辺境遊戯 第二部
グレートマザー−10
どうしよう。どうしたらいいものか。
紫の森は、どんどん色を濃くしていた。闇が深まってきているのだ。これは、日蝕のせいではなく、日蝕のまま夜が訪れているせいに違いない。いったい、今いつなのか、それはよくわからない。ただ、今のレックハルドには、今がいつかなどということとはどうでもよかった。
腰の帯には短剣がある。レックハルドは戦士ではないし、長い刀より短剣の方が使いやすいので、いつもそこに護身用にさしている。草原の民が常にそうしている形式がそうだからということもある。
その柄にちょっと手を伸ばし、少し触れてはまた離し、レックハルドは先ほどからずっとそうやっているのだった。
「どうすりゃいいんだよ…!」
レックハルドは小声でいって、ため息をついた。もう悩むのにも疲れてきた。
「のんきに眠りやがって…!」
あれからずっと眠りっぱなしのイェームをみやった。少し雑音混じりの呼吸音からわかるように、まだ万全の状態とはいえないようだ。
髪の長さがやや違うし、ひげもはやしていない。だが、そこに寝ているのは、彼のよく知っていた狼人と全く同じ顔をしていた。ただでさえ迷うのに、そうなれば迷いも一塩だ。短剣に手をかける行為も、あの時を思い出して、古傷をえぐられるような思いすらする。
「寝ている間に裏をかかれることだってあんだよ!」
小声で吐き捨てながら、レックハルドはまた短剣に触れ、そして首を振った。
そう簡単に決断できることではない。
――自分を助けてくれた仲間を殺すなどということは…
グレートマザーは、もう一度言った。
『あなたが手を下さねばなりません。イェームをその短剣で、あなたの手で殺しなさい。そして、私にその血を見せるのです。ならば、私は、彼を生き返らせましょう。』
レックハルドは、慌てて首を振った。
「そ、そんな…。そんなこと…! あ、あいつは…!」
唐突のことに、焦る唇をどうにか動かして、レックハルドは言った。
「あいつは、あいつは、オレを助けてくれたんだ。今は、あいつと同じ呪いで苦しんでるってのに…そんなことを、どうして!」
レックハルドは、青くなって言った。
「こうなったのも、全部オレのせいなんだろ! だったら、オレが責任とって死ぬ!
それじゃ駄目なのか!」
『あなたは、また逃げるのですか?』
マザーに、言われて、レックハルドはびくりと顔を上げた。
『どうして、それができないのですか? あなたはファルケンを死に追いやった。そして、それを償うためにここにきた。違いますか? なら、どうしてできないのです? ファルケンがあなたを許すといったからですか?』
畳みかけるようにマザーは言った。
『あなたは、本当は、ファルケンに甘えているのでしょう? …だから、自分の目の前の現実から目を背けて、上辺だけ自分に優しい者を助けようとするのです。イェームは、ファルケンに似ていて、そして、あなたにも優しい。折角仲良くなったのにそれを殺してまで、昔の親友を助けようとは思わないのでしょう? つまり、あなたは過去を切り捨てようとしているのでしょう。』
「違う! そうじゃない!」
レックハルドは咄嗟に叫んだ。
「あいつは、確かにオレを許すといった。それで救われた気分になったのは本当だ。でも、許されたからといって、助けたい気持ちまで無くなったわけじゃない!」
『だとしたら、何故できないのです? あなたは、ファルケンの為に、何でもするといったではありませんか? 違うのですか?』
「そ、それはそうだ。でも、あいつはオレの命の恩人なんだ! 何度も助けてくれた。それを殺すなんて、あんまり……。あいつは、オレのことを信用してくれているんだ。…オレのことを疑いもしてないのに!」
『だから、あなたでも殺せるのですよ。…そうでなければ、あなたはあのイェームに傷一つつけられない。自分の弱さはわかっているのでしょう?』
背筋が凍てつくように冷たくなった。呆然とたたずむレックハルドに、グレートマザーは、静かに告げた。
『私が言った事を忘れましたか? レックハルド。私は、彼の正体は妖魔だと言ったのです。あれを生かしておけば、いつかファルケン自身が苦しむのですよ。これは、ファルケンを助けるために必要なことです。あなたは、別に悪いことをするわけではない。あなたは悪くないのです。』
声がすーっと遠のいていった。同時に空間が暗くなる。紫の葉が舞い散る中、マザーは最終宣告のように告げた。
