辺境遊戯 第二部
グレートマザー−1
『この世で一番気に入らないのは、金と権力さえあれば、
ほとんどなんでもできることだな。
オレは、ガキの頃のオレを金でひっぱたいた連中を逆に売ってやりたかった。
能もないくせに、オレをあしざまにいったあの貴族の馬鹿どもを
地獄の底にたたきつけてやりたかった。
宰相になってよかったことか?
あいつらがオレに泣きながら頭を下げるのを見ながら、
ざまあみろと心の中で吐き捨ててやったことだな。
実にいい気持ちだった……。あれほど胸のすく思いはしたことがねえな。
なんだ、その面は? オレの気持ちがわからねえといいたそうだな、お前は。
考えても見ろ。あの高慢な連中が、権力を振りかざすだけでがたがた震える。
今までオレを見下げていたやつが、オレに自分から頭を下げてくるんだからな!
傑作だ。どんな皮肉よりも気が利いてるだろうが! ははははは。
――でもな、それでオレが幸せになれたかどうかは別だ。
ふと我に返ったときに、自分の歪んだ心と欲望が哀れになる。
満たされるのは一瞬だけで、後は、他人から新たに恨みを買うばかり。その連鎖。
つまらねえもんだよ…。
そうだな、憎しみなんて、どうやっても惨めなものでしかないのかもな。』
真っ黒な空に、人々は怯えて閉じこもってしまう。そんなとある街の木の上で、二人の人間が、空を見上げていた。彼らの目には空の暗さに対するおびえはない。一人は背が高く、長いがばさばさした髪の毛を無造作に後ろに垂らしていた。もう一人は短く、背もあまり高くない。ともすれば少年のようにも見えた。
「黒い空とは、そろそろやべえってことか?」
背の高い男は、幹にもたれかかりながら他人事のように言う。
「ふん、わかってるはずだろ。…意外に嫌なやつだね、あんたも」
横にいる少年のような姿をしているものがそういった。いや、少年ではなく、女だ。厳密に言うと妖精であることがわかる。よく見ると長い耳が垂れ下がっているのが見える。だが、辺境で見かける妖精と違い、彼女はきっぱりした性格のようだった。少年のように見えるのも、おそらくはその性格が顔つきにでているからかもしれない。
片方が妖精であるという事は、横にいる男も狼人に違いない。大分荒っぽいが、頬にはメルヤーが描かれているし、背も二メートルを少し越えている程度である。
「あたし達が関わる事じゃあないさ。ここでのあたし達は「見てる」のが基本ルールだろ」
「そりゃあそうだけどよお、あいつ、どこいったんだよ? 見あたらねえじゃねえかよ」
「はん、あんたの影響でも受けたんじゃないかい。だったら、放浪癖とさぼり癖がつくね」
妖精は、鉄火な口調でそういうと、鼻先で笑った。
「なあ、メルキリア」
「なんだい?」
ちらりと、妖精は狼人の方をみた。
「…あいつ、どうするって言ってたんだ?」
「さぁ、そういうことはハラールに聞きなよ」
妖精はすげなく言った。突き放すような言い方だが、なれているのか狼人は、ただ頬をかきやるだけで、そうショックも受けていない。
「そんなこと言われたってよ、あいつ、俺が話しかけると逃げるんだよなあ」
「あんたの無神経さが苦手なんだろうさ」
きつい言葉で言いながら、妖精メルキリアは、彼に目を向けた。
「どちらにしろ、あの野郎がどう答えを出すかだな」
「それに世界の命運もかかるのさ。それがあたし達の常…。期待はずれならこのまま敗北するだろうし、期待以上なら存続する。それだけの話さ」
「そうなったら、あいつに及第点やっちまったオレとハラールの責任になるじゃねーかよ」
狼人は不服そうに言った。
「そりゃ仕方ないだろ。あんたの責任といやあ、あんたの責任だしな」
くくっとメルキリアは笑った。その様子は何となく話している内容の物騒さからはかけ離れている。
「ちぇっ。オレの教育は完璧だったぞ。そんな不良はでねえよ! 悪いのはあの甘ちゃんのハラールだ!」
狼人は断言したが、ふっとメルキリアはせせら笑った。下を見ると、赤みがかった巻き毛の髪の娘が、寒そうに身を縮めながら歩いていた。
(まぁ、あんたの教えを忠実に守ってたら、どう考えても不良狼人になるけどねえ)
「それじゃ、少し場所をうつすかい? ここは寒くっていけない」
「ああ、それもそうだな! じゃあ、やるぜ」
狼人はそう答え、着ていたマントをつかんで何か印を切った。
