辺境遊戯 第二部
砂漠渡り-2
砂の黄色と空の青だけで構成された鮮烈だが単調な色使いの世界に、緑のやわらかさは何となく安堵をもたらすものだった。
どうにかこうにかオアシスについたイェームは、背の高い椰子のような木の下の影にレックハルドを寝かせ、自分もそこで倒れこむように休んでいた。傍に泉があるせいもあり、影はかなり涼しい。
イェームはその辺りに生えていたらしい、葡萄のような種類の果物を口にしながら、レックハルドの様子を見ていた。甘い果汁が口に広がり、何となくほっと彼は息をついた。こういうときは甘いものが一番いい。
「…とりあえず、命に別状はなさそうだけど………」
葡萄の甘酸っぱい味にほっと息をつく。暑い中ほとんど全力でここまで走りこんできてから、熱があったレックハルドに水をかけたりしていて、息をつく暇もなかったので、さすがのイェームも疲れ果てていた。
レックハルドの様子も、どうやらそう切羽詰ったものではなくなってきたようだった。熱が下がれば後は大丈夫だろうが、あまり思わしいものではない。
「ゆ、許してくれ…」
レックハルドの声が、かすかに聞こえてきた。イェームは食べかけの果実を地面に広げた布の上に置き、彼の様子をうかがう。案の定目を覚ましてはいない。先ほどからずっと、彼は時々うなされているのだった。
「許してくれ…! オレが、全部…悪いんだ…!」
額においていたタオルが地面に落ちる。冷たさを失ったそれを拾って、横にあった彼が持参してきたバケツの中の水で絞りなおしてやる。
そうしながら、イェームは少し気の毒そうな顔をした。
「大丈夫だよ、あんたのせいじゃないからさ」
まるで慰めるようにいいながらイェームはそっと絞りなおしたタオルを額においてやった。
「誰もあんたを怨んだりしないよ…」
レックハルドは、少しだけ息をついたようだった。水を飲まずに砂漠を歩きとおしたのもあるだろうが、おそらく昼夜を徹して歩いた影響もあるだろう。精神的にも肉体的にも疲労したことががレックハルドをかなり追い詰めているようだった。
「相当無理してたんだな…。あんたがそんなに気にする事ないのに」
いくら大人より大人らしく見える冷静なレックハルドでも、年はまだほんの十八歳だった。ファルケンが自分のせいで苦しんで死んでいったのに、彼はその場でそれをだまってみていることしか出来なかったのだ。それが彼の心にどれだけの衝撃と罪悪感を与えているかということは、想像に難くなかった。
それに、どれだけ悩んでも、どれだけ後悔しても、レックハルドには泣き言を言える相手がいないのだった。そもそも彼は滅多な事では泣き言など言わない。恋愛の情が絡めば、体裁をかまうようになる。だから、マリスの前では格好をつけ続けなければならない。
それにレックハルドはわかっていた。自分が毒舌混じりに話をすれば、大概のものは腹を立てる。別に事を荒立てたいわけではないのだろうが、彼が話すと絶対に皮肉の一つや二つ混じるのが常だった。だから、彼が気兼ねせずに愚痴を吐いたり、泣き言を言えたのは、彼の言葉をただ黙ってきいてくれたファルケンだけだったのだ。そのファルケンがああやって死んだのだから、彼は誰にも自分の苦しみを話せないのだった。それだけでも、十分追い詰められたのだろう。
イェームはふとため息をつき、食べかけの葡萄の残りと、甘い木の実を幾つか口にする。
「……うまくいかねえもんなんだな」
近頃眠れば夢を見る。それが恐くて、レックハルドはろくに十分な眠りも得られていなかった。何度も何度も同じ夢ばかりで、それをみると、レックハルドは眠れなくなる。砂漠の呪いか、それともファルケンの恨みなのか、それとも単にレックハルドの罪悪感が見せたものなのか、どれなのか彼自身には判断しきれない。
だが、このとき見た夢は、少し今までのものとは違った。
あの熱い砂漠を延々と歩いてきたのに、今のレックハルドは喉も渇いていなければ、足も痛くなかった。それに、周りの風景は砂漠ではない。荒涼とはしていたが、前に大きな川があるみたいだが、霧にまぎれて視界が悪い。全体的に紫がかったような、不思議な空間だった。森の中かもしれない。
「なんだ、いつの間に砂漠を抜けたんだ?」
レックハルドは訝しげな顔をした。
「ここはどこだ? …オレは何をしてるんだ?」
