辺境遊戯 第二部
グレートマザー−3
紫、紫、全て紫だ。草も木もすべて紫で埋め尽くされている。
暗い中で、それだけが発光しているように見える紫色。それをずっと見つめているうちに、イェームはめまいを起こすようになった。目の前がぐらりと歪み、紫の渦が自分に向かってのびてくるように見える。それでも後ろのレックハルドに気づかれないように、彼はなるべくまっすぐに歩いていた。
しかし、先に行くといいながら、イェームは先を歩くのがつらくなってきた。紫の色がさらに彼を追いつめてくる。これがいつもと同じ緑色なら、まだ何とかなったのかもしれないのに。
「しっかし、紫の森とは悪趣味だな」
後ろでレックハルドがのんきな口調で言った。
「何となく落ち着かない色だぜ。狼人のお前は慣れてるのか、こんな色の森? もしや」
イェームは答えない。レックハルドが何を言っているのか、彼はほとんど聞き取っていなかった。答えないイェームに気がつき、レックハルドは訊いた。
「おい、…きいてるのか?」
「あ、あ……ああ」
イェームははっと我に返り、ちらりと後ろを見た。レックハルドは怪訝そうに首を傾げる。
「どうした? さっきから、何となく無口だな」
「いっ、いや、なんでも…ちょっと…疲れたみたいで……」
額の汗をぬぐいながら、イェームはため息をつく。これ以上はごまかしきれない。レックハルドの前を進んでいれば、いつか足下がぐらついてばれるかもしれない。
「すまん、ちょっと疲れたみたいだ。前進むの交代してくれないか…。この方向であっているはずだし、なにかあったら呼んでくれ」
「ああ、それはかまわないが…」
レックハルドは怪訝そうに彼の方を伺った。
「なんか調子悪そうだな? 大丈夫か?」
イェームは、強がって首を振った。
「あ、ああ。少し疲れただけだ。すぐに治るよ。ちょっと、紫の森を見ていたら、目が…」
「まあ、それにはオレも同意するね」
レックハルドは周りを見回してため息をついた。見渡す限り紫だというのは、落ち着かない。普通と違う森が、ここまで気持ち悪いものとは思ってもみなかった。
「狼人ってのは、集団を大切にするせいか、どうも無理する奴が多いからな。ホントにやばかったら言えよ」
レックハルドは気遣うように言って、先に立って歩き始めた。レックハルドが先をいくとどうせスピードが落ちる。だとしたら、イェームを先に行かせるよりも負担が減るはずだ。
さすがに一番前を歩くのはなかなか体力がいる。レックハルドは短剣を片手に、蔓草をとっぱらったり、切り払ったりしながら進んだ。とげのついた下草を踏みつける。木だけでなく、この森に生えているものはみな紫色をしているので、何となく気持ちが悪かった。土のせいなのか、それとも、何か別の理由があるのか、それはレックハルドにはよくわからない。
「…ちっ。どういう土地なんだ。ここは」
グレートマザー…、偉大なるムーシュエン・グランカラン。一世代前のマザーだとイェームは言ったが、そうだとしたら、もしかしてグレートマザーは枯れかけているということなのだろうか。レックハルドがこの前に見た現在の「マザー」は、遠くからでもはっきりとわかる常緑をたたえていた筈なのに。
ざっと上の方で音が鳴る。動物かと思ったが、そうではないらしい。やはり、まだ「近衛
」達に見られているのだろう。イェームが今のところ何も言っていないし、彼らもおそう気配を見せてこないのでよいが、相変わらず視線は感じることができる。連中は、確かに自分たちを観察しているのだ。
いきなり、背後でざざざ、と草がなびく音が鳴った。レックハルドは驚いて、慌てて振り返る。
「イェーム?」
イェームは、レックハルドが踏み抜いた道から少し外れた木の幹に投げられたように寄りかかっていた。蔓草で足でも取られたのかと思ったが、そうではないらしい。イェームの顔色は先ほどよりもさらに悪くなっていたし、第一肩で息をしているのがはっきりとわかったからだ。
「お、おい! 大丈夫か! やっぱりお前調子でも悪いんじゃないのか?」
「な、な、何でもない……!」
駆け寄ったレックハルドに、イェームは首を振ってそう言った。
「馬鹿言うな。そんな真っ青な顔して何言ってやがる! 大人しく休め」
「…何でもない! 進んだ方がいい!」
イェームは振り切るように言って前に進もうとしたが、レックハルドがその前に立ちふさがる形になった。
「無理言うな。…冷や汗だらだらかいてるくせに。どうせ、オレももうずいぶん歩きづめで疲れてるんだ。急ぐ理由はないだろ?」
「し、しかし!」
まだ食い下がるイェームの肩に、レックハルドは軽く手をおいて座らせる。
「いいから。途中で倒れられたら、オレの方が迷惑なんだよ。上で見てる奴らもいるみたいだしな」
そういってちらりと木の上に目を走らせる。
「…気づいてたのか」
「ああ。何となくな。でも、奴らは今のところオレ達の敵というわけでもなさそうだし」
「…今のところ、はな」
イェームは、申し訳なさそうに彼を見た。
「すまん、…こんな筈じゃなかったんだが…」
「ああ、オレも、砂漠で足を引っ張ったし、気にするな」
まだ少し息があがっていた。レックハルドはひとまず水を差し出す。
「ちょっと飲めよ。本当はやっぱり、さっきから悪かったんだろ?」
イェームは答えずに水だけ受け取る。
「お前も結構強情だな。人にはすぐに休めっていうくせに」
レックハルドは苦笑いして、ふと思い出したように覆面を指さした。
「それ、取った方がいいんじゃねえか。息しにくいだろ」
「だ、駄目だ。…それは……」
イェームは苦しげだが、即答した。レックハルドは、水も布の隙間から差し入れて飲んでいるイェームの様子を見ながら、ため息をついた。
「いや、悪かったな。…お前が嫌なことを強制しようっていうわけじゃねえよ。ただ、苦しくなったら取れよ」
「…すまねえ。あんたの気持ちはありがたかったんだが……」
イェームはぽつりと答えると、ため息をついた。
「気にしてねえよ。誰にでも触れられたくねえ事はあるだろうからな。それより…」
レックハルドは周りを見回して、少し考える。イェームがいる木の幹の下は、深い下草が生えているし、蔓草も多い。おまけにやや下向きに傾斜がついているようだ。こういう開けていない場所は、あまり休むのにむいていない。せめて、もう少し平らなところで休ませないと。
「ここは場所が悪いな。もう少しいい場所を探してくる」
「レックハルド…!」
走りかけたレックハルドに、イェームは思わず声をかけた。
「ああ、危ないっていいてえんだろ。安心しろ。ちょっとぐらいなら大丈夫だよ。そんなに奥にはいかねえし」
下草を切り払いながら、レックハルドはもう一度後ろを向いた。
「お前なんか連れてさまよい歩くなんてこともできないしな。そもそもオレにはお前を抱えるだけの力なんてないんだ。だから、これが一番いい方法なんだよ」
「…わ、わかった。すまん。気をつけてくれ」
説明されて渋々納得した様子のイェームはため息を大きくついて、そう悄然と言った。
「なんだ、元気ないな。気にするな。困ったときはお互い様だろ」
「そうか…あ、ありがとう」
イェームは、なぜかもう一度ため息とともに呟いた。その本当の意味は、おそらくレックハルドにはまだわかっていない。