辺境遊戯 第二部
グレートマザー−5
訊かれて、イェームはあざ笑うように言った。
「そ、そうかよ…。あんたの考えそうなことだ」
イェームは、少しでも負担を軽くするため、口許の布をずらした。
「だけどな、オレにだって引けない理由は山ほどあるんだ。それに…」
イェームはぎらつく瞳を相手に向けた。身体はギルベイスの魔力の圧力を受けて、目の前の映像も揺らぎそうなのに、それ以上に彼を突き動かすものがある。身体の中を流れる血が沸騰して、逆流しだしたような、そんな気がした。
イェームは、感情のまま、抜きはなった剣をギルベイスに向けて叫んだ。
「オレだって、ここでてめえを殺せたら! それが一番いいんだよ!」
だっと草深い地面を蹴る。ギルベイスの周りの近衛達が散ったのがわかる。薄汚れたコートを近衛の投げた石の短剣が掠めて、かぎ裂き状に破けるが、それを投げたものは追わない。目の前で武器を構える狼人にねらいを定める。
「愚かな…」
どこかでギルベイスの声が聞こえた。
「お前と私では違いすぎる」
からみつくように襲いかかってくる近衛をかいくぐりながら、相手の持つ木を削って作った特別な武器を剣で受ける。司祭や近衛は、他の狼人と同じように金属製の武器を持たない事が多い。ただ、石や木でできたその武器はただの武器とは違い、イェームが刀を一閃してもそれを受け止めるだけの強度も持ち合わせている。
「だあっ!」
イェームは近くにいた近衛の顔面を蹴り、相手を昏倒させる。ざっと木の幹に背を向けて、やや後退するが、近衛達はゆらりとまだ迫ってくる。
「…しつこい…連中だな…」
イェームは軽く二、三度咳き込んだ。それに血が混じり始めているのはわかっていたが、見ないようにした。
「いい加減、あきらめたらどうだ?」
ギルベイスが、近衛の後ろ側から嘲るような声で言った。
「そろそろ限界の筈だろう?」
「だ、黙れ…、オレは……」
言いかけたが、それ以上は続かなかった。イェームは血のかたまりを吐き、その場に片膝を突いた。
「ち、畜生……! ま、まさか、ここまで……!」
手に付いた血の色を見ながら、イェームは熱くなっていた頭が急速に冷えていくのを感じた。それは、これ以上やっても勝機が見えないという事実を認めるしかない事への恐怖だ。
イェームは喉の辺りを押さえ、地面に手を突いた。
「…くっ…」
「それ以上やれば、昔の繰り返しだ」
いつの間にか、ギルベイスが彼の前に来ていた。苦しそうにしながら、イェームが悔しそうに彼を見上げた。握った刀をわずかに引き寄せようとしているのを見て、ギルベイスは躊躇なくその手を踏みにじった。思わず柄を弾いてしまい、イェームの手から刀の柄は遠のいていってしまった。
「くそっ!」
イェームはうめきながら、ギルベイスを見上げる。冷酷に勝ち誇っていると思ったが、意外にギルベイスは無表情だった。
「もう一度、あの地獄を味わいたいのか? 一度忘却の川まで渡った身が、よくもそこまで耐えられるものだな」
「…う、うるさい! …オレの勝手だ!」
ふと見ると、小さな金貨が一枚、ギルベイスの足下に転がり落ちていた。先ほど、崩れ落ちたときに、転がり落ちてしまったらしい。ギルベイスの手がそれに伸びようとしている。イェームはさっと顔色を変えた。
「さわるな!」
イェームは凄まじい勢いで、それをむしるように取り返すと、抱え込むように握りしめた。
「それがそんなに大事なのか?」
ギルベイスは、ふっと口許であざ笑った。
「あの男はいずれ、お前を見捨て、辺境に対して敵対するぞ…。あれがどんな男だか、知らぬ訳でもあるまい」
レックハルドのことを言われていると知って、イェームは、きっと彼を見上げた。
「黙れ…!」
「過去、あの男が何をしたか、知りもせずによくもいうものだな」
「黙れっていってるだろう!」
イェームはギルベイスの手をはねのけ、近くにある剣をつかんで、立ち上がった。くずれた覆面からは、ほとんど素顔があらわになっている。ギルベイスは動じる様子もなく、ただ黙ってたたずんでいる。
「辺境の森を金銭と秤にかけ、そして、我々を裏切ったのはあの男なのだぞ」
ギルベイスは、うっすらと笑みを浮かべながら言った。
「それをきいても、お前はまだあの男を信用するのか?」
「うるさい! …これ以上、あいつを悪く言うようなこ…と…」
言いかけて、イェームは口許を押さえ、後ろにふらついた。かろうじて、地面に刺した剣を頼ってどうにかバランスを整える。
「そんな身体でどうするというんだ?」
ギルベイスは、冷たく言った。
「もう一度、あの苦しみを味わって死んでみるか?」
「て、てめぇ……。ぜ、全部、わ、わかってて…オレを挑発………!」
イェームは、残りの力を振り絞って、相手を睨み付けた。その殺気の宿った瞳を見ながら、ギルベイスはふと顔をゆがめた。
「やはり同じ目だな。…あの時のあれと」
ギルベイスは、なぜか深い憎しみに彩られた目で、イェームを見た。
「やはり、お前は殺さねばならぬようだ…。お前は、あまりにも『フォーンアクス』に似すぎている」
「フ、フォーンアクス?」
