辺境遊戯・幻想の冒険者達/©渡来亜輝彦2004
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辺境遊戯 第二部 

鏡の向こうのファルケン-5


 砂漠を進んでいくと、いよいよ街は鮮明に目の前に現れてきた。石造りの建物がいくつかあり、なかなか混み合っている。そこそこの都市のようだ。
 キャラバン隊を率いて、ファルケンを名乗る狼人はそのまま町の中に入っていった。目の前であちらこちらから来たらしい商人が、露店を広げていた。ディルハート近くの町だというのは、間違いないらしく西の世界風の布やものが積み上げられていた。
 久しぶりの商業地の空気に、レックハルドは懐かしさと共に、何か妙な安心を感じていた。目の前で同業者が売買や交渉している姿をみると、自分もまたあの中に入って仕事に励みたいという気持ちも湧いてくる。砂漠に向かうときに、資金を全部捨ててきた事もすっかりわすれてしまいそうだった。
 隊商宿をいくつか尋ねて、最終的に街のはずれの宿を取る事にした。多くのものは疲れ果てているのでそこで休むようだったが、当のリーダーは信じられないほどタフである。今から、街に出てくるから何人かついて来い! と無神経に命令を飛ばしたが、案の定ついてくるものはいなかった。
「何でだよ? お前達には根性というものがねえなあ。情けない、オレは情けないぞ!」
 やや口を尖らせて、彼にしては結構な仏頂面で言うと、すでにぐったりしている連中は
それに応え返す元気もないようである。
「リャンティールは無茶苦茶ですよ。大体、あの後でへらへらしてられるなんて、あなた以外には無理です」
「精神的鍛錬の差だろ!」
 ムッとした顔であるが、それ以上取り合いそうもない部下達を見て、彼は肩をすくめた。仕方なく一人で歩く事にしたらしく、きびすを返して歩き出そうとした。
 出口のほうで、レックハルドが壁に背をつけて立っている。
「なんだ、出かけるのかい?」
 レックハルドは、歩きなれている分、他の連中よりは元気だった。それを見つけて、ファルケンは目を輝かせる。
「あっ、元気そうだな。それじゃ、あんたもいくか?」
「荷物運びは嫌だぞ」
 レックハルドが釘を刺すと、チェッと小声で舌打ちした。どうやら荷物運びの人員確保を狙っていたらしい。レックハルドは軽く肩をすくめた。
「街に出るのは久しぶりでな…、ちょっと回ってきてみてもいいか? それに、連れの事がわかるかもしれないし」
 つれといいながら、レックハルドはどこかでイェームにはここでは会えないだろうと思っていた。周辺の宿を当たってみたし、あれほど目立つ男なのに、町外れの隊商宿に来るまで、ファルケンが人にきいてくれたのだが、見たという報告は聞いていない。彼が自分達よりも遅いことはないし、それに、レックハルドの勘のようなものがイェームとはここでは会えない事を何となく伝えていた。
「なるほど! まぁ、荷物は別としても、街をちょっと回ってみるのもいいよな。それじゃ、ちょっと出てくるわ!」
 納得した様子でそういうと、彼は後ろに向かって手を振った。げんなりした仲間達が、手を振り返す事はなかった。
 隊商宿を出て一人で歩いていくファルケンの後を何となく追いかける形で歩きながら、レックハルドは不意に、彼がどうしてわざわざ町外れの寂れた隊商宿を、今夜の宿に選んだのがわかった。
 街の連中の視線だ。この街では、狼人に対してあまりよい感情がないのかもしれない。土地によってそういう場所があるのは、ファルケンと旅をしていた間にすでに充分わかっていた。だから、彼は華やかな場所での宿泊を避けたのだろう。一人歩きを嫌がったのも、それからかもしれない。そういう場所で一人で歩くと、絡まれるかもしれない。大勢で取り囲まれると、大事になってしまう。人間を間に挟んで歩いているほうが、仲介に入る事ができるだけ、いくらか安全なのだった。