ざあっと風が吹いて、マリスはふと顔をかばうようにした。急に寒くなってしまったので、風が吹いただけでも結構つらい。その瞬間、彼女が通りがかった木の上にいた二人が消えたことにはマリスは気づかない。もちろん、そこに人がいたことも。彼女だけではなく、誰も気づいていないだろう。
「急に暗くなってしまったわね。ロゥレンちゃんは大丈夫かしら」
マリスはふと心配になった。吐く息がしろい。今までここまで寒くはならなかったのに、何となく不穏だった。それより、日蝕が嫌いなあの妖精がおびえていることの方が心配だった。
――指輪……ゆびわを……
ふと風に乗って声が聞こえた気がした。聞き覚えがあるようなのに、なぜか思い出せない声だった。
「どなた?」
――マリスさん……
声はもう一度聞こえた。マリスは反射的に振り返る。そちらには辺境の森があるはずだった。だが、誰の気配もない。だとしたら空耳なのだろう、とマリスは思ったが、それにしても気になった。
「なぜかしら」
マリスは顎に指を置き、暗い空を見上げる。太陽の姿は見あたらない。底知れぬ闇が、彼女ごと世界を吸い寄せそうな不気味さを秘めている。珍しく険しい顔をしたマリスはそれを半ばにらむように注視していた。
「誰かに呼ばれている気がするわ」
黒い空を見上げながら、マリスはぽつりといった。
紫の森の木々がざわざわ揺れる。ここの木々の葉は、普通のものとは少し違う。何となく硬質で、生の気配が乏しい。枯れているというのとは少し違う。ここの木々は、紫色をしてほとんど枯れているようなのに、その葉を握れば、ちゃんと普通の緑の葉と同じようにみずみずしい。ただ、生きている「感じ」のしない葉ではある。森も同じように、「生きている感じ」がしない。
あまり気持ちのいい風景ではない。日蝕のためにずいぶんと薄暗くなっているだけに、暗い中で紫の葉だけがぼんやり発光しているようにみえる。いや、実際発光しているのかもしれない。レックハルドは、魔幻灯に種火を入れて、とりあえずは灯りを得た。
(何故だ?)
イェームは、何ともいえない不安にとりつかれた。
(なんだか、…嫌な予感がする。…誰か、オレ達を呼んでいたのか?)
「おい…!」
いつの間にかレックハルドが砂漠の方を見ていた。彼に注意を促されて、イェームは砂漠のほうを改めてみる。黒い空で視界は悪かったが、向こうが煙っているのははっきりわかる。何か煙のように立ちこめているのは、間違いなく砂だ。彼らをここまで追いやった張本人でもある砂嵐が、また起こっているようだった。
「さっきまではおさまってたんだ。…それに、なんで今…」
「ああ、これじゃまるで……」
レックハルドはその先を言わなかったが、イェームにも彼が何を言いたいかはよくわかっていた。
(これじゃ、まるで、オレ達を森に閉じこめてるみたいだ)
何となく何かの意志を感じるような自然現象だった。誰かが、彼らを逃げられないようにしている。そして、ここに導いているような、そういう意志を――。
「…罠か」
レックハルドは、イェームを目だけで見上げながら言った。
「…どちらにしろ、招かれてるのは確かだよな。誰かが、オレ達をこの森の奥に行かせたいのかも」
「誰かって…誰がだよ?」
「それは…うーん、司祭とか……かなあ」
レックハルドに訊かれて、イェームは困った顔をした。
「オレにもよくわからねえんだが…」
「まあ、お前に訊いたって仕方がないよな」
レックハルドは、納得したようにうなずく。
「後戻りできない以上は進むしかないか……。確か、さっき、ここは聖域に通じてるとか言ってたよな」
「ああ。ここは、古い聖域だから、どこかから聖域につながる道があるはずだ」
「古い? そういえば、先代のマザーがどうのこうの言ってたな」
レックハルドは、あごに手を当てた。
「でも、どうしてだ? マザーってのは、一本のでかい木なんだろ。なんで先代だの、今だのがいるんだよ?」
「マザーってのは、力を持ち回りするんだよ」
「持ち回りだ?」
怪訝そうなレックハルドに、イェームは言った。
「ああ、知らなかったか。マザーってのはグランカランの中でも特に巨大な木で、その中でも特に選ばれたものがマザーになって聖域を形成するんだ。そのときに力の継承が行われる。グランカランっていっても木だからな。いつかは枯れてしまうんだ。だから、次の世代に生命の力を託す。永遠なのは力だけなんだってさ」
「意外にややこしいのな」
レックハルドは素直な感想を述べた。
