辺境遊戯 第二部
グレートマザー−2
それは、たとえて言うならば憎悪のかたまりのようなものだった。
シャザーンは、なぜか、その黒い空間にたたずんでいた。その空間の背景は、ほとんど同じ黒い流れでできている。泥のような重い流れは、ぐるぐるとそれでも空間を回っていた。空気だろうか、と思うがやはり違う。そして、シャザーンは、その流れ自身に何か意志のようなものが感じられることも悟っていた。意志、というより具体的に憎悪と敵意といったほうがいいかもしれない。
シャザーンは妖魔にとりつかれている自分が、とうとうこの中に取り込まれるのかと漠然と不安になった。噂によると妖魔や邪気は、そもそもはこうした憎悪や敵意の固まりから生まれるのだという。そして、最初は個人の意志だったそれらは、こういう風に流れの中で混ざりあい、やがてお互いもっていた個性は消えて、ただの憎悪と敵意の固まりだけになるのだとか。
だが、彼の不安は的中しなかった。
「…風裂きの……」
不意に声が聞こえた。どこか苦しげで暗い声だった。ふとその声をたどると、そこに何かがいた。
「君は……」
「…ひさし…ぶりだな、シャザーン＝ロン＝フォンリア」
目の前にいるものを思い出すように、それはぽつりぽつりと話し始めた。シャザーンよりも高い背、そして、やや大きく鋭い目が顔に垂れ下がった前髪の奥でぎらぎらと輝いている。ただ、それは顔の半分だけで、残り半分は闇のように黒くて見えない。
「…ファルケン＝ロン＝ファンダーン…？」
シャザーンは、そう確認するように言った。というのも、顔立ちからして、彼であることは間違いないのに、それはそうだと確認しきれないところがあったのである。言うなれば、すでに姿が崩れているような気がした。半分が空気、いや、後ろのどろどろした流れに食われているようだった。半身しか見えていないのは、そのせいのようだ。
「…オレはあんたがそこまで憎い訳じゃなかった」
ファルケンは、暗い声で言った。
「オレが死んだのは、所詮オレが馬鹿をやった結果だ。だから、オレはあんたを責めるつもりなんかなかった。…そうだよ、そうだった…、オレは、あんたが憎い訳じゃない。憎い訳じゃなかった。あれは仕方がなかったのかもしれない。オレが自分で選んだ道だった」
まるで確認するように言っているのは、混ざり合う意識から自分を引き出すためのように見える。シャザーンから見ても、目の前のファルケンの状態が相当危ないことはわかる。、彼は自分の精神力で必死で自分の意志をつなぎ止めてはいるが、すでにほとんど黒い流れに取り込まれかけている。
「だけど、一つだけ許せなかった。オレはあいつを巻き込んだ。あいつを巻き込んで、お前達があいつを殺した」
「あ、あいつって…一体誰のことを……」
ファルケンは冷笑を浮かべた。その時に、シャザーンははっきりと悟った。ファルケンは彼の言葉など聞いてもいない。それどころか、理解できてもいない。理性のほとんどは失われているようだった。ただ、彼が抱いている敵意と憎悪以外は。
「どうなろうと関係ない。今更、死は恐くない…。こうなることはわかっていたし、魂の消滅さえ恐くもない。ただ、オレが大切だったものが消えるのが恐かった。しかも、オレのせいで消えることが！」
ファルケンは声を荒げた。
「わからないだろうな！ お前には！ オレは全部なくしたんだ！ あいつもマリスさんもダルシュもシェイザスも…オレの大切なものは全部消えた。目の前で全部が消えるってのがお前にわかるか？ オレの気持ちがお前にはわかるのか！」
ファルケンの声は、少しだけ震えていた。
「あれを知った後のオレはただお前達が憎かった！ 関係ないのに、みんな巻き込んでしまった…！ オレが死んでさえいなければ、こんなことにはならなかったのに！」
シャザーンは口を開こうとしたが、うまく言葉にならない。ファルケンは、かまわず続けた。
「オレにできることは、あいつを殺したお前達を、オレが追いつめることだけだ！ そのために、オレは全てを捨てた！」
どろどろした憎悪のかたまりにその姿は徐々に溶けていく。
「もうどうなろうと関係ないんだ。オレは消えるかもしれないが、それでもお前達を許さない」
ファルケンは、わずかに笑っていった。
「駄目だ！」
シャザーンはとっさに叫んだ。
「それ以上、後ろの闇に身を委ねたら、君自体が……」
だが、その言葉は届いていないかもしれない。やがて彼は自分を取り巻く闇に身を沈める。ざっと黒い影がその姿を飲み込んでいった。
