辺境遊戯・幻想の冒険者達/©渡来亜輝彦2005
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辺境遊戯 第二部 

グレートマザー−14

 長い長い夢を見ていた。
 それは長くてあまりにもひどい夢で、現実的ではないのに現実のようだった。
 暗くて、哀しい夢で、しかし、それは彼の奥に眠っていた憎悪に火をつけるのに十分なほどの夢だった。
 
 これはどうせ夢だと思いながら、どこかでそれを疑っている。
 
 ――いつか、こんな事が起こりはしないかと。

 
ファルケン…
 ファルケン…

 誰かが名前を呼んでいた。美しい女の声だった。いくらか懐かしくて、でも誰の声かは思い出せなかった。ゆっくりと目を開けると、薄い光が飛び込んできた。ぼんやりした頭をようやく働かせて、彼は起きあがった。
「それは、オレの名前なのか?」
 彼はそう訊いたが、声は聞こえなかった。枯れた木の中にいるようで、彼は空を見上げた。赤い月が不気味にかかっているだけで、よくわからない。
 身体の上に枯れた花が撒かれていた。目が覚めたばかりの彼には、それが少し不気味で、慌てて払い落としてしまった。彼は起きあがり、上から落ちる月の光で自分を見た。何故か着ている上着には、血痕が残っていて、それが不気味に思えて、彼はそれを脱ぎ捨ててしまった。だが、急に寒くなってしまった。着ている薄い長袖の服では、この寒さには耐えられそうもない。困っていると、起きあがったときにはねのけた紺色のコートが見えた。それを恐る恐る拾い上げてみて確かめてみたが、汚れはない。それを着込んでみると、そもそも砂漠や草原の気温差の激しい土地のコートは、案外暖かく感じられた。
 とうとう彼は、木の中からそうっと出てみた。目の前には砂しかなかった。不気味な赤い月に揺り動かされて目を覚まし、半分砂の中に埋まった場所からはい出してきた彼には、全てのものが不気味だった。持っていた刃物は恐かったが、それでも持っていかないわけにはいかなかった。彼の勘がこの世界は危険だと告げていたので、せめて護身のためにと思って、仕方なく持ち出した。
 全てのことを忘れていた。何もわからなかった。ここがどこであるか、自分がなぜあんなところで眠っていたのか、何故身体の上に花が置かれていたのか、何故血だらけのまま寝ていたのか。自分の名は何というのか。自分は一体何者なのか。
 何もかもわからなくて、ただ、彼は恐かったのだ。恐かったが、一人でいるのも恐かった。
「ミメル」
 何もかも忘れたはずなのに、一人でいてあまりに恐かったので、彼はついにその名前を思い出した。そうだ、ミメルに会いに行こうと不意に思った。「ミメル」は、きっと彼の味方でいてくれる。ずっと昔からそうだったし、彼女だけは変わらないと思っていた。彼女を見つければ、きっと自分が誰であるかも教えてくれる。どうしてこんなところにいたのかも全部教えてくれるはずだ。
 冷たい砂の大地をずっと歩いていた。寂しかったが、泣き言を言っても誰もきいてもくれないのだから、言っても無駄なのだ。彼は無言で歩いた。ミメルにさえ会ってしまえば、こんな辛い思いなどしなくても済むとおもった。
 枯れ木が墓標のように突き刺さる黒い砂漠で星だけが心細そうにきらきら輝いている。どれだけ歩いたのか知れないが、不意に彼は足を止めた。向こうに人影が見えたのである。
 一瞬期待したが、期待とは裏腹にそれは若い男だった。ふらつく足取りでざくざくと砂をかき分けながら、男はそこまで歩いてきた。元々痩せていたのに、長旅で、さらにやつれたような顔をした男は、見覚えのない人間だった。
「ああ、よかった…ここにいたのか?」
 青年は、彼に気づくと、うっすらとほほえみを浮かべ、手を伸ばした。
「どこにいってもいないからよ。本当に蘇ったのかどうか不安になってたんだ」
「『だ、誰だよ?』」