 だが、街中から奇異の目で見られても、このファルケンは平気そうな顔をしていた。彼の知っていたファルケンのように、うつむいたり、所在なさげに視線をさまよわす事もない。ただ、まっすぐに歩いたまま、周りの事を気にしていないようだった。
「悪いな。ちょっとこの辺りじゃ、狼人に敏感なんだ。気になるか?」
「あ、いや」
 絶妙のタイミングでそうきかれて、レックハルドは慌てて首を振った。
「そうか、ならいいんだが」
 ファルケンはさらりと笑いながら、陽気に言った。
「まぁ、普段は気づかずに流してくれる街のほうが多いんだがなあ。ちょっとこの空気は特殊だよな。誰か何かやったんじゃねえだろうな」
 自分のことなのに、割とのんきなものだ。
「あぁ、心配にゃ及ばないぜ。もし、絡まれたら、実力行使って手があるし」
「お、お前な…」
 返答があまりにも物騒だったので、レックハルドはやや困惑したような顔をした。
「ただの予防線だ。本気でやったりゃしないよ」
 くっくっとおもしろそうに笑いながら、彼は応えた。
「要は慣れだ。オレのほうからも気をつけていけば、いつかわかってくれるさ。過剰に気にするのは、精神衛生上よくないからな」
「そうか」
 レックハルドは応え返しながら、街の中、人々の冷たい視線を受けて、何となく居辛そうにうつむいていたファルケンの事を不意に思い出した。街を歩くのは、彼にとってそうそう楽しい事ではなかったのかもしれない。彼の力を傘に着て、堂々と街中を歩いていたのを、彼はどう思っていただろうか。
「まぁ、あんたが気にする事じゃねえさ。そうそう、オレちょっと食料調達しにいかなきゃならないんで、あの辺の店に掛け合ってくるよ。その間、情報聞いたり、飯食ったりしといてくれ。あ、金持ってるか?」
 言われてレックハルドはハッとした。金は、砂漠に向かうとき大方焼いてしまい、後は準備品を買い揃えるので使い果たした。びた一文、彼の懐には入っていない。商人だというのに、何となくその状況が寂しく思えた。
 それに気づいたのか、彼は自分の腰に下げていた財布のうちの小さいもののほうを差し出して、レックハルドの手のひらに置いた。
「ああ、砂嵐で失くしたんだろ。気にするなよ。困ったときはお互い様だし」
「い、いいのか?」
「あぁ、気にするな。まぁ、どうせ…巡り巡るんだし」
 ぼそりと、付け加える。金は天下の回り物という意味なのだろう。レックハルドはそれを受け取った。目の前で、男はかつて彼と共に旅をしていた人間のような顔で満足そうに笑った。

 

 砂嵐は広範囲に吹き荒れていた。あのファルケンのキャラバンだけでなく、他のキャラバン隊もかなりその被害をこうむっていた。デラビュ砂漠の西のほうから近づいてきていたこのキャラバンの一団も、そうして予定を狂わされた砂嵐の被害者なのだった。
「ちっ、日程が合わなくなったな。仕方ない」
 頭領らしい、それでもまだかなり若い男が頭に巻いた黒い布の砂を払いながら言った。きているものも黒いので、砂を被ると汚れがいっそうよく目立つ。それを嫌そうな顔で払い、結局綺麗にしきれないのであっさりと諦める。頭領は、ふところから手を突っ込んで、一枚の地図を差し出した。そうして、数字を書いたメモと見比べて、指で砂漠の中の一点を指し示す。
「ここだな」
 少しだけにっと口をゆがめる。それから彼は後ろのメンバーに向かって声をかけた。
「さっき計測した結果からすれば近くにレビエという街があるはずだ。そこに一端立ち寄るか」
「しかし、そうすれば合流するのが遅れます」
 後ろにつけていた男が心配そうに言った。
「仕方ないだろう。奴には数日待ってもらおう」
 頭領はそういうと、あっさりと予定を決めて地図を懐になおした。横にいる男が怪訝そうな顔をする。
「あの男は信用できるのですか? たしか、財産の半分を預けているときいていますが…。合流地点で出会えなかったら…」
 訊かれて、頭領はふっとふきだした。持ち逃げされないか、と訊かれているのだとわかったので、余計笑いがこみ上げたらしい。
「さぁな。する度胸があるなら、勝手にしてるだろ」
