辺境遊戯・幻想の冒険者達/©渡来亜輝彦2004
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辺境遊戯 第二部 

鏡の向こうのファルケン-7

 月の清廉な光が、静かに目の中に飛び込んでくる。近くから優しく寂しい弦楽器の音がしていた。
 月光で砂は白く見えた。静か過ぎて、なんだか死の世界のように見えた。神殿のような厳かさすら感じるその静寂の中、一際澄んだ声がした。不思議とそれはその場にあうような、だが厳かというよりは空気をなでるような優しさを持つ声だった。辺境古代語の、独特の優しく優雅な響きをたどるように発音しながら、その声は歌を歌っていた。
 その声の主は、レックハルドからそう離れていない所の砂の上にいた。ゆるやかに砂がもりあがった、小さな砂丘のようになったところで胡坐をかいて、背を向けている。しろい月の光に照らされて、黒っぽいコートの色と色の薄い髪の毛が対照的に見えた。
 レックハルドが身を起こしたのがわかったのか、歌と音楽は静かに空気に溶け込むように止んだ。
 それと同時に、そこにいた背の高い人物がこちらに振り返ったのがわかった。顔がつきの逆光で見えなかったが、レックハルドにはその人物が誰であるかはわかっていた。
「なんだ、目が覚めたのか?」
 そこにいるのは、ファルケンだった。夢にでてきたファルケンとは、おそらく別人だが、不思議と少し自信に満ちた笑みを浮かべるほかは、身にまとう雰囲気まで同じだった。だが、不思議とその姿を認めても恐怖は感じなかった。寧ろ、少しだけ安堵できた。
「お前…」
「そろそろ起こした方がいいかなと思ってたんだがな」
 レックハルドは辺りを見回す。そこには、寝る前に騒いでいた連中の姿はなかった。
「他の連中は?」
「宿で二次会やってるんだろ。オレがそうしろっていってやった。あそこははずれだからな、騒いでも文句言われないだろ。あんたも一緒に…と思ったんだが、なんだかよく寝てたから起こすのも悪いと思ってな」
「宿で? 最初から宿でやりゃよかったじゃねえか」
 レックハルドは首を傾げた。そして、ある可能性にきづく。
「お前だけ、野宿か?」
「ああ、野宿って言うか、そうだなあ。あの街じゃ、そーとー嫌われてるらしくってな」
 ははははは、と彼はからっと笑い飛ばしたが、レックハルドには何となくむなしいものに見えた。彼自身の表情というよりは、レックハルドの感情が投影されただけなのかもしれない。
 泊めてもくれないのに、そこで狼人の彼が酒を飲むなど許されるはずがなかった。レックハルドは、すまん、と一言言って、目を砂の上に落とす。
「ああ。いいんだぜ。オレは気にしてないからよ」
 その様子をみて、ファルケンは例の少し伝法な口調でからっと言った。
「それにさ、砂の上で一杯ってのもなかなかオツなもんだし」
 彼自身は、さらりとした明るさで近くの杯を指した。なるほど、ひとりでまだ一杯やっていたのか、酒がまだわずかに残っている。
「さっきの、お前が弾いてたのか?」
 レックハルドは、話題を変えるためと、先ほどの歌を思い出したことからそう訊いた。
「ああ、最近ちょっと歌なんてもんに凝ってるんだ」
 などといいながら、手にした弦楽器を見せびらかす。ウードのような形のものだが、一体何の楽器かはわからない。それに、あまり上等のものではないようだった。器用な彼の事なので、手作りなのかもしれない。普通の楽器らしくない妙な歪みがある。
「古い古い民謡らしいんだが、…意味はオレにもよくわからねえ」
 そういって、弦楽器をじゃらんと鳴らす。
辺境古代語 ( クーティス ) だな」
「ああ。だが、これは、どこかの地方で人間が歌ってる民謡なんだぜ。どこで聞いたのかは、オレも忘れた」
 あっけらかんとそういいながら、もう一回歌って見せようか、といった視線をレックハルドに送った。レックハルドは、直接答えず、膝の上で頬杖をつく。それを、肯定ととったのか、彼は弦楽器で音楽を奏ではじめた。
 清らかな声が、砂漠の夜の冷たい空気に響く。静かだが、よく響く声だ。 辺境古代語 ( クーティス ) の中でも古い言葉で構成されたそれは、次のような意味の詞を歌っていた。