 とっさに口から出た言葉は辺境古代語で、青年にはまるで通じていなかった。彼は不気味な者でも見るように後ずさりした。彼にとっては、ミメル以外の何者かは全て知らない不気味な存在だった。男はわずかに首を振った。
「どこへ行くんだ? なんで、逃げるんだよ?」
「『だ、誰なんだ? あんた、誰なんだよ!』」
後ずさる彼を見て、青年はあきらめたように笑った。
「ああ、そうか…。わからないんだな、オレのことが…。あいつらの言ってることは本当だったのか……。忘れちまったんだな、全部」
 青年は、青い顔でそう言うと、膝をついた。長いコートに隠れてよく見えなかったが、よく見るとその脇腹は赤く染まり、ひどい怪我をしているらしいことがわかった。彼は、何故か胸の奥で何かがちりりと痛むのを感じて、慌てて彼に駆け寄った。何故か、助けなければと思ったのだ。そこに跪いて、彼は様子をうかがった。青年はにっと笑った。
「……どうしたってか? ふ、ふふ、…そうだな、……司祭に逆らった報いってところか。わかるだろ…オレはもう長くない」
 彼の話す言葉は聞いたことがないはずなのに、彼はそれを理解できた。心配そうに、しかし、どうしていいものやらわからずにたたずんでいる彼を見上げながら、青年は言った
「マリスさんを見かけなかったか? 赤い巻き毛の娘だよ。…見なかったのか」
 マリスといわれても彼にはわからなかった。ただ、誰も見ていないのは確かだった。だから、彼は首を振った。青年は、少しだけ辛そうな顔をした
「そうか…。見かけたら、…あの子だけは助けてやってくれ。…お前にこんな事頼む義理じゃもうないことはわかってるんだが、……オレの代わりに助けてくれよ……オレはもう助けてやれなさそうだから、な」
 青年を苦しめるつもりはなかった。彼は、少しだけ微笑んだ。ただ、安心させてあげようとおもったのだ。青年はふっと笑い、そして、座っていられなくなったのか、昼寝でもするように寝ころんだ。そして、にやりとした。自嘲的な笑みだった。
「へっ、格好悪いなあ。……最後まで、人任せなんて、……オレは、なんて無力なんだろうな……。馬鹿馬鹿しいぜ」
 哀しそうにいいながら、彼の声は少しだけ小さくなっていった。 
「かっこわるいついでに、とどめでも刺してくれよ。…正直、もう苦しくて何分ももたねえんだ……。すっきりあの世にいかせてくれ……」
 いきなりそう言われて、彼は困ってしまった。ただ、何故かその青年を助けなくてはと思いながら、彼はうろたえたように彼を見ていた。それをみた青年は、にやりとした。
「なんだ、その面は。オレが、こんな辛い目にあってるんだからよ、もっとうれしそうな顔しろよ。…いいんだ、当然の報いだろ…笑えよ」
 彼はとっさに首を振った。少なくともそういう気分にはならなかった。
「笑ってくれよ…もっと苦しんで当然だっていって笑えよ…だったらオレは、お前のこと憎しみながら死ねるのによ…。最後まで気のきかねえやつだな……。ちょっとは気が晴れたのにさ…。馬鹿野郎が」
 苦笑しながら彼は言った。
「……畜生、くやしいな…。お前、最後まで勝ち逃げかよ……。お前って奴はオレの予想をいつも裏切るんだよな、ファルケン。お前には勝ち目ねえなあ。ホント、お前だけは気にくわねえよ」
青年の色のない唇には、寂しげな笑みがのっていた。
「色々、すまなかったな……。オレは何一つ守れなかった……。でも、これで…オレが、こんな…み、惨めな死に方することで……も、もう…勘弁してやってくれ…よ。オレは、……もうこれ以上…お前に……」
青年は、自嘲的に笑いながら、哀しげに呟いた。
「……どうやって償えばいいのか、わから…ねえ……」 
一瞬だけ、青年の手が痙攣したのがわかった。かたり、と落ちたその手の意味を、彼はすぐにはわからなかった。前みたいに薄ら笑いを浮かべている彼の顔は、それとは裏腹に後悔に満ちていた。
「あ、ああ…!」
