辺境遊戯 第二部
グレートマザー−12
風の流れが速い。
森をさまよい歩くレックハルドに、夜風は冷たく吹き付ける。
「くそっ! 水が無くなるとはな…油断してたぜ」
レックハルドはそう吐き捨て、手に持った入れ物を見た。
「…泉なんてどこにあんだよ…。ったく、あいつ、一体どこから水なんて……」
森の闇は深い。一人で出歩くなといわれたが、そういうわけにもいかない。草の深いなかを用心しながら歩いて進む。月は傾いていた。いま一体いつなのか、昼間から続く日蝕のせいで時間の感覚が曖昧になっている。
『どこにいくのですか?』
ふと冷ややかな声が聞こえ、レックハルドは振り返る。先ほどまで暗い森があったそこには、紫の巨木が立っている。グレートマザーに違いなかった。どうやら、彼女達は、魔力をつかって、他人をどこからでも引っ張ってこられるらしい。
『…目的は果たしたのですか?』
「オレに何を言わせたいんだ?」
レックハルドは、むっとしたように言った。
「あいつの血の色でも答えろとでも言うのかよ?」
『いいえ、答えなくてもわかりますよ。レックハルド。』
グレートマザーは相変わらず事務的な声で言った。レックハルドの反抗的なまなざしを受けながら、彼女はそのままの声で言った。
『あなたの身体には、血のにおいがしません。――イェームを殺さなかったのですね?』
「それの何が悪いってんだ!」
レックハルドは、怒鳴りつけるように言った。
『いいのですか? だとすれば、ファルケンは蘇りませんよ?』
「またそれか! いい加減にしてくれよ!」
レックハルドは、両手を広げて抗議するように叫んだ。
「オレはなあ! もうあんたの残酷な駆け引きにはうんざりなんだよ! …オレは別の方法を探す! あいつが、妖魔でも、あいつもファルケンも両方助ける方法だって、どっかにあるはずだろ!」
『それであなたはいいのですか? …チャンスを棒に振るのですよ。』
マザーは、念を押すように執拗に尋ねた。
「うるせえっ! あんたのいうことは、もう聞くつもりなんかねえよ!」
レックハルドは、怒りにまかせて叫ぶように言った。
「何がマザーだよ! 何が命の元だよ! あんたの強制してることは、ただの人殺しじゃねえか! あんた、ただ、命をもてあそんでるだけじゃねえかよ!」
グレートマザーは何も言わない。レックハルドはさらに腹立たしくなって勢いに任せてきつい口調で言った。
「あいつは妖魔だから殺していいのか? ふざけるなよ! …妖魔だろうが何だろうが、元々はあんたの管轄していた子供達なんだろ! なのに、消していいって言うのか! 騙したまま殺して、それで終わりにしようっていうんだな!」
レックハルドは、目を逸らさずにまっすぐにそれを見上げていた。
「ファルケンだって、そういえばそうだった…! ちょっと火が使えるってだけで嫌われて、でも命がけで、あれだけ辺境の為に尽くしたのに、結局、ゴミみたいな扱いされて殺されちまった…!」
レックハルドは、わずかに歯がみした。
「あんた達は本当にご立派だよ! …あいつは、辺境が何よりも好きだった。本当は戦うのなんて、嫌いだったんだよ、あいつは! でも、皮肉だよな、結局、あいつは、一番好きだった者に切り捨てられて死んだんだ! 見上げた冷徹さじゃねえか。そうだろうよ、それほど割り切れれば苦労はしないぜ。オレだって……!」
『ファルケンは――』
ふとマザーの声が聞こえた。
『あなたを、最終的に裏切ったのではないのですか? あなたとの契約を反故にしてまで、辺境を助けに行ったのですよ?』
「…確かに、そうかもしれない。あいつ、意外にひでえ奴だからな。あいつの優先順位にオレ達を含む人間なんかよりも辺境の方が先に来てたのかもしれねえ。いいや、実のところそうなんだろうな」
レックハルドは、少し考えていった。