 その返答に、男は意外そうな顔をする。彼と仕事を始めて、そう長いわけではないが、商人気質の頭領は、金についてはかなりうるさく、細かいのである。
「奴がやるとしたら、酒の飲み代をごまかすのに帳簿書き換えるぐらいの事だよ」
 彼はさらりとそういうと、それ以上の追求を許さずに歩き始めた。
「さあ、明日の明朝にはつくはずだ。さっさと進むぞ」
 出発、と頭領は、カルヴァネスの東のほうの方言でそう叫んだ。キャラバン隊は、その声でそろそろと歩み始める。やがて、ある程度のスピードを保ち、ラクダと人のキャラバンは砂漠を進んでいくのだった。


 なにやら商談があるらしいというので、レックハルドはしばらく街の中をぐるりと見て回る事にした。石造りの建物が立ち並んでいたが、それは東カルヴァネス出身のレックハルドには余り見慣れない形式のもので、かえって珍しかった。何人か同郷らしいマゼルダ草原系の商人の姿を見たが、懐かしいとは感じなかった。ガラスの向こうからそっと眺めでもしているような気がしただけである。
 一体全体この状況はなんだというのだろう。死んだはずのファルケンそっくりの男が、陽気に笑い声を上げながら歩き回り、東の国境付近の死の砂漠にいたはずの自分は西カルヴァネスの国境周辺にいる。イェームとは出会いそうもない。
 最初は、夢でも見ているのだと思っていたが、こっちのファルケンと話したり、この街を歩き回ったりしているうちに、今までが悪い夢だったような気がしてきた。
 自分は辺境とはかかわりをもっていないし、あのファルケンも死んだりしていないのではないだろうか。
(砂漠を歩いていたなんて思っていたのは、オレの妄想じゃねえのか。本当は、マリスさんもダルシュもシェイザスも、みんな、オレの夢に出てきた非現実の世界の人間じゃないのか。あんな酷い死を遂げたあのファルケンも、悪夢にただオレが捕らえられていただけじゃねえのか…。あのハールシャーにしてもそうだ。オレがただ見た夢の話じゃねえか。今、あの出来事が現実だったなんて証明するすべなんかねえんだから。)
 ――オレは長い夢を見ていたんじゃないのか?
 しかし、それで片付けるには、あまりにも思い出の与える痛みはひどすぎた。今でも、ファルケンと名乗る、キャラバンのリャンティールの目を直視する事はできない。あのときの光景が頭にちらついて、平静でいられなくなりそうになるからだ。
 レックハルドは、ため息をつき、首を振った。考えても仕方のない事だ。とりあえず、今はこの状況を現実として受け入れるほかはなさそうだ。
 小腹がすいたので、レックハルドはその辺りの露店のオヤジから固焼きのパンに羊肉を挟んだ食べ物を買う事にした。ついでにアヒルの卵を焼いたものをつけてもらい、代金を払う。
「あっ!」
 と、急に露店商のオヤジが声をあげた。レックハルドは、首を傾げて彼の視線を追う。
「あいつ、またこの街に来てたのか…」
 男はふと呟いた。視線の先にいるのは、どうやら商人と交渉中のファルケンのようである。
 レックハルドは買い取ったパンをかじりながら男に訊いた。
「なんだ、あいつ、この辺じゃ有名なのか?」
「狼人の商人なんて珍しいからな…、もっとも、あの態度見てると、どうも本職は商人じゃねえんだろうが……他の商人に雇われてるんだっていう噂だぜ」
 男はそういい、腕を組む。レックハルドもその点には納得していた。彼の知っているファルケンもそうだが、このファルケンも商売の基本が出来ていない。やや遠くからで声は喧騒にまぎれているが、その身振り手振りの具合で、彼の交渉が難航しているはよくわかる。
「近頃じゃ、この辺りのロクデナシ共ばっかり集めて雇ってるってえ話だが、一体何考えてるやら。早くこの街から出て行って欲しいね」
 ちらりとレックハルドは相手の顔色を読んだ。この男は狼人を好意的に見ていないようだ。
(これじゃ、商売もやりにくいだろうが…)
 レックハルドは少しだけ苦々しく思う。狼人を好意的に見ない人間も多い。特にこの地域はそうなのかもしれない。