喉が渇いていたはずのことを思い出す。レックハルドは、そっと川辺にちかよった。川原は砂でできているので、もしかしたら砂漠のどこかなのかもしれないと思う。
ざばざばと水の中に足をいれ、レックハルドは水をすくった。だが、喉を鳴らし、レックハルドは少しだけ躊躇する。この水は綺麗には見えるが、何となく不安だった。この川の水がのめるかどうかが激しく不安だった。
先ほどまでのどの渇きを感じなかった。なのに、両手で水をすくい上げた途端、喉の奥がからからに渇いてしまった。それに、冷たい水は、熱い砂漠を歩いてきた彼にとっては、たまらなく魅力的だった。誘惑するようにそれはきらきらと光っている。
「どうせ、このままでも干からびるのがオチなんだ。何を恐がる事もないだろうに」
彼はぽつりとそういい、すくった水を口元に運んだ。
「それを飲んじゃいけない!」
ばしゃん、とレックハルドは反射的に両手の形を崩し、水を落とした。声のしたほうをすかしてみると、川の中ほどに誰か立っているようだった。
「だ、誰だ…!」
レックハルドは叫んだ。そうして向こうをみると、人影がこんどははっきりとした口調でこういった。
「この水を飲んだら、もう戻れなくなってしまう! この川を渡ってしまう!」
やがて、もやの中にたたずんでいる人間の顔立ちがはっきりとわかってきた。緑まじりの金髪をした男は、碧の澄んだ瞳でじっとこちらを見ていた。
忘れるはずもない顔は、前に彼が見た夢のようには歪んではいない。どことなく寂しそうなそれは、普段、いつも旅をしていた彼の知っているファルケンの表情だった。
「ファルケ…」
足を進めようとしたとき、ファルケンがダメだと叫んだ。思わずレックハルドは足を止める。
「あんたはこっちに来てはいけないよ、レック。それ以上進んだら、戻れなくなる」
ファルケンは、少しはっきりした口調で言った。
「わかってるだろ? こっちにきたら、もう戻れなくなってしまう。あんたはすぐに帰らなければ…」
「で、でも、お前は…」
レックハルドは驚いて目を見開いたまま、呆然と言った。
「じゃ、じゃあ、お前はそれじゃどうなるんだ? お前はずっとあのままなんだろ! いいのかよ! 辛いとか、苦しいとか、そういうのはないのか!」
レックハルドの声は、少し震えていた。
「オレだって、お前と同罪じゃないのか? どうして、お前だけなんだ? オレだけのうのうと生きててもいいてえのかよ! それで、お前はいいのか!」
ファルケンはうっすらと微笑んだ。
「オレはいいんだ。…ああなるのは、わかってたから。いいんだよ…。オレが選んだ結果だから」
ファルケンは首を振る。
「でも、あんたは関係ないはずだよ。あんたは帰らなければ…。マリスさんと幸せにって、オレも言ったじゃないか。オレは、いいんだよ…。あんたは、オレの事なんか気にせずに、とっとと忘れて――」
「お前はいっつもそうだよな!」
レックハルドは思わず癇癪を起こしたように叫んだ。
「残される奴の気持ちなんざ全然考えてないんだ。いつもそうだよな! お前は覚悟の上だったからいいだろうさ、でもオレや他の奴らの気持ちなんて考えてないだろ! あんな死に様見せ付けやがって! その後、オレがまともに生きてけると思ってたのかよ? ああ、そうだな。お前にとっちゃ、オレはその程度の人間だったんだよな! 冷酷で淡白で、目の前で相棒があんな風に苦しんでいても、オレが何の助けの手もさしのべられなくても、何の良心の呵責も感じねえと思ってたんだよな! 人を踏みつけにして、オレはマリスさんと幸せになれるような男だって! そうだろ! ファルケン!」
感情のままにまくしたてながら、どこか冷ややかな自分がそれを嘲笑ったような気がした。そう見られることは昔から承知の上だったはずだ。ただ、必死でここまで歩いてきた自分の努力を、なんだか踏みつけにされたような気がした。
だが、それをファルケンに叫ぶのはお門違いで、ひどい八つ当たりだともわかっていた。ファルケンは、ただおそらく彼に気をつかって慰めようとして、そういっただけなのが、痛いほどレックハルドにはわかっていた。
ファルケンは、レックハルドの言葉をきき、少しうなだれた。
「オレは、…そんな風には…思ってなんかなかったよ。ただ、今オレに言えるのは、それだけなんだ。…でも、ごめんよ、レック」
ファルケンは静かにため息をついた。
