辺境遊戯 第二部
鏡の向こうのファルケン-11
「てえっ!」
声とともに、金属のはじける音が甲高く響く。だが、そこには一人の男しかいない。剣を構えた彼が、砂漠の上で一人大立ち回りを繰り広げている、というようにしか見えなかった。だが、見えるものには、そこに人の目には見えない、黒い闇のような色の不定形のものが数体暴れ回っているのが見えただろう。
勢いつけて、ごく近くにいた一体を切り下ろす。それは小さな塵のような黒いものを散らしながら、その姿を崩す。彼自身もバランスを崩しながら、大きく三歩ステップを踏んで、再び身を翻す。
「こんなに集まってたとはな、思いもよらなかったぜ」
ため息混じりにそうつぶやく。
とりあえず、彼が囮になることでレックハルドと子供達を逃がすことには成功した。そろそろもう街に着いている頃だと思うし、彼らの方に走る妖魔を見過ごしてもいない。だから、あとはここにいる妖魔を倒せばいいだけなのだが、それにしても、ここまで数が多いとさすがの彼でも嫌気がさしてくるのだった。
前にいる黒い影が、ファルケンに向かって飛び込んできている。
ふと、風を切る鋭い、ひゅうっという音が聞こえた。ファルケンは、半歩足をずらす。避けた場所に飛びかかってきていた黒い影の一部が、しなだれかかってきた。その背後には、矢が突き刺さっているようだ。地面に触れるまでに妖魔は黒い塊に変わって、ざらざらと崩れていく。
矢の放たれただろう場所は、ちょうど前の壁のほうである。後続の妖魔は、まだこちらに来ていない。ファルケンは矢を拾うと、素早く壁の方に近寄った。その壁に背をつけ、その背後にいるだろう人物にそっと片手で拝むような真似をする。
「悪いな、色々助かったよ。…でも、いつからここに来てたんだ?」
矢を差し出すと、うしろからぬっと手だけが出てきて矢を掴んだ。
「今朝だ。…まったく、ついた早々目立つことしやがって…! 後のフォローが大変じゃねえか」
随分声は不機嫌そうだ。
「そ、それはまあ。それにしても、なんでそんなところにいるんだよ、あいつならもういないぜ? そんな隠れてこそこそ援護しなくても…」
「うるせえな。オレの勝手だろ」
向こう側からぶっきらぼうな声が聞こえた。どうやら、色々気にくわないことがあったらしい。身に覚えがありすぎたので、ファルケンはそれ以上追求するのはやめた。
「なあなあ、まだ妖魔は来そうじゃないし、ちょっと出てきて話しないか? 今後の作戦とか」
壁の向こうにいる人物にファルケンはそっと呼びかけた。かすかにしたうちが聞こえる。ファルケンは軽く笑って肩をすくめる。
「全く…、あんたも素直じゃねえよなあ。出てくるぐらいいいじゃないか。全く、そういうとこ、いつまで経ってもかわらねえよなあ」
壁の向こうの声が少し不機嫌にこう吐き捨てる。
「はっ! 人のこと言えた義理か? どうでもいいが、真打がまだ残ってるんじゃねえのか?」
「まぁな。あと妖魔が五匹に一番厄介なのが一人…。でも、そう心配するほどでもないけどな」
ファルケンはやや苦笑した。
「ほう、案外余裕じゃねえか」
壁の後ろにいる男は、小声でくっと笑い、そっとまた手だけを壁の後ろから出してきた。そこには砂時計が握られている。
「お前の余裕に経緯を表して、賭をしてみるか。砂が落ちた直後に片が付いて、ここに戻ってくるってほうに、オレは銀貨十枚賭けるね」
手がまたぬっとのびてきて掴んだ硬貨をそっと置く。ちゃりんと高い音がなる。
「へぇ、賭けていいのか?」
ファルケンは急に顔をほころばせた。
「じゃあ、オレも銀貨十枚で! 如何様はナシだぜ!」
「お前に如何様使うほど落ちてねえよ。…ほら、そろそろ来たんじゃねえのか?」
言われて、ファルケン前を見る。今まで彼を捜していたらしい妖魔達が、ようやく彼の姿をみとめたらしく、こちらに近づいてきている。
「そうだな、それじゃ、今からスタートだ。行って来る!」
ファルケンはそういうと、俄然やる気がでたらしく、地面を勢い良く蹴って走っていく。それを見計らって砂時計をひっくり返しながら、壁の裏側にいる男はため息をつく。
「あの調子じゃ、あの野郎、オレのいないところで博打、そうとう負けてやがるな」
あとで帳簿を確認してやらなければ、と思いながら、壁の後ろの男は向こうで再び立ち回りを始めたファルケンをのぞきやっていた。
彼らがそのようなやりとりを交わしている間、実はもう一人、とりでに近づいていた人物がいた。
