は何だというのだろう。寒気がする。
「今関わっていることから手を引きなさい」
急に周りが黒くなり、たたずむ男しか見えなくなった。女の姿は消え、しかし声だけが残る。男は、表情を崩していないが、レックハルドにはその男の胸中が徐々にわかり始めてきたのである。
女の声がいやに冷たく響いた。
『この件から手をひかなければ、あなた、死ぬわよ。』
ざっと全てが溶けていく。すぐに目の前が明るくなり、暗くなり、さらに映像が彼の目にとぎれとぎれに思い浮かぶ。
映像と声だけがバラバラに脳裏に飛び交い、レックハルドは叩き込まれるような情報にめまいがするような気がした。声が自分のものか他人のものかすらわからない。ただ乱雑に情報が詰め込まれる。
『お前みたいなこそ泥は……!』
『逃げろ! 家族がいるんだろ!』
『ははは、お前のことは嫌いじゃないぜ。』
『相変わらず気に入らない野郎だ! 全てを自分でどうにかできると思っているんだろ? お前さんは!』
『君には才能がある。…私はそれを信じるだけだ。』
『なぜ、そのようなことを考えるのです。あなたには感情がないのですか?』
渦巻く声に、レックハルドは耳をふさぐが、それは耳をふさいでも聞こえ続けてくる。
「や、やめろ…。なんで、オレにこんなものをみせるんだ!」
誰にともなく叫んだが、効果はない。再び声の渦が迫ってくる。
『戦場では、ずっとこんな光景が続いているの。私は何とかしようと思っているけど、それだって力になっているかどうか…』
『――オレの勝ちだ! ギルファーレス!』
『お前さえいなければ…私は全てを手に入れたはずなのに!』
レックハルドは膝をついた。このままではもたない。一時に入ってくる情報があまりにも多くて、頭が痛い。
「…なんなんだよ、…オレが、何をしたっていうんだ! 何なんだよ、これは!」
どこか遠くから矢の鳴る音が聞こえる。ああ、よけなければ、と思いながら、レックハルドはそれがどこから来るのかつかめていなかった。はっと上を見るとやじりがこちらをむいているのが見える。
『思い知るがいい! レックハルド=ハールシャー!』
名前を呼ばれ、レックハルドは大きく目を見開いた。やじりはまっすぐにこちらをむている。避けられそうにない。
「あ。ああ……!」
思い出してはならない事を思い出しそうで、彼は思わず頭をかかえた。
「やめろおおお!」
目の前には黒衣の男が立っている。彼は迫る矢に気づいているのかいないのか、ただその矢がこちらをむいているのを見ている。
それ以上は駄目だ!
レックハルドは、何故か強く思った。
――それ以上思い出してはいけない、それ以上は駄目だ!
そう思った途端、ふっと身体が落ちるような感覚があった。意識はあっという間に遠くへと去っていく。それに抵抗するすべもないまま、レックハルドは気を失った。
どさ、と音を立てて倒れ込んだのは紫色の草むらの上である。抱えていた白い花を手放したが、幸い中の水はこぼれていない。
その花に同じようなしろい指が伸びてきて、そうっと抱えて持ち上げていった。その手の持ち主は、薄ら笑いを浮かべ、たたずんでいた。とても繊細なつくりの顔をしていたが、男である。ゆったりとした服に、編んだ髪の毛が落ちていた。
「たわいない」
倒れ伏したレックハルドを見やりながら、男は軽く笑みを浮かべる。それは嘲笑といって差し支えない。
「ただ、過去を少し思い出させてやっただけだというのに」
ああ、そうか。と彼は呟いた。
「死ぬ直前の記憶はさすがに衝撃が大きいのか。いくら、貴様でもな」
そういうと、彼は歪んだ笑みを浮かべる。
「……では、今回はいい夢を見せてやろう」
白い花を手の内で遊ばせてから、男はくすっと笑った。
「どうせ、お前は生かしてはおけぬ存在だ。どうせ死ぬのなら、その前に一度はいい夢を見た方がいいだろうからな」
そういって笑う男は、何かを呼び寄せた。それは人間の姿をしていたが、全身が黒く薄っぺらい影のようにすら見えた。男は歩き出し、手で命令を伝える。影は、レックハルドを引きずりながら、男の後ろをついていく。
「さあ、本来の森へ帰ろう。…お前を待っている者がいる。もっとも――」
男はそういって笑った。レックハルドが起きていれば、彼は驚いて思わず叫ぶこともできなかっただろう。
「忘却の河を越えて戻ってきた者は、例え蘇ったとしても、もう記憶も感情もないのだがな――」
白い花をもって歩くその青年は、まぎれもなく、サライ=マキシーンといわれていた男その人であったから――