辺境遊戯 第二部
グレートマザー−11
最初に目にしたのは、荒廃した大地だった。丸い月が、赤みがかったまま中空にかかっていて、とてもとても寒かった。
彼は一人そこに立ち、異様に綺麗な円を描く赤い月を眺めていた。荒廃しきった空気が、冷たく周りを包んでいた。人の気配はなく、生きている者は彼以外いなかった。折れた木々が砂の上に突き刺さるように、枯れたまま立っていた。
どうしてこんな事になったのか、全く意味がわからなかった。何も覚えてもいないし、誰のことも覚えていない。
ただ、その時の予感で全てわかった。
自分には、もう戻る場所はない。頼れる人もいない。この荒廃した大地は、彼が好きだった全てが死滅した結果なのだと言うことを。
――その時に、真っ先に湧いた感情は、きっと哀しみで、やがてそれは怒りと憎悪へと変わる。こんなに激しい憎しみを覚えたのは、多分生まれて初めてのことだった。
その時に、赤い月を見ながら、彼は初めて思った。
自分から全てを奪い去った存在が許せない。自分と同じ思いを味わわせてやる。
それが、ここに立っている自分のたった一つの使命であり、彼らに対する謝罪と感謝だった。
その時の思いを表現するには、今まで大人しかった彼には、あまりなじみのない言葉を使うしかなかった。彼の大きな目は、赤い月を見つめたままで、徐々に獣じみた殺気が取り巻いていった。それは、彼を昔の彼から、明らかに違うものへと変貌させていった。それを通り越してしまえば戻れないことはわかっていた。わかっていたが、彼に他の選択肢など無かった。
流した涙をぬぐいもせず、唇を血がにじむほどに噛みしめながら、彼は剣を握りしめた。そして、彼ははっきりとこう思った。それはあまりにも強い感情で、今までの彼を簡単に吹き飛ばしてしまった。
――このままじゃすまさねえ。絶対に復讐してやる。
「どう…したんだ?」
小さな声が聞こえ、レックハルドは不意に我に返った。頭から突然冷水を浴びせられたような気がして、彼は思わずびくりとして、その場に短剣を取り落とした。イェームは目を開けていたが、まだまどろみの中だったのか、彼が短剣を取り落としたことに気づいていない。やがて、意識がはっきりしてきたのか、彼は空を見上げて、どうやら星の位置を確かめたようだった。
「…あの星がのぼるようじゃ、もう夜だな・・・」
「お、起きてたのか?」
真っ青になりながらレックハルドは、ふるえる唇をごまかしながら訊いた。
「ああ、…今、目が覚めたんだ? どうしたんだ? 何かあったのか?」
「いや、何でもない」
レックハルドはとっさに首を振った。イェームが疑う気配はない。
「そうか、それならいいんだが…」
イェームは、それから思いだしたようにいった。
「あまり森を歩かない方がいい…。日蝕も起こっていたし、この辺りには嫌な気配がする。守護輪、ないんだろ? だったら、邪気が寄ってきやすいんだ。気をつけないと…」
「あ、ああ。そうだな」
レックハルドは平常を装って、首を振ってわずかに笑った。イェームは、不意にため息を深くついた。
「…悪かったな。オレがこんなになっちまって…こんな筈じゃなかったんだ……」
後悔と気まずさが入り交じったような口調である。そのままで彼は続けた。
「勝てると思ってたんだよ。そう、計算では勝てるはずだったのに。それだけの自信はあったんだけどな…。結局、こんな無様な負け方して、あんたの足までひっぱっちまって…オレは…」
イェームはレックハルドから視線をはずしてぽつりと言った。
「どうしようもねえ馬鹿だ…。…こんな事になるのなら、方法を変えれば良かった。オレは自分を過信してたんだ」
「気にするなよ。計算違いは、誰にでもあることだろ」
こんな状態でも、レックハルドの口は、状況にあった言葉をはき出すことができた。それに驚きつつ嫌悪したが、彼の口は相変わらず、上辺を取り繕うような言葉を続ける。
「ほら、休んでたほうがいいんじゃねえか。お前に案内さえしてもらえれば、聖域にいけるんだろ。あの司祭のいったことは気にするな」
「そうか…」
イェームはそう言って少しだけ寂しそうに笑った。
「…ありがとう。そうだな、まだ全てが終わった訳じゃなかった。あんたを聖域に送り届けるのがオレの役目だったんだよな? なら、こんなところで愚痴っている場合じゃない」
一瞬、レックハルドはぎくりとした。先ほど、自分が何をやろうとしていたかが、急に思い出されて、目の前のイェームと重なった。
先ほど、笑みすら浮かべてイェームを殺そうとしていた自分を、彼はまだ協力するつもりでいる。信頼されているのは、その言葉をとっても、目を見てもよくわかった。だから、レックハルドは、これ以上、この場にいたくなかった。しかし、逃げ去れば、全てが露見してしまう。わずかに顔色を変えたレックハルドに気づかずに、イェームは、少し目を閉じた。
「身体が治れば、絶対にあんたを無事にマザーのところまで案内できるよ。約束する。…だから、すまねえが、明日の朝まで眠らせてくれ」
「あ、ああ。そ、それは構わないが」
レックハルドは声をかけられて、反射的にそう答えた。イェームはすでに半分眠っているようだった。眠りに入りながら彼はこうレックハルドに告げた。
「明日の朝になれば…オレも動けるはずだから……。そうしたら、今度はあいつらにも……必ず勝って…」
声がとぎれ、イェームは軽く寝息を立てて眠り始めた。レックハルドは、そこに呆然とたたずんだまま、それを見ていた。
――オレは、何を考えてたんだ!?