「でも、誰にだって何を犠牲にしたって守りたいものぐらいあるだろ。…たまたま、あいつにとっては、それが辺境っていうものだっただけだ。オレだって、その気持ちはわかるよ。オレも多分そうだろうからさ」
さらさらさら、と音が鳴った。紫の葉が宙を舞っていた。その間を幻のような美しい妖精達がふわふわと飛んでいるのが見える。
『―――――。…そう…ですか。』
不意にマザーの声が聞こえた。
『――あなたは、そちらを選ぶのですね。後悔はしませんか?』
レックハルドは唇を噛んだ。
「する…かもしれねえ…。でもかまわねえよ!」
レックハルドの目は鋭かった。瞳には、光が宿り、紫の巨大な樹木を睨み付けるように見た。
「あいつは、オレの基準で全てを決めろといってた。…もしかしたら、オレの都合のいい解釈かも知れねえよ。でもなあ……!」
レックハルドの頭の中には、一人の女性の姿があった。赤っぽい髪の毛の、優しい笑みの大きな目の娘、つまりマリス=ハザウェイである。
「オレは、今までさんざ悪いことはしてきた。でも、オレにだって軽蔑されたくない人だっているんだ。あいつの寝首をかくような真似はしねえ。…もし、殺さなければ道がないというなら、直接オレの口からそう話す。何も知らせないまま殺すなんて、そんな真似をすれば、オレは最初から人間の屑みたいなもんなのに、存在する価値すらなくなっちまうだろうぜ」
レックハルドはきびすを返した。
「それにな…、オレは、あいつを殺したくない。同じ顔の死体を二回も見るなんて考えただけでもおかしくなりそうだ! わかったろ! もう…あんたがどういおうが、関係ないぜ! オレは、自分で方法を探す。それで失敗してオレが死んでも、それは自業自得って奴だろうからな!」
グレートマザーは答えなかった。
「もういいだろ! オレは急いでるんだ!」
レックハルドは、そのまま身を翻して走っていく。やがて、その世界は紫色の葉の舞い散る空間を抜けていった。
ざわざわざわ、と葉擦れのような音が聞こえる。古い大木は、ただそこにたたずんでいた。
『……行ってしまった?』
ぽつりと声が聞こえた。そして、今まで息を潜めていたものが、やがてその下に現れ始めた。隠れていた妖精と狼人が、そろそろと周りに姿を見せ始めた。沈黙を続けるグレートマザーに、彼らはそうっと聞いた。
『偉大なる主よ…』
『あの男はどうでしたか?』
『…消えてしまわずにすみましたか?』
『あれで、よかったのでしょうか?』
心配そうに、彼らはぽつりぽつりと訊いた。
『大丈夫です。』
グレートマザーは、レックハルドの消えた先を見ているかのようだった。
『心配はいりません。お前達の目に狂いはありませんでした――。あの子はいい友人をもったようです。』
少し安堵したように彼女は呟いた。そして、ほうっとため息をついて、少し優しい声になった。
『人と我々は相容れるべきです。…だから、私たちは、狼人と妖精
を人に似せて作った。何度も繰り返される戦いの中、それは大きな間違いだったかとも思ったけれど――希望はないわけではないのです。』
暗い空はまだ闇をたたえている。夜明けの気配もない。
『いつか……』
グレートマザーはぽつりとささやくように呟いた。
『お前はいつか思い出すのかもしれません…、あの時、一体、何があったのか…』
言葉を聞いている筈もないレックハルドにそう語りかけながら、グレートマザーは深く息をついた。その吐息はそよ風になり、草を揺らした。
『…それは、全てが楽しいことだけではないのでしょうが…。』
さらさらさら、と音が聞こえた。グレートマザーの巨木が、うっすらと金色に輝き、その大きな葉からはらはらと水滴が流れた。それは、数え切れない枝の葉から同じように流れていった。高い枝の葉から流れ落ちるそれは、まるで金色の雨のように森へと降り注いだ。