 ため息をつきながら、露店で買った食べ物をかじりながら、少し苦い思いを抱えて交渉する彼らのほうに歩いていった。
 交渉は続いていた。どうやら食料を買い取る話のようだ。
 観察してみる限り、相手の商人はなかなか手ごわそうだった。歴戦の勇士といってもいい中年で、なかなか苦労しそうな相手だった。でっぷりと太った体は、かえって貫禄をかもしだしている。顔のヒゲをときおりなでながら、彼は少々高めの値段をふっかけているようだった。
 普通なら、ここでうまく切り返して自分のペースにもっていかなければならないのだ、が、不運なことに、ファルケンにはそうした交渉の才能はほとんど皆無だった。
「い、いやっ、ちょっとそれは…!」
 値段をきいて、ファルケンはやや困ったような顔をした。
「そ、それは、ちょっとオレにふっかけてないか? だって、相場は…」
「いや、近頃物価が高くてね」
 相手の商人が悠然と笑った。
「いいじゃないか。余裕も有りそうだし、ここで一気に手を打たないかい?」
「ええ、いや、さすがにその値段で引き取ると、あとでオレが……。な、なあ、五分の一でいいから負けてくれないかなあ。そのほうが…」
「いやいや、これ以上の値引きはできませんよ」
 ファルケンはどうにかこうにか言い返そうとしたが、うまくろれつが回っていない。髪の毛をぐしゃぐしゃとこねくりまわしながら、どうにか相手を懐柔できないかさぐっているようだった。
(そこは、そうじゃねえだろが!)
 レックハルドは、イライラし始めてきた。まったくファルケンの話しには、交渉のイロハもへったくれも感じられない。手にした食べ物を一気に口の中に入れ込むと、レックハルドはずかずかとそちらのほうに歩いていった。
「あっ、あんた…うわっ!」
 気配に気づいた途端、どん、と突き飛ばされて、ファルケンは、おお、と言いながら後ずさる。
「連れのものにかわって私がお話し合いをしましょう」
 にっこりと作り笑いをうかべながら、レックハルドは言った。横目でちらりとファルケンのほうを覗きやる。どうやら、黙ってろといいたいらしい。商売にかけての真剣さは、普段から考えられないほどなのが彼である。
 それを目から読み取ったのか、ファルケンはおっかなさそうな顔をして、そっと引き下がった。
「さて、この値段ですが…さすがにちょっと高すぎませんかねえ旦那さま」
 と、いきなりレックハルドは切り出した。相手の商人は、新手の交渉相手の登場にやや表情をかたくする。一筋縄でいきそうにないのは、お互いわかっていたのだろう。
 結局、レックハルドのほうがややせりがって、そこそこの値段で食料を手に入れる事ができた。後で運んでもらう約束をして、とりあえずは宿に戻ることにする。
「助かったよ。ふっかけられて正直困ってたんだが、オレはあんまり口がうまくなくてさあ」
 ファルケンがどこか安堵したように言った。
「全然甘い。久しぶりすぎて調子がおかしかったんだ」
 レックハルドはやや不満そうだった。
「いつもなら、あと十分の一の値段で落としてやったのに!」
 口を尖らせつつ、そんなことをいう。ファルケンのほうは、指をあわせつつ、その気迫にやや気おされつつ言った。
「でも、アレで充分だと思うけど」
「向上心のねえ野郎だなッ! そんなんだから、お前はいつまでたっても…!」
 言いかけて、ハッと気づく。いつもの調子で話しかけたが、ここにいるのはファルケンであってファルケンではないのだ。レックハルドは、少し視線をそらして地面に向けた。
 それに気づいてはいなかったらしく、ファルケンはふうむと唸った。
「うーん、やっぱり、あんた、さすがだよなぁ…」
「な、何がさすがだよ」
 少し気味悪そうにレックハルドは、彼を見上げた。
「だって。あんた、マゼルダ商人だろ。その中でも、かなり口上手だなって思ってさあ」
「交渉のイロハがわかってねえ奴に言われてもな」
 いいながら、レックハルドはファルケンのコートを覗いた。
「そういやさ、お前の服もマゼルダ式だな」