「戻っては来たものの…」
レックハルドは、瓦礫に身を伏せながらそっと外の様子を見やっていた。向こうでは、ファルケンが剣を勢い良く振り回しているのが見える。
空を切って暴れ回っているような姿は、傍目からみるとかなり異様なのかも知れない。だが、そっと魔幻灯に透かしてみれば、彼が何を相手に大立ち回りしているのか、よくわかった。炎の向こうでは、黒い姿の化け物が時に形状を失いながら、ファルケンに襲いかかっている。それをかわし様、大きく剣が振られる。刃が弧を描くたびに、黒い影は紙を裂いたように綺麗に切り離れては散っていく。
「あいつ、なかなかやるじゃねえか」
レックハルドは思わず感心し、同時にこうも思う。
「しかし、あの様子じゃ、オレがもどってくることもなかったかな…」
子供達を連れて街の方に逃げたレックハルドだが、実は、街に戻る途中、ファルケンのキャラバンのメンバーと出くわしたのだった。彼らも、結局帰りの遅いファルケンが心配でおそるおそる駆けつけてきたようだった。心配だという彼らの言葉を聞いて、レックハルド自身も気になっていたので、子供達は彼らが待ちに連れていくことにして、レックハルドが様子を見に行くということになったのである。だが、この状態をみると、彼が見に来る必要もなかったのかも知れない。
「なんだか、出づらくなったなあ」
レックハルドはそうつぶやきながら、彼は知らないが、ファルケンが最後の五匹目の妖魔を倒すのを、魔幻灯を通して覗きやっていた。
太陽が随分高くのぼっている。朝から戦っているが、そろそろ昼になりつつあるのだ。短くなったレックハルドの影の先に、砂の中からぬるりと黒いものが手を伸ばしてきた。
ぞく、と背筋に寒気が走る。本能的なものが、命の危機への警鐘を鳴らす。
「ぐっ!」
突然、背後からの首に強い圧迫感を感じた直後、レックハルドは無理矢理上に引っ張り上げられた。レックハルドは、そっと横目で背後から自分の首を締め上げている人物を覗きやる。そして、息をのんだ。
黒くて姿は崩れかけていたが、顔ははっきりとわかる。ほとんど無表情に、しかし、見慣れた顔のままでそこに立っているのは、良く知る若い狼人だ。
「お前…ファル…」
喉を更にしめつけられて、レックハルドはそれ以上声が出せなくなる。息苦しくなり、次第に意識が遠のいていくようだった。ファルケンの姿をしたものは、力を緩めない。それどころか、唇にうっすらと笑みすら浮かべているようだった。
「…ファルケン…お前…オレを…」
掠れた声で、レックハルドはつぶやいた。
(やはり、オレを恨んでいるのか?)
悪夢が蘇ってはもうろうとしてきた頭を掠める。そろそろもともとの暮らしに戻りたいと思い始めていた心の中の迷いを見透かしたようにして現れた、あの夢の中のファルケンの絶望したような目を思い出せば、自分はここで殺されても仕方がないような気がした。あのとおりだとすれば、きっと今も、彼は冷たい闇の中、救われることもなく眠り続けているのだから…。
いやちがう。ふとレックハルドの心に、あることが思い浮かんだ。あの、ここで昨夜見た夢だ。あのとき、どうして、ファルケンの絶望的な目をあれほど恐いと思ったのか、今更ながら、その原因が分かったような気がした。
(ああ、そうか…オレ…)
徐々に首を掴む手をふりほどこうとする指に力が入らなくなってくる。腰の短剣に触れていた左手が力を失ってだらりと垂れたとき、短剣が鞘ごと帯から抜けて下の煉瓦に当たって音をたてた。
と、向こうで敵を捜していたらしいファルケンが、物音に気づいたのかこちらを向いた。ファルケンは、その状況をみて慌ててこちらに向きを変え、握っていた剣を投げつけた。剣はまっすぐにレックハルドを締め上げている妖魔の所に飛んでくる。妖魔は、レックハルドを放すと、自分は素早く飛びずさった。
「『レック』!」
レックハルドは、いきなり解放されて、受け身もとれないままに砂の上に落ちた。慌てて駆け寄ってきたファルケンは、レックハルドを抱え起こす。
「大丈夫か?」
だが、レックハルドは、まだ首を押さえて唸っている。指の間から黒い輪のようなものがのぞいているのが分かる。
『その男を助けるには、私を倒さねば無理だ。』
離れた場所から、揺らめくような声が聞こえた。ファルケンはすばやくそちらの方向をみる。ファルケンと同じ姿をしていた、黒い影のようなものは再び不定形に戻っていた。