――許せない許せない許せない許せないお前だけは絶対に許せない！
空間に、すでにファルケンの声でなくなった声が響き渡った。同時に、後ろの闇が抱える全ての憎悪が吹き出すように絶叫を始めた。シャザーンは、凍り付いたようにそこにたたずんでいる。いくらかは嘲笑し、いくらかは呪いの言葉を吐き、すでに何をいっているのかわからない。ただ、そこでファルケンらしい声が、ひときわ大きく聞こえてきた。
――たとえ、この心が滅んでも、この世界が滅んでも、オレはお前達に復讐してやる！
憎悪に身を委ねた彼の絶叫が、幾千の怨嗟の声に混じって聞こえてきた。
はっと目を覚まし、シャザーンは、慌てて周りを伺った。そして、先ほど疲れて眠っていたことを思い出した。もちろん周りは緑の森が広がるだけで、あの黒いものはどこにもない。上を見れば日蝕らしく、空は暗くなっていた。
「それでは今のは……」
だとすれば、今のは夢だろうか。
シャザーンは冷や汗が額を流れていくのを感じた。狼人などは特に見た夢を重用視する。それはもちろんただの夢であることも多いが、彼らは感受性が強いし、能力もある。だから、彼らの見る夢は、時には何かの予知であることもあるし、何かの思念を直接関知してしまうこともある。
そういうこともあり、シャザーンは、先ほどの夢を、ただの悪夢だとは解釈できなかった。それに、先ほどの夢は相当異常だった。
妖魔にとりつかれているシャザーンには、彼の背後でうごめき、また最後に彼自身が消えていった闇の中の黒い流れの正体が何となくわかるのだった。それは、また、彼の心の中にいる「それ」と同じ感覚がした。
「あれは……まさか…妖魔…」
だが、とりつかれている、という感じでもない。それとは違って、自分からすすんでそれに身を委ねているという感じだった。そして、混ざり合っていく中で意識を引き裂かれそうになりながらも、彼はどうにかこうにか自我を保っているようだった。あまりにも強い感情が、揺らぐ彼のファルケンとしての意志をつなぎ止めているようですらある。
その様子から考えて出る答えは一つだけだ。
「彼は、まさか妖魔になったのか？」
もとより妖魔は、死んだもの達の残留思念が溶け合い混じって、ただ憎しみと破壊衝動だけが残ったものだ。ファルケンの思念が、そのまま妖魔に変化しても、何の不思議もない。いや、あんな最期を遂げたのだから、彼はむしろそうなる可能性が高かった。そのための封印であったはずだが、もしかしたら、封印の魔力よりもその力が強かったのかもしれない。
「どうしたん？ クレイ」
ふと、近くにいたミメルが首を傾げて立っていた。
「なんや日蝕も起こってるし、ちょっと不気味やね」
「あ、そ、そうだね」
シャザーンは、慌てて取り繕ったが、暗い顔はすぐには変えられない。ミメルは寒そうに両手をくんでいたが、シャザーンのその様子を見て、少し心配そうな顔をする。
「クレイも寒いん？ それとも、風邪とかひいたん？ 日蝕やと気分悪なる子もおるからね。あまり無理したらあかんよ」
「えっ、そういうわけじゃないんだ。ただ……」
――いつか、自分もああなるかもしれない。
シャザーンの心の奥で何かがちりちりと揺れた。妖魔と化したファルケンの復讐への恐怖もあるし、彼に対しての罪悪感も存在する。だが、一番強いのは、自分もいつか闇にとらわれるかもしれないという恐怖だった。
あのファルケンの姿は、おそらく彼の未来の姿でもある。妖魔にとりつかれた者が、最終的にどうなるか、シャザーンも噂では聞き知っていた。だが、自分はファルケンのように最後の自我すら残してもらえないだろう。あの黒い流れの中に、ただ紛れて消えてしまうに違いない。
「ただ、……」
シャザーンは、ファルケンに申し訳ないと思いながらも、目の前の妖精を見る。
「今は多分大丈夫だと思うんだ」
ミメルはわずかに首を傾げ怪訝な顔をする。
「日蝕が起きても、大丈夫だよ。ミメル」
少しだけほほえみ、シャザーンは安堵する。目の前にミメルがいる限り、自分はあのようにはならない。今のように妖魔との共生を保っていられるのなら、そして、そのままで目的を達成できれば、それが一番いいことなのだろうから。
「そう？ クレイがそういうんやったら、うちも信じるわ」
ミメルはそういって微笑む。何も知らない彼女は、シャザーンがファルケンに何をさせたのかも、ファルケンがいまどうなったのかも知らない。
そして、シャザーンも、ミメルとファルケンの繋がりを全く知らない。
――知らないまま、ただ二人は、お互い日蝕への不安を隠すように微笑みあっていた。