『わかりましたか、レックハルド。イェームを殺しなさい。』
「待ってくれ!」
グレートマザーが、自分を元の空間にもどそうとしているのはすぐにわかった。だから、レックハルドは叫んだのだ。それでも、マザーは待ってくれなかった。
そして、レックハルドは、元の場所に戻って、今に至るのである。
どうせ殺すならせめて、楽に殺してやるしかない。とは思う。だから、眠っているうちに、一撃で、とは思ったのだが、なかなか柄を握ることができなかった。
このまま悩んでいたら、きっと朝まで悩むだろう。そうすれば、イェームが目を覚ましてしまう。目を覚ませば、情にほだされて手を下すことなどできなくなる。
「くそっ! 仕方がねえんだよ!」
レックハルドは、癇癪を起こしたように叫ぶと、短剣を勢いよく引き抜いた。
「お前のためでもあるんだ!」
そういって、レックハルドは、イェームに近寄った。深い眠りに落ちているらしいイェームは、多少熱もあるらしく、ずいぶんと弱っている様子だった。
(大丈夫だ)
今なら目を覚まさない。今なら、たぶん、できるだろう。手はずは整っているはずだ。
(だが、こいつは本当に妖魔なのか?)
レックハルドは、ふとそう思った。ためらう理由があるとすれば、まず、マザーにだまされているかもしれないと言うことだ。敵ではないと言ったが信頼できるほどのものではない。うそをついているかもしれない。
彼が妖魔でなければ…、殺さなくていい。殺してはいけない。
「そうか、魔幻灯だ」
レックハルドは、思い出して、木のそばにおいてある魔幻灯を手に取った。あの時、泉の向こうのファルケンに教えられた。魔幻灯の火を通せば、レックハルドでも妖魔の姿が見える。隠された真実がわかる。
火が入ったままになっている魔幻灯を手に取り、レックハルドはため息をついた。
「そうだ、なにをオレは焦ってるんだ。こいつが、妖魔なわけねえじゃねえかよ」
これで確認すればすべてはっきりする。いくらか不安だったが、それでも、何となく希望はあった。レックハルドは、視線の前に魔幻灯を掲げた。そして、その火にかざしながら、イェームをのぞき込んだ。
がしゃん、と音がして、割れはしなかったが、魔幻灯がレックハルドの手からころげおちた。火が消え、あたりはいっそう暗くなる。
レックハルドは、それを拾いもせず、ただ、以前にもましてまっしろになった顔を、そのままイェームに向けていた。
「…そだ。嘘だ…嘘だろ…」
見てはいけなかった。あれは見てはいけないものだったのだ。どうせ殺すのなら、見ないまま殺してやればよかった。それが、せめてもの礼儀だったのに。
レックハルドは後悔したが、すでにもう遅かった。彼はその場に膝をついた。
魔幻灯を通してみたイェームの姿は、ろくに人の形もしていなかった。真っ黒でどろどろしていて、液体のようなものに見えた。外観だけは人の形は模そうとしているのかもいれないが、とても生き物といえるようなまっとうなものではない。鋭いが、まるで見当違いの場所に生えた爪や、てんでばらばらについている目や角で、顔がどこかもわかりもしない。ほかの妖魔たちと同じように、この世にあらざるおぞましい姿をしていた。
「なんてことだ…!」
今まで一緒に旅をしてきたのがのろわしいほど、その姿は異形だった。
――マザーは嘘などついていなかった。イェームは妖魔なのだ。
レックハルドはそう確信した。そして、深々とため息をついた。
賽は投げられた。もう悩んではいられない。今の姿を見れば、イェームがやがてああなるだろうということが予想できる。そうなる前に消してやらなければならないとも思う。もう、どうしようもないのだ。ファルケンもイェームも最低限助けてやる道は一つしかない。
レックハルドは、足音を忍ばせ、そっとイェームの傍らに膝をつく。抜きはなった短剣とイェームの首筋を、レックハルドは歯をかみしめた。
あとは、喉を切り裂けばいい。この方法なら、きっと、一瞬で終わる。終わるのに、いざとなるとそれ以上手が動かせない。
なるべく顔を見ないように、顔を背けながら手を下そうとするが、それでも、どうしてもみてしまうのだ。
「くそっ! ここまできて、なにためらってやがる! 昔のお前はこうじゃなかったろ! 仲間を売るなんて平気だったじゃないかよ!」
レックハルドは、自分を叱咤するように言った。そして、短剣を握り直す。力をこめすぎて、しろくなった指先をみながらレックハルドは、冷や汗を流した
(その目で確認したじゃねえか…!)