「つまり、マザーってのは、力を受ける器なんだな」
「うーん、うまいこと言うな。そういう感じだ」
イェームは感心してうなずいた。
「大体マザーになるのは、前のマザーの直系の子供が多いから、聖域と聖域は割合に近い位置にあるはずだ。だから、つながってるっていったんだよ。…ま、近いっていっても、普通にみるとすごく遠いんだがな」
「まあ、仕方がねえな。閉じこめられてねえだけましだろ。進むしかないか」
レックハルドはため息をついて、足を進めかけたが、それをイェームが軽く止めた。
「ここは、オレが先に行ったほうがいい。…もしかしたら、何か罠が張られているかもしれないし。ここに入った時点で、オレ達は掟破りもいいとこだからな。奴らに喧嘩を売った」
「掟破り? なんだ、まだ掟があるのか?」
辺境も案外掟だらけでがんじがらめらしい。レックハルドは軽く肩をすくめた。
「大体わかってると思うが、オレはシャザーンと一緒でオレは辺境を捨ててる。だから、シェンタールを持たない。…シェンタールを掲げないで、他人のテリトリーにはいるのは、狼人の礼儀から反するんだ。血の雨が降っても文句は言えねえ」
「ち、血の雨? って……それは……」
物騒な言葉にレックハルドは思わず詰まる。
「狼人って言うのは、縄張り意識が強い。こと、テリトリーの問題は一つ間違えれば、抗争が起きる元になる。レナルなんかは割と大人しいけど、あいつはよく仲裁に入ったんで有名なんだよ。それで、そこそこあそこの周辺では顔が利くんだよ。もちろん、人間界に通じているのも大きいけどな」
「…そういうとこだけ、ホント狼というか犬というか。…やくざだな」
レックハルドがあきれたようにぽつりという。
「まあ、それで、シェンタールを掲げないで入るってことは、挨拶なしでテリトリーに進入したってことになる。ここにいる奴らは、そもそも辺境古代語しか通じないだろうし、何かあったらオレが言い訳するしかない」
「わかった。…でも、ここにいるやつって何だよ、司祭か?」
イェームは、紫の木々に目を巡らせながら、おもむろにいった。
「いいや、それもあるが、大多数は違うな。…オレ達はもうすでに見られてる」
「見てるだと?」
レックハルドは慌てて周りを見るが、そこに姿は見いだせない。
「ああ…、近衛階級の狼人達だよ。聖域を守ってる。それも、相当老齢の連中なんだがな。といっても、狼人は基本的には外見の年齢は一定で止まる。弱くなるってこともないから侮れない」
イェームはそういい、足を進めた。
「ひとまずは行こう。今のところ、あいつらに敵意はないみたいだ」
紫の森は、彼らを誘うように口を開けて待っている。レックハルドは、覚悟を決めてうなずくと、イェームに続いて歩き始めた。
彼らを見ている者達は、紫の木の上で、ひっそりといた。正確には何人いるのかわからないが、少人数のようでもある。紫色の葉の中に身を隠すようにしながらも、彼らはそこから彼らを眺めることはやめない。
『ああ、とうとうここまでやってきましたな。』
『ええ、まさかここまで来られるとは思いも寄らなかった。』
ささやくような声が、木々の間にこだまする。すでに人とは遠い感じの声だった。狼人と言うよりは、妖精のそれに似ている。
『相変わらずタフな連中だ。昔と変わりない。』
男の声が懐かしそうに笑う。だが、続く声は不安げだった。
『だが、聖域にはあまりにもふさわしくない力だことだ……。彼はあのようではなかったはず。』
『いや、違う。あれは「妖魔」だな……。その匂いがきつい。』
『なるほど、それでは……司祭は、おそらく許しはすまい。いいや、奴はすでに気づいておる。』
『そうだな、すでに気づいている。…あの若い狼は、早急に手を打たねばなるまい。』
『だが、「妖魔」の身ではまず無理なこと。』
『ああ、「妖魔」ではあのギルベイスには勝てない。』
『だが、あの男に死なれては困る。…盟約を交わした男だ。』
『ふふふ、それほど柔な男ではなかったはず……。我々は今は見守ることだ。』
『そうだな……』
『助けるか、助けぬか。すべてはあの方の意志一つ。』
『我々の意志ではなく、あの方の意志。』
ふっと声が多重になる。
『そうだ、すべてはあのお方がお決めになること。我々はそれに従わねばならぬ。』
何かが彼らを見ている。視線を感じるのだ。
(やっぱり何かに見られてる……)
レックハルドは、木々の上を見た。
(これが、…旧い聖域にすむ、近衛達か?)