  ああ、瞬く炎と金貨と蜜を持て祝福せり
  おさなごよ、汝の旅の難からざるをば約束せむ…

  其の足の踏むところ、砂の草に変わること忽然たり
  其の目の仰ぐところ、吾必ずやこの身をうつさむ

  霞の楼も象牙に代わり
  泥の船も汝が為ならば砂の海を行かむ

  時幾許か過ぎ去らんとも、吾ここにこの言葉を以って誓わん
  その固きこと、
  焔(ほむら)の汝を照らすごと、薔薇の花の赤きごと、砂漠の砂の尽きぬごと

 
 一通り歌い終わり、ファルケンは手を止めた。レックハルドは、あえて拍手はせずに、少しだけ嘆息を漏らした。手を叩くのが、なにか悪いような、妙な力を感じさせる静かな歌だったからである。
「なんだか、魔法の歌みたいだな」
  辺境古代語 ( クーティス ) はレックハルドにはわからない。ただ、そういう感じがしただけだった。
「まじないの歌、ってのは案外外れてないかもなあ」
 喉を潤すのに、酒を含んでいたファルケンがポツリと呟いた。少し含みを持たせた言い方だ。
「なんとなく、そういう感じのする歌だよ」
 にっとリャンティールのファルケンが、闇の中で笑った気がした。その真意はわからない。もしかしたら、本当に魔術的な意味を含む歌なのかもしれない。魔除けの効果でもあるのかもしれないし、もしかしたら逆によくないものを呼び寄せているのかもしれない。そうした、微妙な魔力を感じる歌なのだから、どちらでもおかしくなかった。レックハルドは、それ以上追求するのをやめた。
 ファルケンは、懐からいつもの長めの煙管を取り出すと口にくわえた。
「…で、なんだかうなされてたみたいだな…。悪い夢でも見たのかい?」
 もしかしたら、今までの言動はその話題を振るためにひねり出したものなのかもしれない。くわえた煙管がどうにも、居心地悪そうにふらふらとしている。いつまでたっても火を入れる気配もないし、手持ち無沙汰でくわえているのは一見してわかった。
「……さぁ、悪い夢ならよかったのにな」
 ふっとため息をつき、レックハルドは月を見る。綺麗な月だった。ほぼ新円を描いている月を見ながら、レックハルドはもうそんな日数だっただろうか、と考える。レックハルドが覚えていた限り、昨日、湖に落ちるまでは、確か半月だったような気がした。
「どっちが現実で、どっちが夢なのか、わからなくなるんだよ」
 レックハルドは寂しそうに言った。
「今日の宴会、…楽しくなかったのか? …ちょっと離れたところにいたから…つまらなかったのかと……」
 彼は不安そうに聞いた。レックハルドは静かに首を振った。
「いいや…そうじゃあねえんだ。久しぶりに、色々食べられてなんだかほっとしたよ。ただ…」
 言葉を濁すレックハルドをみながら、彼は煙管をしまいこんだ。それから、横目でみやりながら、そっとさりげなく訊いた。
「…オレと似た奴に負い目があるのか?」
 いきなり訊かれて、レックハルドはハッと彼の顔を見た。それを見て少しだけ気まずそうにしたリャンティールは、胡坐をかいている膝に片頬杖をついて少しだけ苦笑した。
「いやな、見ればわかるさ。あんた、オレと目ぇあわせねえだろ。いいや、厳密にいうと合わせられねえんだな。あんた、オレの後ろにオレじゃねえ人間の影を見てるはずだ。オレの顔を見るたびに、そいつのことを思い出して、あんたは自責の念に駆られる。違うか?」
 レックハルドは応えない。彼は、少しだけレックハルドから目を逸らし、付け加えた。
「ま、…余計なこといったなら謝るが…」
「……オレは…」
 レックハルドは、ぽつりといった。
「あんたと、同じ顔の奴を見殺しにしたんだ。…助けてくれっていわれたのに、ただ見てただけで何もしてやらなかった」
 レックハルドは、うっすらと微笑んだ。無理に笑ったそれは、孤独の色を帯びて苦しそうに見えた。
「本当の事言うと、忘れちまいたいのかもな…。そいつのことも、そいつを見殺しにした事も。だったら、何も考えないで、飛んで帰って前みたいに商売して、マリスさ…好きな子にも会って……」