『久しぶりといおうか、それとも、初めましてといった方がよいか。』
何か含んだような言い方をしながら、黒いものはそういった。
『私を引き込んだのは貴様だな?』
ファルケンは目の前にいる黒く歪んだものを睨みつけながら言った。
「何がビフェンダルだ」
『そう呼んでもらいたいと思ってな。妖魔というのは、下手をすると個体識別をしてもらえない。名で呼ばれないものだ。』
「妖魔を操ってこの辺を荒らしてたのもお前だな? それで、おかしらを名乗ったってわけか」
ファルケンは、砂地の上のレックハルドを気遣いながらも、慎重に間合いをはかっている。
「一体何が目的だ」
そう訊くと、ふとビフェンダルの唇が覚えのある歪みを形成した。知る人の顔に似てきているのだ。
『…私はお前に恨みがあるのだ。』
「オレにもあいつにも、なんだろ」
ファルケンは、徐々に姿をとり始めたものを見据えた。それはマントをふわりと広げた。鋭い目はやや細く、皮肉っぽく唇をゆがめて笑う笑顔は、まぎれもなくレックハルドのものである。ただ、それは、今傍にいる彼の表情とは少し違った。厳密に言うと、今いるレックハルドをもう少し老成させたような表情、おそらく、レックハルド=ハールシャーに最も近い筈の顔だった。
『随分と長い間、機会をうかがっていた。』
「それでその姿って訳か? …いい趣味してるぜ、嫌がらせには最高だな」
レックハルドの顔をしたビフェンダルは笑みをゆがめる。
『あれは恐がっていた。…自分の中の影だ。そう、自分の中にいる、自分とは違う男、おそらく、ハールシャーと彼が呼ぶその男。だから、その姿を借りた。私には分かっている。いま、彼が何を怖がっているのかが…つまり…』
「黙れ!」
ファルケンは鋭く相手の声を遮り、足をそっと進める。
「鏡の湖からずっとあいつに取り憑いてたんだな。自分の領域に引き込んで殺す気だったんだろう?」
ビフェンダルは答えない。
「だが、お前のもくろみは失敗した。まぁ、オレが感知してお前をこっちの世界に引き込んだんだがな。苦労したぜ。あいつの影にいるんだもんなァ、さすがに、アイツごと斬っちまうわけにはいかないし、それに影に何かいると事情を話せば、てめえは、あいつをその場で引き裂く気だっただろ」
ファルケンは静かに剣を引きつけておく。後ろでは、レックハルドが呻いているので、早く勝負をつけなければならない。それと同時に、相手は油断できない相手でもある。一撃でとどめを刺さなければ、レックハルドを殺そうとするかもしれないのだ。おそらく、チャンスは一度。タイミングを外すことは出来ない。
『お前に私が斬れるのか? 親友の姿をした私が?』
レックハルドそのものの顔で彼は笑う。
「親友って言うと、あいつ嫌がるぜ」
ファルケンはにやりとする。
「それに、お前のは単に姿を映しただけに過ぎない。レックハルドは、もうちょっと恐い男だよ。あいつが敵じゃなかったことを、オレは感謝するべきだと思うくらいだ」
ビフェンダルがマントのような黒いひだの中で、そっと手を握っているのがわかった。あの下には、刃物のようになった爪が潜ませてあるはずだ。ファルケンは続けた。
「それに、オレはプロだぜ。そう、オレは狩人(シェアーゼン)だ。司祭と違って、オレは辺境の守をしてるわけじゃない。そもそも、オレの本職はお前達を…」
ビフェンダルの方がふらりと動く。攻撃をしかけてきたのは一瞬でわかった。
「あるべき所に還すことだ!」
ビフェンダルが攻撃にうつる瞬間、ファルケンの握った刃がしゅっと忍び込むように前に出た。そのまま彼はとびこむようにビフェンダルの懐に突っ込む。すでに体勢を変えているビフェンダルは、今更避けられない。ファルケンは、そのまま刃を真横にふるった。それは、レックハルドの姿をしたビフェンダルを容赦なく薙ぎ倒した。黒い粒子がさらさらと飛び、レックハルドから大きく姿を崩しながら、人ならぬ絶叫を挙げながらそれは崩れ去っていく。
「お前はあいつを侮辱した」
ファルケンは低い声でいった。
「…オレはあいつを侮辱するような奴は絶対に許さねえ」
ファルケンは言い捨てる。砂の上に伏したビフェンダルは、黒い塊になり、やがて灰のようになって消えていく。それを目で確認し、ファルケンはすぐにレックハルドの元に駆け寄った。
「くそっ! こんな真似しやがって!」
