辺境遊戯 第二部
砂漠渡り-3
「ま、待ってくれ――!!」
レックハルドは飛び起きた。目の前に見えるのは闇だけで、先ほどのもやのかかった風景はどこかに去ってしまっていた。
「…いてえ…」
いきなり起き上がったからなのか、頭が痛かった。伸ばしていた手を額をあてて軽くうめいた。目を閉じ、頭痛がおさまるのをまつ。
それにしても、と彼はため息をつく。あれ以外の夢をこの砂漠ではじめて見た。まるで彼が夢枕に立っていたようだったのに、よりによってなんて事を言ってしまったのか。
額を押さえながら、軽く目の辺りをぬぐう。汗なのか、それとも涙なのかは傍目からは判断できなかった。
まだ頭が痛い。頭痛が治まってきた頃、彼はふと自分のおかれた状況を思い出した。意識が朦朧としていたので、どこまでがどうなのかは思い出せないが、確か、砂漠で倒れてそのまま――
「オ、オレ…どうして…?」
自分は砂漠の真ん中で倒れていたはずだ。顔をあげれば、熱帯性の植物の大きな葉が頭の上で揺れている。
夜なのだろうか。空は真っ暗で月がぼんやりと浮かんでいた。星が瞬くのもよく見える。
近くの焚き火で、周りが何となくわかった。血だらけだったはずの足には、包帯が丁寧に巻かれていた。その横に置かれた靴も少し不器用に繕ってある。火傷でもしていたのか、手のひらにも包帯らしいものが巻かれているし、額にのせられていたらしい濡れた手拭が膝の上に落ちていた。
毛布らしいものがそっとかけられている。誰かが助けて、介抱してくれたとしか思えなかった。
「一体、誰が……?」
からあん、からあん、と、水と金属がぶつかるような音が聞こえた。誰かがバケツをもってやってきているようだ。思わず身構えたレックハルドの前に、明るい声が響いた。
「あっ、気がついたのか?」
先ほどの夢の彼と同じ声質の声だったのでぎくりとするが、声は無神経に続いた。
「あまり目が覚めないから、どうしようかと思っていたところだったんだが…気がついたなら大丈夫だよな」
男が向こうの闇からやってきているようだった。水をいれたバケツを揺らしながら、やってきた男の目が焚き火の光をうけて少し光ったような気がした。
「ああ、オレだよ。もしかして、忘れたかい?」
レックハルドに、自分が認識されていないとでも思ったのか、そっと彼は焚き火の光の中に姿をさらしながらいう。
「あんた…」
レックハルドは顔を上げて、思わず瞬きした。そこにいるのは、イェーム=ロン=ヨルジュと名乗った狼人だ。相変わらず覆面をしているが、慣れると割りと表情の読みやすい男である。明らかに安堵した様子で彼はふっと微笑んだようだった。
「思ったより元気だな。よかった」
「なんで、あんたが……?」
レックハルドは少し驚いたような顔をしていた。
「あんたが死の砂漠に行ったってきいたからさ。…オレもちょうどこっちに用事があったからそれで」
イェームはなんとなく呆然としている彼の向かい側に座り、焚き火の火を調節する。そういえば、もともと火柱の時に会ったから思いもしなかったが、イェームも炎を恐がらないらしい。平然とそれを扱い、薪の上でかざしていた鍋から木皿に中のどろどろしたスープ状のものをよそう。
「歩いてたらあんたが倒れてたからな。それで驚いて何とかここまで運んだんだよ」
そして、イェームはそっとレックハルドの顔をうかがった。
「あんた、やっぱり、ちょっと痩せたよな」
イェームは心配そうな顔をした。元々かなり痩せていたレックハルドなのに、何となく頬がこけたような印象がある。ファルケンの最期からのショックと、それからこの砂漠を渡ってきた疲労のせいかもしれない。
「ああ、これ、食べやすくしておいたから。ゆっくり食べれば、大丈夫だと思うんだが」
少しだけ微笑んで、イェームはその木皿にはいったかゆのようなものを差し出した。どろどろに溶けたそれには、乾燥肉と何か乾燥させた薬草が入っているようだった。
「あと、それからここのオアシスにあった果物とか。毒はないから安心して食べられるぜ」