 ふと、彼の表情が険しくなる。
「昼間、久々に街にいて、オレはそう思った。全部捨てて元の生活に戻ったらいいんじゃねえかって。オレがこんな辛い思いをしているのは、あいつがよりにもよってオレの目の前で死んだからだ。全部悪いのはあいつじゃないかって…昼間、何の悪意もなくそう思った…だから、オレは自分が余計に許せなかった!」
 レックハルドの握り締められた拳がやや震えているのがわかった。それに目をやりながら、ファルケンは彼の感情を伺うように静かに言った。
「…楽なほうに流れたいと思うのは、誰だって同じだろ。あんただけじゃないよ」
 レックハルドは返事をしない。一転、ファルケンは不意に調子を変えて尋ねてきた。
「そいつはあんたのシルユェーラだったのかい?」
「し、シルユェ?」
 唐突に聞いた異国の言葉に、レックハルドは思わず聞き返した。
「シルユェーラ…」
 にやっと笑いながら、彼は言った。
「狼人の言葉で、「信じてもいい」。つまり、信じてもいい人。ま、あんたの知ってる言葉に訳すと、そうだな、親友とかそういう意味だと思ってくれてもかまわねぇ」
「意外にシビアないい回しするんだな」
 レックハルドは素直にそう感想を漏らした。
「まぁ、でも、そうだな…。その方がいいかもしれねえな。確かに、『信じてもいい』奴だったよ」
 レックハルドは、少しだけ乾いた笑みを漏らした。それに対して、今度は笑いもせずに、ファルケンは訊いた。
「あんたは、何を恐がってるんだ? 夢に出てきては恨みを告げるその 親友 ( シルユェーラ ) か? それとも、この状況を全部放り出して逃げたくなる自分か…どっちなんだ?」
 唐突に訊かれて、レックハルドは表情をこわばらせた。ファルケンは、子供を諭すときのようにゆるやかに、気をつかいながらそっと続ける。
「あんたの言い方だと、どうもその 親友 ( シルユェーラ ) には直接罵倒されたり、恨みをつらつら言われたりはしてないわけだ。なのに、どうしてそんなに恐がるんだ?」
 レックハルドは、砂の上に目を落とす。それをみて、ファルケンは、優しく言った。
「本当は、あんた自身もわかってるんだよな。あんたが怯えてるのは、その 親友 ( シルユェーラ ) の恨みの声に対してじゃない。辛い事を全部放り出して、全部相手のせいにして逃げようと、心の中で考えそうになる自分に対してだよな…。だから、 親友 ( シルユェーラ ) が自分を責める悪夢を見て、あんた、逃げそうになる自分を罪悪感で押さえつけようとしているんだ。そうなんだろ?」
 しばらく、場が静かになった。ファルケンは黙ってレックハルドの回答を待つ。月の光でしろい砂漠を、風が緩やかになでていった。
「……そうかもしれねえな」
 静かにレックハルドが答えた。その声は思いのほかしっかりとしていた。
「わかってたんだ。あいつはオレに詫びながら死んだ。オレを怨んでいたとしても…、あいつがオレに恨みをつらつら述べるはずもない。そんな奴じゃなかったよ。だから、あいつがオレを恨むだなんて、本当は口にした時点で、オレはあいつを侮辱してる事になるんだろうな」
 レックハルドはぽつりぽつりと言いながら、ため息をついた。
「それでも、そう思ってしまうんだ。…あいつが死んだ事なんて忘れて、自分ひとりで幸せになりたいなんて、そういうひどい事をオレはどこかで思ってる。あいつが死んだのはオレのせいだっていうのに……オレは……」
「あんたは――自分が楽しい思いをするたびにそうやって罪の意識に駆られてるのかい?  友達 ( シルユェーラ ) が苦しみながら死んだのに、自分はどうしてこんなに幸せそうにやってるんだって…そうなのか?」
 レックハルドは急に黙り込む。夜闇に溶け込むには明るすぎる色の狼人の髪の毛が、夜風にゆらりとゆれた。 
「…なあ、そろそろ、自分を許してやったらどうだ? もう、あんたも充分苦しんだだろ?」