一瞬、何のことを言われているかわからず、イェームは呆然と反芻した。ギルベイスはいつの間にか、鉄製の剣を手にしていた。いつからもっていたかはわからない。
「…今度は『貴様』には邪魔はさせぬ…」
ぽつりとギルベイスが呟いた瞬間、彼は何かを感じて、ふと横に大きく飛びずさった。
同時に立て続けに、金属を跳ね返す時の鋭い音がして、地面に短剣が落ちてきた。ギルベイスは、それを投げた人物を見やった。
紫の森を背にして、白いターバンの青年が、やや怯えたそぶりを見せながらも立っている。その顔には、彼は見覚えがある。だが、おそらく、青年は知るまい。
「だ、誰だ!」
レックハルドは、相手の正体を読み切れないまま、短剣を握った。黒髪で、背もファルケンやレナルほどに高くないギルベイスは、狼人には見えない。何か、また妖魔でもでたのかと思っても仕方がないのだった。
ギルベイスは、納得したようにうなずいた。
「そうか、そなたとは初めてだったかな。わたしはギルベイス。十二人いる司祭の筆頭を務めている」
「し、司祭…」
レックハルドは、反芻して、不意に思い出したように歯をかみしめた。
「ファルケンを殺したのは、…お前だな!」
「私ではない。皆の総意だ」
「何が総意だ。…実際は、そうなんだろ!」
ちらりとイェームの方を見やる。イェームは、軽く咳き込んでいたが、その状態がどれほど悪いかはすぐにわかる。そっとそちらに近寄りながらも、彼はギルベイスから目を離さなかった。離せないのだ。相手が圧倒的に強すぎて、恐くて、そして、不安なのだった。
「それで、今度は、オレを殺すのか?」
「…お前は聖域に入り込もうとしている。…それは認められないからな」
「イェームは……」
「その男は、すでに道を踏み外している。狼人として許せない外道だ。いずれは消さねばならぬ存在だった。それに、貴様に荷担しているなら、同罪だからな」
「いちいち、勘にさわる言い方するんだな…。…何が、外道だ! こいつの方がよほどあんたよりまともだぜ!」
レックハルドは、怒りで飛びかかりたい衝動と恐怖で逃げ出したい相反する衝動を抑えながらイェームのそばにたどり着いた。
「私は一番目の司祭だ。…すべての辺境の者を統括せねばならない…」
ギルベイスがそう口にしたとき、いきなり、レックハルドの横でがばりとイェームが立ち上がった。
「畜生! 絶対にゆるさねえ! お前だけは許さねえからなあ!」
突然、イェームが絶叫したので、レックハルドは驚いて彼の顔を見た。半分覆面がずれているイェームは、血を塗った顔に血走った目を獣のようにぎらぎらと輝かせていた。
「絶対に殺してやる!」
ぼそりと彼は呟いた。そして、今度は大声に。
「お前だけは絶対に殺してやる!」
レックハルドは、イェームの目を見た。その目は、周りを見ていない。ただ、ギルベイスだけを見ている目だった。碧色の瞳はわずかに揺れているようだった。
(こいつ……逆上してやがる)
レックハルドは確信した。
狼人が逆上するのは珍しいらしい。ファルケンもレナルも、限界まで自分を押さえ込むタイプだったし、旅の間に見る限り、イェームもそういうタイプだろうと思われた。集団を大切にする彼らは、自分の感情を自由に表現するようでいて、その実その感情が激しいものであればあるほど抑制する傾向にあるらしいのだ。
だから、このイェームの状態がかなりまずいのはすぐにわかった。しかも、身体の調子がいかにも悪そうな今、彼を興奮させてはいけない。慌ててイェームを押さえたが、頭に血の上ったイェームは自分をレックハルドが押さえていることも気づいていない。
「殺してやる――! 貴様だけは殺してやる!」
「お、落ち着け!」
レックハルドは、激高したイェームを押さえに回った。
「落ち着け! 今はやめろ! 死ぬぞ!」
「絶対、貴様だけはーッ!」
「落ち着け! 冷静になれ! イェーム! 落ち着け! 今は駄目だ!」
暴れるイェームを必死で押さえながら、レックハルドはふとギルベイスの方を見た。
ギルベイスは笑っていた。冷たく、そして残酷に。その手に、何かオレンジ色の光が集まるのが見えた。それだけで十分だ。レックハルドには、ギルベイスが、今自分たちを二人同時に殺そうとしているのがわかった。
「イェーム! どけ!」
レックハルドはとっさに彼を突き飛ばしたが、一瞬動きが遅れた。光はすごい勢いで近づいてきて、よける暇を与えてくれない。
「うわっ!」
レックハルドは右手で前をかばった。司祭の放った光が、レックハルドを包むかと思った、その瞬間、ぱーん、と何かがはじける音が鳴った。レックハルドの右手首にあった守護輪がはじけ飛んだ。ばらばらばら、と地面に甲高い音が鳴り、ビーズが飛び散って転がっていった。
「守護輪か!」
一瞬、ギルベイスは、気を取られた。
直後、ふと付近を強烈な光が包みこんだ。その光が、ギルベイスや近衛をもろとも包み込んで広がる。
「何!」
ギルベイスは一瞬、慌てたようだった。守護輪には、多少の防御魔法がかけられていることがある。だが、あの魔力の低いファルケンの守護輪にそんな力があるわけがないし、大体守護輪にはこのような力があるわけがないのだった。
(誰だ?)