頭から氷水をかぶせられたような気持ちだった。先ほどまでは、妙にいい気持ちになっていて、今から行う行為の重大さに気づかなかった。人を殺そうとしていたということも、それが自分を助けてくれた者であることも、罪の重さなどには気づかず、平気で切り捨てようとしていた。
「今、オレは、とんでもないことを…! な、なんでだよ? オレは、そんなことを考える筈はないのに!」
レックハルドは思わず口走りながら、あの時と同じだ。と思った。あの時、――つまり、ファルケンが死んだ日、自分が燃えさかる森へと向かった時に、声が聞こえてきたときと。あの時もそうだった。誘惑のような声が、レックハルドにファルケンを見捨てさせようとした。見捨ててはならないと思っているのに、その感情をすり替える力があれにはある。楽な方に流れさせようとして、悪い筈のことをいいことのように思わせるのだ。
(オ、オレは、オレは、お前を殺そうとしてたんだぞ……)
レックハルドは震える手を反対側の手でつかんだ。眠ってしまったイェームの顔を見ながら、彼はあの視線を思い出す。今さっき、彼を殺そうとしていた自分を見ていたあの目には、なんの疑いもなかった。先ほど、それほど信頼してくれているのに、それを逆手にとって殺そうとしていた。
理由は、やはりその方が楽だからだ。どうせ、イェームは妖魔だし、助けたところでどうになるものでもない。それに、自分はファルケンを助けて、さっさとこの罪悪感の縛りから解き放たれる。どうせ、イェームはファルケンの「一部」であるはずだから、消したところで会えなくなるわけでもない。恩人を殺すという行為や自分で手を下す事への嫌悪や恐怖が消えてしまえば、そちらの方がファルケンを見捨てるよりは、よほど合理的だ。あの声は、嫌悪を消すために聞こえたのかもしれない。
だが、もう駄目だ。一旦、正気に返って、レックハルドはイェームの言葉を聞いてしまった。もう一度冷徹に合理的に考え直すことはできない。例え、イェームを殺した方がいいのであっても、先ほどの言葉をきいてしまっては冷徹にはなりきれなかった。情にほだされたといえば、そうなのかもしれない。イェームとの旅は辛い事が多かった。だが、それなりに楽しいこともあったのだ。彼がいなければレックハルドは、砂漠でとうに死んでいたか、正気を失っていたかのどちらかだっただろう。
「ど、どうすればいいんだよ……!」
レックハルドは、動揺して思わず後ずさった。
――殺さなければ道はない。そう思うが、そう思うことも辛くなってきた。
「ああ、ファルケン!」
レックハルドは思わず天を仰いだ。
「教えてくれよ、お前なら、こういうときどうするんだ?」
他にすがれるものは何もなかった。レックハルドは思わず口にしていた。
「お前ならどうする? …教えてくれ、もう一度だけでいいから、オレを助けてくれ!」
『森は人を惑わす。』
ふと声が聞こえたような気がした。
『判断に迷っても、何の誘惑にのっちゃいけないぜ。あんたは、いつものあんたらしく選んでいけばいいんだ。』
思い出した。これは、泉の向こうであったファルケンの言葉だ。
『オレはいつでもあんたの味方だよ。』
あの時、ファルケンは、ただそれだけ言っただけだった。だが、今になって、あの時の彼がどうしてそう言ったかがわかるような気がした。彼は、自分は基準にならないといったのだ。自分はいない人間だから干渉はできない。だから、選んだ結果がどうなろうが、文句は言わない。そういう意図で彼はそういったのだろう。
――何をどうしようが、すべてはあんたの自由に。オレにはどうする権利もないさ――
ふっと声が聞こえた気がした。あの別人のようなファルケンでも、間違いなく本人だと思わせる「何か」があった。だから、レックハルドは彼を信じた。
「何をするかは、オレの自由?」
レックハルドは、反芻するように呟いた。ちらりと寝ているイェームの顔を見る。その顔は、彼によく似ていて、あの時魔幻灯の中に見えた黒いものとはまるで違った。レックハルドは、ため息をついて目を閉じた。
「オレが決めればいいんだな…。すべては、オレの基準で……」
レックハルドは拳を握り、そして短剣を拾い上げた。
暗い森の中、紫色の枯葉がはらはらと落ちてきている。目を閉じていたレックハルドは、ふと目を開いた。瞳に決意を秘めたまま、彼は一歩前に足を進める。ざく、と落ち葉が鳴った。
「すまん………」
レックハルドはぽつりといった。