 ファルケンは優しくいいながら、レックハルドの顔をうかがうようにした。表情はうつむいているのでわからない。
「なあ、幸せ〜にのんびりくらしたいってのは、誰でも思うことだよな。あんただけが特別なわけじゃない。もしかしたら逆の立場ならあんたの友達だって………いや、すまん…」
 言葉を呑んだのは、一瞬レックハルドの目が彼を睨んだからだ。死んだ友人を悪く言われるのを嫌ったのはすぐにわかった。
「……でもなあ」
 やんわりと、今度は彼の心情を害さないように、ファルケンは慎重に言葉を選びながら言った。
「もし、もしもの話だが…オレが、あんたの 友達 ( シルユェーラ ) だったら…の話だが…」
 レックハルドは、顔を上げた。
 彼は引き続き、やんわりと続けた。
「オレなら、もしかしたら、あんたが自分の事忘れて幸せになってれば、恨むというよりは羨ましいと思うかもしれないなあ。…どちらにしろ、あんたにとっちゃそんな感情も、恨まれるのと同じぐらい辛いだろうが…」
 そういってから、彼は優しく笑った。
「でもなあ、そうやって思った時点で、すさまじい自己嫌悪に陥るだろうぜ。それに、今みたいに罪悪感に捕らわれたままのあんたをみたら、きっと、あんたがその友達が死ぬときに何も出来なくて辛かったときと、同じような辛い思いをするだろうな…。何も苦しむってのは、本当に苦しんでいる状態だけを指すんじゃないんだろ? オレから見れば、今のあんたも、相当辛そうに見える。しかも、多分、今のままじゃ死んだって苦しみから解放されないだろうからな」
 レックハルドは、少し驚いたような顔をして黙って相手の顔を見ていた。
「心の苦しみって言うのは、そういうもんじゃないのか? あんたが自分のせいでそこまで追い詰められてるのを、ずーっと見てるのは、多分それだって相当辛いんじゃねえのかい? いくら恨んだ事があったとしても、友達をそこまで追い詰めて笑ってられるような奴は、本当にどうしようもない奴だろうなあ」
 そういいながら、彼の知らないファルケンはふっと微笑んだ。
「そろそろ、許してくれてるさ。酒でも飲みながら、前向きに考えてみな。別の世界が開けるかもしれないぜ?」
 彼は傍にあった酒瓶をひきよせてにっこりと笑った。
「飲む事しか考えてないのな」
 しばらくたって、レックハルドはつられたようににやりと笑いながら返した。だが、その笑みには隠し切れなかった寂しさのようなものが月の光にうっすらと映っていた。
「あんたは嫌いか、アルコール? オレは酒が飲めるんなら、世界の果てまで走ってもいいぐらいだ。むしろ、酒のためなら命かけられるね!」
 うきうきとそんな事をいう彼に、馬鹿馬鹿しい。とばかりにレックハルドは肩をすくめた。
「少なくとも、オレの知ってる奴は酒は嫌いだったよ」
「そうかあ。詰まんないやつだな…アルコールのよさをわからねえ奴は、風流をわかってない!」
 不本意そうに、リャンティールのファルケンはわけのわからない事を言うと、思い出したように別の杯をレックハルドのほうに渡す。そして、少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「でも、飲めるだろ? さっきの宴会、あんたあんまり飲んでなかったの、オレは知ってるんだぜ?」
「まぁな」
「それじゃ、もう一度騒ぎなおそうぜ。飲め飲め!」
「お、おい! いきなりかよ!」
 いきなり杯にあふれるほど注がれて、レックハルドは慌てたが、ファルケンはにやにやしていた。
「やっぱり羽目を外すぐらい騒ぐのがいいんだよなあ!」
「あのな…」
 あきれ顔のレックハルドに彼は悪気のない笑みを向ける。レックハルドは、しかし、それで少しだけ助かったような気がした。何となくだが、少しだけファルケンに許してもらえたような、救われたような気分になったのである。
「…しょうがねえなあ」
 そういいながら、レックハルドは口に酒をふくんだ。
 