だが、悪意は感じないし、もちろん攻撃してくる気配もない。ただ、見られているという印象である。
(司祭に言われて監視しているのか? …いや、違うな。…それなら、何か警告してきてもいいはずだし、何より、動きがなさすぎる)
だとしたら、こちらから手を出してはならない。先に手を出すと、あちらは集団で攻撃を仕掛けてくる筈だ。だから、イェームもきっと黙って前を歩いているのだろう。
ふと前を行くイェームの身体が垂直に揺らいだ気がした。倒れるかと思った瞬間、彼は木の幹に手を突いて転倒を免れる。
「どうした?」
レックハルドは怪訝そうに彼の顔を覗いた。布の間から見えるイェームの顔は少なからず青かった。玉の汗が浮かび、一目で尋常でない事がわかる。レックハルドは思わず彼の肩をつかんだ。
「…おい! お前…」
「な、なんでもない」
イェームは答えて、首を振る。そして、わざとなのか、明るく言った。
「ちょっと疲れたのかもしれないな。砂漠を随分歩いたし」
「そうだな。アレは強行軍だった」
思いのほか元気そうなイェームを見て、レックハルドは先ほどの彼の形相は見間違えだったのかもしれないと思った。ここは暗い森の中である。顔色を見間違える事ぐらいはあるはずだ。
「少し入ったところに泉があるみたいだな?」
イェームは不意に言った。そういえば、先ほど補充しておいた水はそう多くない。安全なところで補給した方がいいだろう。イェームは水をいれる革袋を手に取った。
「ちょっと、水でも探してくる。…ここで、待っててくれるか。この先は道が悪いみたいだからな」
彼はそういって、レックハルドを見やった。確かに彼の指さした先は蔓草が生い茂り、レックハルドには少しきつい道のようだ。
「そうだな、お前に行ってもらった方がよさそうだが」
「危なくなったら呼んでくれ。すぐに戻ってくるよ」
ふと上を見ると、何故か気配が消えている。先ほどまではいたはずなのに、潜んでいるのか、それともどこかにいったのかもしれない。
「わかった。そうならないことを祈ってるぜ」
レックハルドが見送ると、イェームは何も言わずにうなずいてそちらに向かった。道は暗く、さらにイェームは暗がりに顔を向けている。もし、これが明るかったら、レックハルドは、イェームがどういう顔をしているかがすぐにわかったはずであるが。
ふらふらと進んだイェームは、覆面をはずして口元を押さえた。その顔は蒼白を通り越して、すでに土気色に近かった。がくりと膝をつき、イェームは右手で木の幹にもたれかかる。
「く……だ、だめか……」
途端、喉から血があふれた。
「ぐっ…!」
指の間から漏れた血が、木の幹にびしゃりと降りかかった。気管に引っかかったのか、いくらか咳き込み、どうにか落ち着いてから彼は鮮血にまみれた手を広げる。
「…畜生…こんな……」
イェームは自分の手についた鮮やかに赤いものを恐ろしげに見やった。
「…くそ、あいつがこの森にいるせいだな…。オレに圧力を……」
イェームは、首を振る。そして、突然感情を爆発させるように、木の幹を拳で殴りつけた。
「畜生! ギルベイスめ! オレの正体を見破りやがったのかっ!」
何故、よりにもよって今なんだ。せっかくここまで来たのに! その思いが、やや混乱した頭の中を駆けていく。
「くそっ、……まだだめなのか!」
悔しげにいいながら、古びたコートの袖で口元の血を乱暴にぬぐった。
「オレじゃまだ駄目だって言うのか! あいつには勝てないのか! 何故だ!」
叫んでも自問しても答えが返ってくるわけではない。悔しさと憎しみが去って冷静になると、次には恐怖が訪れる。イェームは、「あのこと」を思い出した。
(このままじゃ、結局、アレの二の舞だ)
イェームは拳を握りしめながら、木の幹の向こうを睨むように見た。
「このままじゃ、……間違いなく……同じ目にあって死ぬ…」
いや、死はそれほど恐くはない。むしろ、彼にはもとより希望がないのだから、どちらにしても同じことだ。ただ、恐いのは、何もできずに死ぬことだ。このまま役に立たなければ、レックハルドをマザーの元に行かせられないし、彼まで死なせることになる。それが一番恐い。それでは、一体自分は何のためにここに来たというのだろう。本末転倒も甚だしい。
(…ああなる前に、あいつを殺す。それしかない)
イェームは、血の味のする口の中を水筒の水で洗いながら、ぽつりと思う。
――でも……
ふと心の奥で何かがざわめいた。不安、かもしれない。今まで何度も頭の中では考えていた。『奴』を殺すことは、予定の内に入っていたはずだ。だというのに、今になって彼の心は激しくぐらつくのである。
――できるのか? 勝てる見込みなんてあるのか? 大体、そんなことをすれば……
イェームは、黙って紫色の木々の上を見る。この先に奴が潜んでいるのかと思うと、イェームには不安と焦燥がわき上がってくるのだった。
ともかく、これはレックハルドに知られてはならない。ここで引き返すことができない以上、彼に余計な心配をかけてはならないからだ。