 彼の知っているファルケンに贈ったものと大体同じようなものだった。マゼルダ系の服は大体そのようなものだから、デザインが似ているのは当たり前である。コートの刺繍なども違った。
「ふふん、この仕事を始めたときにあんたの同業者からもらったんだよ。意外に似合うだろ?」
 何となく得意げにそういう。確かに思ったより似合っていた。コートの上に透かせば緑に見えるしろい布を、肩にだらりとかけているのも、何となく彼らしい感じがした。
「まぁなあ。…ああ、そうそう連中からきいたが、お前、ロクデナシ雇ってるって…」
「ああ、意外に有名になってんだな」
 と、あごひげをゆっくりなでてみたりする。ファルケンは、その容貌には不釣合いなあどけない笑みを浮かべた。
「あいつら、元々盗賊崩れでな、働く場所がないってんで、オレが雇ってやる事にしたんだ。あいつらの何人かは、この旅が終わってもついてくるっていってるし、ちょうどメンバーを探してたところだったからちょうどいいからさ」
「なんだ? ずいぶんな慈善事業だな」
 つまらなさそうな顔をするレックハルドに、予想していたとばかりファルケンは笑った。
「ははーっ。あんたなら、そういうと思ってた」
「な、なんだ! その遠慮のねえ笑い方はッ!」
「い、いやいや悪い悪い。いやさあ、あんたの反応見てるとやっぱりなあって思ってさ。それじゃ、オレもこの後、言い訳を考えとかなきゃなあ。あんたでシミュレートしておこう」
 笑いをかろうじておさめながら妙に意味深な事を言う。それから、またしてもにんまりとすると、ファルケンは言った。
「そうそう、今日はちょっとした酒盛りをやるんだよ。そのための食料もあるんだがな。連れと会えなかったみたいだけど、きっと大丈夫だ。だから、あんたも一杯…、飲めなくはないだろ?」
(単にお前が飲みたいだけじゃねえの?)
 レックハルドは、妙にキラキラした目でそんな事をいう二メートルの身長の男を見ながら思った。しかし、酒も悪くない。こんなわけのわからない状況になったのだから、少しは騒いだほうが気が晴れるというものだ。



 ふとサライは顔を上げた。
「消えた、な」
 サライは、一人木の下に佇み呟く。
「あの青年の気配が消えた」
『死の砂漠を渡っている途中だというアレの事か?』
 ギレスの声が洞窟の中から聞こえてくる。ふと、サライは、意味ありげに笑った。
「そうだ。…その気配がない」
『哀れなことを…。ようは死んだということか?』
 ギレスは同情深げに言ったが、サライは端正な横顔をひそめもせず、冷酷なほどの平静さのままで応える。
「そうではない。この世界にはいないといったほうがいいか」
 サライは腕を組み、空を冷たく見上げた。
「…死の砂漠の危険は、なにもあの土地の環境にあるだけではない。あれは人の心の闇を突いてくる。様々な罠をしかけてくるはずだ。特に…、あのレックハルドのように心に闇を抱える人間にとっては、もっとも危険な場所ともいえる」
『…サライ、奴を焚きつけたのはお前だろう? 何を今更…』
「それ以外の方法がない。…要は、あとは彼がどう判断するかということだ。ただ、私はあの青年に砂漠の誘惑に堪えるだけの力ありと見た」
 サライはいい、それから思い出したように付け加えた。
「ただ、心を許しすぎれば、甘い夢におぼれれば、もしかしたら、おぬしのいうように死ぬかもしれないが……」
『…相変わらず、残酷な男だな。貴様は。』
 ギレスは、あきれたような声で言った。
『そうやって、いつも傍観するばかりだ。』
「心外な…。私は、私が見込んだからこそ過酷な道を選ばせた。…見込み違いはあるが、別に私が望んだわけではない。だいたい――」
 ギレスの不審そうな視線を感じながら、サライは彼をからかうように微笑んだ 
「…助けがこないとも限らぬからな」
 サライはそういい、空を見上げた。平和な空は、柔らかな青い色を広げているばかりである。





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©akihiko wataragi