そうして、水と袋につめていたらしい果実などを見せる。水をそっと彼のほうに差し出しながら、イェームは何となく遠慮しながらそっと言った。
「オレが言うのもなんだけど、あんた、あんまり飯食ってないんじゃないのか? 顔色も良くないし…あんまり無理をすると……」
「確かに、…ちょっと無理しすぎたかもな」
レックハルドは静かに笑った。
「さすがに無謀だった。反省してるよ」
水と、その粥をすすりながら、レックハルドはちらりとイェームを見上げた。
「あんたに助けられたのは二度目だな」
それから、少しばつの悪そうな顔をする。
「この前、あんたの忠告を無視したのは許してくれよ…」
ふうとため息をついたレックハルドの顔には、暗い影がそっと落ちていった。
「あんたの言う事をきいてればよかったな……」
「そうとは限らないさ」
イェームもやや目を落としながら、ふっと言った。
「あんた、オレに言ったよな、後悔するからって。…多分、それはそうなんだよ。オレもそうだから…。あんたのとった行動は間違ってなかったよ」
それから不意に思い出したように、彼はポケットの中を探り、布にくるんだものをそうっとレックハルドの目の前に差し出した。丁寧に布をはらって彼はその中身を示した。
「ああ、そうだ。これを返さないと」
「なんだ?」
レックハルドは首をかしげ、その布の中を覗き込んだ。そこには、一枚の金貨が、焚き火の赤い光を受けてきらきらと輝いていた。はっとイェームの顔を見る。その真剣なまなざしを受けながら、イェームは目を伏せていった。
「この前、森の中で拾った。多分、司祭が捨ててったんだろうな」
「そういや、そんなこと、言ってたな」
レックハルドは、布の中にある金貨を軽くつまみ、裏表を確かめた。一箇所、わずかに傷が入っている。それは、それが彼の金貨だということを示す証拠でもあった。
「持ち主がいない以上、あんたが持ってなきゃいけねえだろ?」
レックハルドは、ふと笑って布の上に金貨を置いた。
「お前にやるよ」
レックハルドは静かに言った。イェームが驚いて首を振る。
「で、でも、これは――」
「いいんだよ、一度誰かにやったものが自分の手にかえってくるってえのは、オレたちの間じゃ縁起が悪いんだ。それに返すといっても、金属嫌いの辺境の中で眠ってるあいつに、金属製のものをはなむけにするなんざ、あんまりにも残酷すぎるよな」
イェームもその事はわかったようだった。だが、相変わらず不安そうな顔をしている。
「でも、オレが持っているのは――」
その様子にレックハルドは軽く笑った。
「助けた礼だと思えばいいだろ。そうだな、そこまで気にするなら、もしファルケンが、生き返ったとしたら、あいつに返してやってくれればいいぜ。なんだか気にしてたみたいだしな」
イェームは、戸惑いがちにうなずいた。どうしても、レックハルドの考えを変える事はできないことがわかったようである。レックハルドは、イェームにそれをおさめさせてから、急に調子を変えた。
「あいつさ、…結局最後まで、どうでもいいことばかり気にしやがっててな。全く、ヘンなところだけ義理堅いっていうか、ちょっと頭が堅いんだよ。まさか、これをとられたときも、真剣に取り返しにいったんじゃないだろうな…」
レックハルドはため息をつく。
「無理して取り返しにいくほどのもんでもないのによ」
イェームは沈んでいるレックハルドの様子を、少し恐る恐るうかがうようにしていた。どうやって慰めたものか、頭をかなり悩ませているらしい。考えて言葉を選びながら、イェームはそっと言った。
「多分、オレの想像だけど、…ファルケンは辺境じゃ居場所がなかったんだよ。おまけに、魔力が低いっていうことは、狼人の中じゃ相当の落ちこぼれってことで…。だから、人に認めてもらうなんてことはほとんどなかったんだろうな」
イェームはため息をつきながらつぶやいた。ファルケン自身によく似た、碧の深い色の目の奥で炎の光を受けてちらちらと赤く点滅している。
「多分、だから、それは勲章みたいなもんだったんだよ。多分……」
「もしかして、あいつは、この金貨の意味を知ってたのかね。オレは、まあ、どっちでもよかったんだが」