ファルケンは、レックハルドの首に巻き付いた妖魔の破片を力ずくでひっぺがすと、その場に捨て去った。本体をなくした妖魔は力無くしおれ、消え去っていく。
「大丈夫か?」
ぐったりとしたレックハルドに声を掛ける。顔色は青く、指先が軽く震えていた。
「レック、レック!」
名を呼びながら、軽く揺すってみる。レックハルドは、薄目を開けた。ほっとするファルケンに、彼は掠れた声でつぶやく。
「すまねえ…」
レックハルドは目を閉じながら、もう一度いった。どうやら、レックハルドは、目の前にいるファルケンと夢の中のファルケンとの区別がついていないらしかった。
「…忘れてないといったのは嘘だ。オレは、お前が生きてる『ここ』で、ずっといたいと思った。だって、そうだろ、ここがオレの『現実』だったらさ、オレがやった失敗でお前が死んだなんてことも無かったことになる。誰も、オレのことを責めないし、お前は強いしさ。オレが辛い思いをしてまで、信用できねえ奇跡に命を懸ける必要なんて無いんだ。随分、この世界に満足してたよ。お前が死んでることなんて忘れちまってた…。心のどこかで思っていたんじゃない。オレは、本当はずっとそう思ってたんだよ、だからお前に追求されるのが恐かった。だから、色々言い訳しちまった」
ファルケンは、ふと痛ましげな顔をする。レックハルドは、弱々しい声でいって、自嘲的に笑った。
「オレは馬鹿だよ、逃げられるわけもないのにな。忘れても、お前に似た奴が生きていても、お前がオレのせいで死んだ現実はなかったことにはできねえのによ。夢にはできないあの血の赤い色も覚えているのにさ。…すまねえ…ファルケン…」
「それは…」
ファルケンは何か言おうとしたが、口をとめた。レックハルドは気を失ったのか、もう口を開かなかった。一大事ではなさそうなので安心したが、同時にやりきれないような思いがした。ファルケンはため息をつき、眠ったレックハルドを眺めていた。
と、不意に彼はあることを思い出す。先ほど、賭をしたのではなかっただろうか。確か、片をつけてあの場所に戻るまでだ。ファルケンは立ち上がると、壁の方を見た。砂時計が瓦礫の上にちょこんと座っている。
「あああっ! や、やばいっ!」
ファルケンは突如慌てだし、だっと走り出した。砂時計は、さらさらと時をずっと刻んでいた。残り少なくなっていた砂は、ざーっと彼が滑り込んだ途端に、全て滑り落ちてしまった。飛びついて、砂が残っていないか、じっと見てみたのだが、こんな時に限って砂は律儀に全部流れてしまっていた。
「タイムオーバー」
冷徹な声が無情に響いた。
「し、しまったあぁあ!」
ファルケンは頭を抱えた。
「ひゃははははははは、時間切れー! 甘いな、勝負師は私情を挟まないもんだ」
とうとう壁から姿を現した男は、皮肉っぽく笑って砂時計を取った。
「あそこで下手に介抱しなきゃお前の勝ちだったのさ。惜しかったな、ファルケン」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
ファルケンは慌てて立ち上がった。いつもはあっさりと引き下がる彼なのだが、博打が絡むせいか、まだ食い下がるつもりらしい。
「でも、オレは『あんた』を助けたんだぞ。おかしいじゃないかよ。あそこで介抱しなきゃ、『あんた』が死んでたかもしれないのに! それに、オレは、話だって…!」
「オレは助けてくれと頼んだ覚えはないね」
冷淡に黒服の男はいう。
「それに、勝負に条件はなかっただろうが。何が起きても勝負は勝負。いったろ、勝負師は、私情を挟まないもんなのさ」
そこまでいわれて、ファルケンは肩を落とした。男は、先ほどのビフェンダルのような、歪みのある笑みを見せる。
「大体な、お前最近格好つけすぎなんだよ」
ファルケンは、まだ諦めきれないのか恨みがましい目でそっと男を見る。
「如何様してないんだろうな」
「お前ごとき相手に如何様使うほどおちちゃいねえよ」
ごとき呼ばわりされて、ファルケンは深くため息をついた。本気で負けた。どうにもならない。
「どーせ、今金ないんだろ。あとで、十枚作ってオレに渡せよ。んじゃ先に帰ってるぞ」
勝ち誇った笑みを見せて、黒服の男は上機嫌で去っていく。その背中を見送りながら、ファルケンは深いため息をつく。
「ホント…、恐い奴だよ。…自分を助けてやったんだから、負けてくれたっていいじゃないか」
ファルケンはぽつりという。
「まったく、あんたが妖魔じゃなくて良かったよ、『レック』」