 結局、なみなみ注がれる酒を飲んでいるうちに、レックハルドはかなり気分がよくなった。わけのわからない事で、ファルケンと笑いあったり、挙句の果てには肩組んで意味不明の歌を歌ったり、更には弦楽器の端を叩いてリズムを取るのにあわせて、またしても千鳥足で踊ったりしていた。
 一通り騒いで、かなり飲んだ。街のはずれなので、咎め立てするものもいない。
「ふっははははは〜!」
 少しどこか飛んだような声で、レックハルドが笑い声を上げていた。急に肩を叩かれて、横にいたファルケンが危うく杯を落としそうになり、慌てて受け止める。
「それにしてもよ、お前が商人なんてにあわねえよなあ」
「いや〜、オレもあんまりなるつもりはなかったんだが…」
 言いながら、少しだけ苦笑する。
「はは〜、もうちょっと交渉法を学べって! まぁ、どうでもいいか」
 そういいながらふらふらっと前の方に歩いていく。ファルケンは、少し頭をかいた。さっきとは一転、明るくなったのでよかったのだろうが、それにしても少し飲ませすぎたかもしれない。
「あんただけ宿に帰そうと思ったけど、ちょっと無理そうだなあ」
 ファルケンは、大分酔っているらしい彼の様子を見ながら、少し苦笑した。
 一応野宿しても差し支えなさそうな街に近い場所に移動してから、寝る事にした。移動した途端、酒が回ったのか、倒れこんですぐに幸せそうに寝てしまったレックハルドに、彼は余分目に持ってきていた毛布をかけてやった。そして、自分もそこから少しはなれたところで毛布を被ってごろりとよこになる。
「まったく…」
 酔っているというよりは、単に眠たそうな目を、レックハルドに一度向ける。
「ホント、結果でしかモノを考えねえんだから…」
 ぽつり、と言ったファルケンは、手元の酒を一気にあおるとばったりと倒れこむ。そろそろ眠くなったのだろう。月はすでに南中を終えている。街の方も静かになっていった。焚き火の火が撥ねてパチパチ鳴る音が、いやに耳に響く。
「面倒ったらありゃしないんだからなあ」
 本当に面倒そうにそっと呟くと、彼は右手に空の杯を持ったまま目を閉じた。
 ふと、ファルケンは閉じていた目をそっと開けた。何かがずるりと砂の上を這い回っている気配がしたのである。
 サソリか何かだろうか。いや、見なくても彼にはわかる。何か黒いものがずるずると地面の上にいるのだ。しかも、徐々に自分に近づいてきている。体の左側にそっと闇のような色を伸ばしてきているのだ。
 それが彼にほとんど触れそうになったとき、突然、彼は杯を握っていない左手で帯に挟んでいた短剣を抜いた。ファルケンはそれを迷わず、黒い這いずるものの上に突き立てた。それの悲鳴は聞こえない。だが、いきなりの事に、それは激しくのたうちながら、それから脱出しようと暴れまわった。
「観念しろ! 気づかないとでも思ったのか! 案外能天気だな!」
 小声だが、それだけに押さえた殺気のようなものが一際目立った。黒いものはいっそう激しく暴れるが、ファルケンはまったく手を緩めない。砂漠の砂の上に押しつけられた黒い半透明の物体は、やがて、観念したようにどろどろと溶け始め、砂の中にしみこんでいった。それを目の端で確認し、ファルケンは短剣を砂から抜いた。そこには何も残ってはいない。ただ、普通に砂があるだけであった。
「…チッ、本体は逃がしたか…」
 だが、今夜はもう現れる事はない。それだけの手傷は負わせたはずだ。彼は小さな声で呟き、それからふんと鼻先で笑った。
「オレを余り甘く見るなよ」
 相手は返事をしないどころか、近くに気配を感じさせなかった。だが、ファルケンはそういうと、口の端に暗い笑みを漂わせ、再び目を閉じた。
 どうやら、明日は忙しくなりそうだと思いながら……。





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©akihiko wataragi