 思わず「ファルケン」は、声を上げた。全てわからなかったはずなのに、思い出す時間など本当は、一瞬でよかったのだ。その一瞬で、彼は全てを思い出してしまった。一気に頭の中に濁流のように記憶が蘇ってきて、彼は慌てて青年の名前を呼んだ。
「レ、レック! レック!」
 ようやく思い出した名前を呼んだが、血の気を失ったものはもう応えなかった。それどころか身じろぎ一つしなかった。
「レック! レック! レックハルド!」
 名前を立て続けに呼んでも、彼は返事をしなかった。
「そんな……なんで……」
 彼は首を振り、そっとレックハルドに手を伸ばしたが、その途端、彼の身体は砂になってざらざらと崩れ始めた。
「ああ! ちょっと待ってくれ! そんな……!」
 折角思い出せたのに、思い出した直後にこんなひどいことがあるものか。ファルケンはそう思いながら、これは嘘だと自分に言い聞かせる。人が砂に変わるわけなどないのだから、そんなはずはないと言い聞かせる。しかし、当のレックハルドはとうとう全て崩れてしまって、黒い砂に同化してその影も形もなくなってしまった。
「…そんな……こんな事って…」
 彼は首を振って、その場にうずくまった。
「レック、何なんだよ、これ……。説明してくれよ……」
 さっき、償いがどうの、お前に頼む義理はだの、どうして彼がそんなことを言ったのか、彼にはまるでわからない。見当がつかなかった。
 だが、彼に混乱している暇はなかった。後ろから、急に悲鳴が聞こえて、彼は慌てて振り返る。何があったのかはわからなかったが、赤い髪の娘が、ちょうど倒れるところだった。
 その赤い髪の巻き毛に、優しい瞳の女性を、ファルケンはよく知っていた。
「マ、マリスさん……!」
 彼は、慌てて倒れ伏したその女性を抱き起こしたが、抱き上げた途端にそれは砂になってボロボロに崩れて、彼の手の内からこぼれてしまう。みんな黒い砂の中に戻っていってしまうのだ。
「ああ! 駄目だ!」
 ファルケンは、どうにか元に戻ってくれとばかりに、砂をかき回したが、どうにもならない。
「ああ、さっき、オレは、助けるって約束したのに! ああ、あんただけは助けるって、オレは……」
うずくまりながら、彼は絶望した。風の音が鋭く冷たい。黒い砂を巻き上げながら、やがて彼も彼女もどこかに連れ去ってしまうだろう。
 彼はようやく立ち上がり、そして、目を凝らした。何故気づかなかったのだろうと思う。この世界は、死で満ちている。
 向こうの方で、倒れ伏している男女が見えた。慌ててそちらに走っていった。近づくにつれその正体がわかった。
「ダルシュ……シェイザス……」
 立ち止まり、口に出した途端、二人の身体はやはり砂になって、ざらざらと崩れてしまう。何とかそれを止めようと、走っていこうとしたとき、彼の横から声が聞こえた。
「ファルケン!」
 そちらに目を向けると、ほとんど消えそうなぐらいの姿のロゥレンが呆然とたたずんでいた。
「ファルケン、あんたのせいじゃないのよ…ただ…こうなるのは運命なの…」
 ロゥレンは小さくて消えそうな声でそう言うと、真っ青な顔を彼に向けていた。青い顔をした彼女を見て、ファルケンは震える声で彼女の名を呼んだ。
「ロゥレン? それって…」
 声をかけた時、ロゥレンは何かを応えようとした。だが、何も話せない内に、さらさらと徐々に彼女までが砂になって崩れ落ちていく。
「ロ、ロゥレン!」 
 慌てて抱きしめたが、やはり同じなのだ。彼の手から全ては滑り落ちていく。何も残らない。ファルケンは、空を抱きしめる形になって、呆然とした。そして、向こう側を見て、さらに愕然とした。
 向こう側にもおびただしく倒れている人の影が見えていた。彼の仲間の狼人達であることは、すぐに予想がついた。もう見に行く気力もなく、彼はその場でがくがくと震えた。
「あ、ああ…」
 思わず彼は、口を押さえて後ずさった。