鼓動の音が、耳の横で聞こえるようだった。冷や汗が幾筋も額を流れ落ちる。
(こいつは…妖魔だ! 本当はどろどろの黒い物体で、命すら持てない外道じゃねえか…! 何を戸惑うことがある?)
レックハルドは、差し出した短剣を握りしめたまま、考えた。何か、暗いものが心の中にわき上がってくる。
(それに…ファルケンの振りをしてるだけじゃねえかよ、…あいつはこんなんじゃなかったろ。見かけが一緒ってだけで!)
そうだ。違う。見かけだけで、中身はファルケンとは違う人物のようだった。
(殺してしまえばいいんだ。…そうすれば、あいつだって助かるのに! オレだって、つらい旅から解放されるんだ…!)
レックハルドは、きっと短剣を握りなおした。徐々に近づけていく。
(いくらこいつが強くても、今ならこいつを殺すなんて、簡単なことだ。どうせ、こいつは今は動けない。ああ、そうだ。こいつは、あの呪いにかかってるんだ。ほっといてもどうせ死ぬかもしれない。あんな姿になるのかもしれない)
レックハルドは、徐々にその恐ろしい言い訳に魅力を感じ始めた。
(オレがとどめ刺してやって何が悪いんだ? …ただ、苦しんでる奴を楽にしてやっただけじゃないか…。こいつだって、あんな姿を人に見られたくないだろうし。何も後ろ暗いことなんかねえんだ。いわば人助けじゃねえかよ?)
レックハルドは、抜いた短剣をそっと首の方に持っていく。
(殺せ、殺せ、殺してしまえ)
うっすらと笑みを浮かべながら、彼は短剣を握りしめた。
(司祭に立ち向かえないこいつなんて、ただのお荷物も同然だ。いなくなってもらったほうがせいせいする! オレは先に進みたいんだ。よく考えれば、どうしてこいつに足止めされなきゃならない? 馬鹿馬鹿しい!)
衝動のようなものに衝かれて、レックハルドはぎらついた目に殺気を宿らせた。人知れず笑みが強くなる。
――それでいい、これでいいんだ。
レックハルドの中で誰かが言った。
――お前は間違っていない。それが正しい道だ。
足下の陰で、何か黒いものが揺らめく。レックハルドは、酔ったようにふらりとイェームの首筋に刃物をあてがった。冷たい鉄の感覚にも、イェームは目を覚まさない。レックハルドは、なぜかその姿がひどく醜悪だと思った。
(こんなおぞましい外道が、オレの仲間だ? なに寝言言ってる! 今まで一緒に旅をしていたと思うと吐き気がするぜ!)
目の前の風景がどこか遠かった。イェームの顔はもう見えない。夢の中の出来事のようで、レックハルドは胸から突き上げる暗い衝動に身をゆだねた。視線が定まらない。レックハルドは、うっすらと笑みを浮かべた。
(終わりだ。…これで全部終わりにしてやる!)
短剣を強く握り、わずかに引く。このまま喉に突き立ててしまえばいい。迷いはなかった。そうだ。目の前にいるものは偽物だ。自分をだますために、妖魔が作った幻想にすぎない。
(大体、こいつは、ファルケンじゃない。所詮、あいつのまがい物だ―――!)
レックハルドは、短剣を振り下ろした。やがて訪れる終焉の予感に、わずかな笑みすら浮かべて――