レックハルドはため息をついた。
「オレは、あまり風習だのにはのめり込まないし、…オレの一応の意思表示ってだけで、別にあいつが知らずにそれを売っちまってもよかったんだ。…そんなくだらないもん取り返しにいって殺されたなんていわれたら、いたたまれねえな…」
ある意味ではそれが真実だ。イェームは事情を知っているのか、黙っていた。
「今思えば、あの時、なんだか嫌な予感がしてたんだろうな。だから、一応、あれを渡してやったんだよ。あいつに、ちゃんと物をあげたことなんてなかったし……、あれを逃すと何もあげられないと思ったのかもな」
レックハルドは粥を食べ終えてしまうと、砂の上に置いた。そして、すっかり暗くなった空を見上げる。
「オレは嘘ばかりついてたから、自分の口から出るものは信用できねえんだ。だから、あいつに言ってやらなきゃならねえことも、…最期まで言ってやらなかったよ。あいつが死んでからようやく礼が言えたぐらいだから。自分の気持ちを口に出すなんて、オレは好きじゃねえんだよな。なんか、全部嘘になっちまいそうでさ」
イェームは口を挟まず黙ってそれをきいていた。レックハルドは、その空気を換えるためか、わざとらしく鼻先で嘲笑うように笑った。
「そう考えると、…マリスさんにも、多分、オレは素直にいえないのかも…。遠まわしに言っても、あの人は気づかないだろうし、だったら無意味すぎるよな」
そういいながら彼は自嘲的に笑った。
「これじゃ、勝ち目なかったかもな。ライバルも多い事だしさ」
「そんな事…。やってみないと、勝負はわからないだろ。賭けてみないと、どの目が出るのかわからないのと同じじゃないか」
イェームの妙な励ましの言葉にレックハルドはふきだした。
「はっ、お前、博打やんのか? おもしろい例え方するな」
そういって、レックハルドは少しだけまじめな顔をした。
「いいんだよ、…オレがこれから無事で戻れる保証はねえんだから。オレはあの人が幸せに暮らしてればそれで…」
イェームはなんと答えたものか迷い、結局深くため息をついた。その言葉は、レックハルドの意思が変わる様子のない事を示している。
「その口ぶりからすると、どうしても、マザーの所にいくつもりなんだな」
イェームは懐から長い煙管のようなものを取り出すと、布の間からそれをくわえた。水と刻んだ葉を入れるとかすかに森の匂いが漂った。煙草でないのは香りでわかる。それをふかしながら、レックハルドの返答を待っていた。
「……ああ、そうだな。ここまできたら戻れないだろ? だったら、進むしかない」
「…あいつが…生き返る保証なんて何もないのにか?」
イェームはそうっと訊いた。レックハルドは、薄ら笑いを浮かべる。
「…ここのところ、考えてたんだよ。オレはどうしてここに来たのかって…。途中でわかってるのに食い物まで捨てちまって……。ああ、そんな面するなよ。オレは死ににきたわけじゃねえんだから」
彼がそう前置いたのは、イェームが一瞬さっと顔色を変えたのを見て取ったからだ。そうきいて、イェームはほっとため息をついたのがわかった。レックハルドには、彼がどうして自分をここまで気にかけるのか、理由がよくわからない。
「あいつが本当に生き返るかどうかなんてわからねえ。そんな奇跡が起こったらいいよなって思う。だけど、オレがこんな可能性にかけたのは…、ただ…」
レックハルドは片目だけ閉じた。
「オレはあいつを見殺しにしちまって…、許せなかったんだよ、何も出来なかった自分がさ。…だから、せめて……こんな仕方ねえような賭けにだけでも乗って…あいつに何かしてやりたかったんだ…。失敗して死んでも、努力ぐらい認めてくれるかなってさ」
「ファルケンは――あんたがそんな無茶やるのを喜ぶような奴じゃねえんじゃないのかい?」
イェームは湯気のようなうっすらとした煙をふっと飛ばした。控えめだったが、レックハルドへの気遣いはわかった。
「そうかもな。…でも、…オレだけがのうのうと生きてるわけにはいかなかったんだよ。あいつ、前からそうなんだよな。辛くても辛いとか、痛いとか、口にはださねえんだ。ただ、笑ってごまかしやがる」