「オ、オレは……オレは……こんな事をのぞんだんじゃない!」
 彼は周りを見回しながら、首を振った。周りにあるのは、暗闇と墓標の群れだった。何もなかった。
「オレは、ただ、あんた達が平和に暮らしてくれればと思っただけだ! そのために、身を捨てたつもりだったのに! なんで!」
 何もかもが裏目に出たのかも知れない。レックハルドは、きっと自分が死んだことを負い目に感じて、無理をして、そして、彼自身の将来を捨ててしまったのだろう。彼のやった無理が何であるかは知らないが、それがこの世界をこんな風にしてしまったことに一役買っていることは何となく予想がついたのだ。それで、全てがこんな哀しいことになってしまったのかもしれない。浅はかに、あの時よかれと思って、安易に決断を下した自分のせいだとファルケンは思った。自分を犠牲にしたことで、彼らにどれほどの重荷を自分は押しつけてしまったのか。
「オレ、……オレがあんた達をこんな風にしてしまったのか! なあ、応えてくれ!」
 彼は、手を広げて叫んだが、誰も応えるものはいなかった。寂しい大地に、生きているものは彼しかいなかったのだ。
「オレはみんなを守りたかったんだ。それだけだったんだよ! 信じてくれ! 誰も恨んでなんかなかったんだよ! 本当なんだ! レックを責めようだなんて思ってなんか、なかったんだよ!」
 辺りに言い訳を叫び散らしながら、周りを見ても、消えたものが応えてくれるはずもない。ファルケンは、次第に小声になった。
「こんな筈じゃなかったんだ……オレはみんなを助けたかったはずなのに……オレは、ただ……ただ……!」
 ぼろぼろと大きな目から涙が溢れてきた。いつもは、けして何があっても泣かないつもりだった。昔、そう誓ったのだ。何があっても、絶対に涙は流さない。泣いてばっかりいた自分は弱かったから、強くなるために泣かないでおこうと決めた。それは、彼なりの意地でもあり、見栄でもあった。
 でも、今はそんなことはどうでもよかった。そんな見栄も意地も要らなかった。そんな意地を張って強くなっても、こんな何もない世界では何の意味もない。ただ、絶望感だけが彼の心を支配した。
「オレは……」
 がくりと砂の上に膝をつき、ファルケンは、地面に倒れ込んだ。折角、再びこの世界に戻ってくることができたのに、彼の心には喜びなどわき上がっても来なかった。ただ、深い哀しみと絶望と、そして、徐々に腹立たしさが身体の中を回り始めた。死んだままでいられればよかったと思ったが、もう後の祭りだった。
 今更何をやっても無意味なのだ。黒い大地を涙が濡らしても、例え、彼がもう一度死んだとしても、誰も帰ってきてなどくれないのだから――。
「うわああああああああああ―――!」
 泣きながら、彼は暗闇の空に吼えた。それは、戻ってこない過去を悔やむように。判断を間違えた自分を呪うように。こんな何もない世界などいっそのこと消えてしまえとばかりに、恨みと呪いを込めて、彼は絶叫した。


 長い長い夢を見ていた。
 ずっとあの時見ていた夢を繰り返し繰り返しみるばかりだ。
 
 全てをひっくり返すのは簡単なことだった。噂に聞いただけだったが今の自分ならやれる。
 別に何に対しても執着がないのなら、恐れる必要はない。ただ、恐いのは、それをやって、果たして自分の思うとおりになるかどうかというだけである。
 もし、それが自分の思うとおりにならないのならば、やった意味が無く、犠牲があまりにも大きすぎることになる。巻き込む人々に申し訳が立たなくなるだろう。
 
 ――彼が恐かったのは、ただそれだけだ。だから、あるいは直接行動に移せなかったのかも知れない。
 
 まどろみながらも、まだ彼は迷っている。それを実行するべきか、否か。





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©akihiko wataragi