「オレのことはいいんだよ。こんなところにいちゃいけない。オレのことはいいから、早く帰ってくれ」
「もう無理だ!」
レックハルドは半ば叫ぶように言った。
「オレはもう、この砂漠からでることなんてできねえんだ! お前のせいで、オレは一生を棒に振るんだよ! マリスさんどころか、オレは、もうここから出られない。干からびて死ぬんだ! お前のせいだ! お前がオレに恨み言をいいながら死ねばよかった! だったら、オレだってお前の事なんか思い出しもしなかったのに! 全部お前のせいなんだからな! お前の事なんざ、全部忘れちまえばよかった!」
それは違うと、レックハルドは思った。なのに、激情に任せて口は勝手にべらべらとそんな事を喋りだす。なぜ口を止められないのか、自分でも不思議なほど彼はひどい言葉を彼に浴びせかけた。
「お前だってオレがここで死ねばいいって思ってるんだろ! ああ、お前の思うとおりになったよな! 惨めな死に方だと思うだろ? お前をあんな目に遭わせたオレだもんな、お前だってホントはいい気味だって思ってるんじゃねえのかよ!」
「やめてくれ! レック!」
鋭い声でファルケンは言った。びくりとしてレックハルドは思わず声を呑んだ。ファルケンは、少しだけ穏やかな顔で言った。
「お願いだから、そんな風に言わないでくれ。あんたは死なないよ。それ以上言わないでくれ。多分、そうだよな、オレが全部悪いんだよ、レック」
哀しそうに、少しだけ微笑みながら彼は言った。
「オレが一人でひっそりと死んでれば、あんたはこんな目に遭わなくってすんだよな。だったら、オレはそうすればよかったよ。オレは無意識のうちに、誰かに会うためにあの場所を離れていたのかもしれない。オレの甘えだ。多分、最期まで一人でいるのは嫌だったから……」
ファルケンは目を伏せた。
「ごめんよ、レック。あんな死に方するのは予想できてたんだ。…オレは姿を消すべきだったんだよな。誰にもあんな死に様は見せちゃいけなかった…。そうだな? やっぱり、オレなんか一人で死んだほうがよかったんだ。巻き込んでごめんな……」
はっとレックハルドは顔を上げた。
「ち、違う!」
レックハルドは首を振った。
さすがにひどい事を言ったと思った。自分もその気持ちは痛いほどわかっているはずだ。先ほど、砂漠で朦朧とした意識の中、レックハルドも一人で死ぬのは寂しいと思ったのではなかったか。
結局、彼が拒否され続けながら信じていた辺境にも裏切られるような形で、誰の助けも得ないまま死んだファルケンに、その言い方はあまりにもひどいいいようだった。そもそも、彼が死んだのはレックハルド自身のせいだ。結局、彼は辺境にも司祭にも、そして人間にも裏切られる形で命を失った。何を感情的になっていたのだろう。一番辛いのは、おそらくあんな死に方をしたファルケン自身のはずなのに。
「違うんだ! ファルケン! そうじゃあねえんだよ!」
うっすらとファルケンは微笑んだ。その姿が、ぐらりと揺らいで徐々に背景に透けていった。
「あんたは死なないよ。だから、こっちに来てはいけないんだ。…お願いだから、マリスさんと幸せに…。オレの事は…もう気にしないでくれ」
「待ってくれ!」
「ごめんよ…。できれば、…いつもみたいに助けてあげたいけど…オレはもう…」
声がすーっと遠のいて、彼の姿も薄くなる。最後に浮かべた笑みは何か物寂しげだった。慌ててレックハルドは叫んだ。
「ま、待ってくれ! 違うんだ。お前のせいなんかじゃ…! お前を責めるつもりなんかなかった! 本当だ!」
レックハルドは慌てて首を振り、消えていくファルケンに呼びかける。
「違うんだよ、オレが言いたかったのはそういうことじゃないんだ! 待ってくれ、もう一度オレの話を!」
だが、ファルケンの姿はもうほとんど見えなくなっていた。
――オレはもう…前みたいには助けられないんだ…
風に乗って小さな声がふらりと聞こえてきた。レックハルドは慌ててそれを追おうとしたが、水の中の足は前には出なかった。
「待ってくれよ! 話を聞いてくれ!」
だがもう返答はない。レックハルドは焦ったように川の向こう側をうかがった。
――お前の責任だなんて思ってたわけじゃないんだ!
叫んだはずなのに、声が出なかった。
――オレは、何もしてやれなかった事を謝りたかっただけなんだ――!
レックハルドは反射的に手を前に伸ばして絶叫した。