こんな邪魔を入れたのは、一体何者の仕業だ。
そう思いながらも、とっさのことでギルベイスは、その光をかき消す事ができなかった。 光はどんどん強くなり、彼らを完全に包み込む。そして、そのまま波のように向こう側に通り抜けた。
光がおさまると、そこには何もいなかった。レックハルドは呆然として、辺りを見回した。先ほどのことで、我に返ったのか、イェームはようやく冷静さを取り戻したようだった。紫の森は、静まりかえって、ただ時折草木が風に揺れるだけだ。
「消えた……のか?」
ぽつりとイェームは呟いた。レックハルドは、息をのんだ。一体、何が起こったのか、全く理解できなかった。
ただ、足下に飛散した守護輪の破片が、自分を守ってくれたらしいという以外には――
ギルベイスと彼の近衛達は、少し離れた場所に移動させられていた。紫の揺れる木々を睨み付けながら、彼は不機嫌そうに訊いた。
「何の真似だ?」
彼には、その犯人がわかっている。
「お前達は、この聖地を守るのが役目の筈だ。なぜ、侵入者を罰することを止めた?」
木の上には、この旧い聖地を守る近衛達がいる。姿は見せないが、相当の数が集まってきているのがわかる。彼らが力を出し合って、おそらくギルベイスと彼の部下達を、あの場所から強制的に移動させたのだ。
「理由を聞こう!」
『この森は我らが主であるあの方の森だ。』
ギルベイスの声に従い、古い近衛の長がそう言った。
『例え、一番目殿でも、あの方の指示なく、この森の中においてあの男を殺すことは許すことはできない。無駄な争いをここで行うことは禁じられている。』
「何を言っている?」
ギルベイスは柳眉を潜めた。
「何が無駄だ? あの二人には、死なねばならぬ理由がすでにいくつもある」
『それは、すべて我らが主が決めることだ。』
『あの男が本当に邪悪であると認められれば、この世にかけら残さず消えることだろう。』
『ただ、それを決めるのは、我らが主のみのこと。例え、一番目殿であろうが、この森においてそう断罪する資格はない。』
立て続けに、近衛達が発言した。
『ここで争いごとを起こすなら、例え、相手が誰であろうと、我々は命をかけて排除する。それが我らの主のご意志であり、そして、命令でもあるのだ。』
「正気か? お前達は……」
ギルベイスは忌々しげに吐き捨てた。
「あれが妖魔であることには気づいているはずだ」
『それを許す許さないは、我々の判断によるのではない。』
『さあ! 一番目殿。これ以上続けるのであれば、我々と命をかけて戦うことになるだろう。どうされるおつもりか?』
きつく、長が宣言した。ギルベイスは、わずかに舌打ちする。
「わかった。よいだろう。…ここは、ここの規則に従う」
ギルベイスは、ゆったりした衣服を着た右手を広げた。そうすると、彼と彼の従者である近衛達の姿が薄らいでいく。
「だが、いつか後悔するはずだ。…そう主にもお伝え願おう」
言い終わった途端、彼らの姿は完全に消え、全く見えなくなった。気配も感じない。
『行ったな。』
『しかし、これでいいのか?』
一人がぽつりと訊いた。
『ああ、これでいい。すべては、あのお方がお決めになること。』
『…しかし、ギルベイスめ。あの男までがあそこまでやられているとは思わなかった。』
『あの男でさえああなのだから、司祭の中にも相当…』
『だが、我々ではギルベイスには手が出せない。まだ時ではない。』
『……あとは、あのお方がどうされるか、それ次第だ。』
旧き森の近衛達はそう話し合うと、お互い視線をかわし、また散っていく。
その奥に立っているうっすらと輝く大木に、近衛達は敬意を表するように、その静寂を破らないように、静かに静かに、彼らは四散していった。