レックハルドはどこか遠くを見るような目になった。
「なのに、あの時、あいつはオレに「助けてくれ」っていってたよ。本当に苦しかったんだよな…。叫ぶほど、痛かったんだよな、きっと。なのに、オレは見てただけだ。あいつが死ぬのを黙ってみてた」
レックハルドはため息をつく。
「オレは何もしなかった。ただ見てただけだ。それどころか、目を逸らそうとしてたんだぜ。…最低だろ」
イェームは目を伏せた。
「そんな事は……。きっと、誰だってそれしかできないんじゃないのか。見てるあんたも辛いのは同じだろ。だったら――」
言いかけてから、イェームはふうとため息をつく。何を言っても、何の慰めにもならないかもしれない。レックハルドが、自分を許す為の言葉は、当のファルケンしか持っていないのだろうから。イェームは返答に困った末、そっと彼の様子を伺いながら訊いた。
「あんたはマザーのところに行くんだよな」
「ああ、そういってるだろ」
半分寝転がりながらレックハルドは答える。満天の星がキラキラと降ってくるようだった。イェームがそんな彼に目を向けながら、そっと言った。
「じゃあ、オレがそこまで案内しよう。別に止めるわけじゃない。だったら、あんたも反対しないだろ?」
「ホントか?」
思わぬことに、レックハルドはイェームのほうに目をやった。彼は煙管をくわえるのをやめた。
「ああ。…このままじゃ、あんた無茶しそうだから。それに、オレもどっちにしろ、いくつもりだし…」
「そうか、それは助かるな。恩に着るぜ!」
起き上がり、レックハルドはイェームに笑いかけた。それを、なぜか少しだけ複雑そうに微笑み返しながら、彼は言った。
「じゃあ、今日はもう休んだほうがいいんじゃないか…。かなり遅いし」
イェームはのぼった月を見上げながら言った。レックハルドもそれを見て、もうそんな時間だったかと思った。月も星も、もう随分とうつろってしまっている。
「それに、明日はもう少しゆっくりしたほうがいい。あんたの今の体力じゃ、この砂漠は危険すぎるし、水を補給したりしないとな」
レックハルドはああと答えた。イェームは少しほっとしたような顔をして、気づいたように焚き火をもう一度調整した。
その様子を見ながら、何となくレックハルドは懐かしいような感覚を覚えていた。
喉の渇きも癒され、そして食べ物も得られたレックハルドは、久々に夜空を眺められる気分になっていた。今までは、空を眺める余裕さえなかった。ただ、砂を見ながら歩く事しか考えられなかったからだ。
徐々にうつりかわっているらしい星は、静かにちかちかと瞬いている。
イェームはすでに眠ったらしく、少しはなれたところで寝息が聞こえていた。レックハルドの事を心配していたわりに、寝転がってすぐに眠りにつける無神経さはさすが狼人といったところか。そんな皮肉を思いつきながら、レックハルドは軽く笑っていた。
(変な奴だな。こいつも……)
レックハルドはそう思いながらため息をついた。なんだか思えば色々話してしまったような気がする。ファルケンにしろ、レナルにしろ、狼人は一緒にいるとどうも自分の心の中のものを全部吐き出しそうになってしまう。自分の弱みから何でも話してしまってもいいような気がしてしまうのだった。
(結構、口は軽いのにな)
それでも、なぜかあまり腹は立たなかった。それが、彼らの不思議な一面なのかもしれない。
右手を差し上げると、砂で汚れてはいたが、未だにファルケンの守護輪がそこにはまっていた。あのときの夢を思い出し、レックハルドは少しだけ微笑んだ。
「お前はまだオレを助けてくれたんだな。川を渡る前に止めてくれてありがとよ。ファルケン」
答えるはずもない相手にそうつぶやき、レックハルドは目を閉じた。誰かが傍にいるのは、この危険な砂漠で一人でいるよりずっと落ち着いた。なぜかひどく安らかな気分になり、そのまま彼は睡魔の引きずるままに眠りに落ちた。
その夜、レックハルドは久しぶりにゆっくりと眠る事ができた。あの悪夢も、なぜか見る事もなかった。