辺境遊戯 第二部
鏡の向こうのファルケン-4
あの時大きな変化が起こった。もう戻ってこないものが、たくさんあるのに、それを確認する事すら出来ない。ロゥレンは
ファルケンがいなくなった実感を余り感じられずに、ただ彼を見かけない日々をすごしていた。彼の死を目の当たりにしなかったロゥレンにとっては、ファルケンは、どこか遠くに旅に行っているような感じがするだけだった。だが、頭ではわかっているつもりだった。もうどうしようもない変化が起こっているということを。
しかし、目の前の鈍感な娘はそんな事に気づくよしもなく、ただにこにこと笑っている。あの時、ファルケンがいなくなって、レックハルドも消えたのに、この娘だけはずっと相変わらずだった。もっとも、彼女だけが、真実を知らないのではあったが――。
「いいお天気ねえ、ロゥレンちゃん」
目の前に座る、くるくるした赤っぽい髪の毛の娘は、にこにこと微笑みながらのんきに言った。
「いいお天気ねえって…、それ以外いうことないわけ? 大体、辺境に遊びに来てばかりで、あんたってホント暇人なのよね」
ちょっとだけ皮肉をまぜながら、ロゥレンはそういったが、やはり皮肉などマリスにはきいていないようだった。相変わらず微笑んだまま、
「でも、ロゥレンちゃんが来てくれるからちっとも暇じゃないわ」
「なっ! なによっ! それって、あたしがまるで暇人みたいじゃないっ! 皮肉?」
やり返された格好だが、マリスにはその気はないらしく、きょとんとしている。ロゥレンは、憤りのもって行き場所をなくして、ぶつぶつと口の中で何事か言っていたが、仕方なくそれを収めた。
「それにしても、レックハルドさんたちは、今どこの空かしら? ロゥレンちゃんは、占いとかできる? だったら、教えてもらえるんだけどなあ」
どこかぼんやりとマリスは言う。
「う、占いは苦手なのよっ! 本職にいいなさいよ、そんなこと」
レックハルドがどこにいったのか、本当は知っているロゥレンは慌ててそう素っ気なく言い捨てる。マリスは、またしてもそうねえといいながら、首を傾げた。
「シェイザスさんに今度訊いてみましょ」
「か、勝手にそうすれば!」
ロゥレンは、事情をしっているだけに、何となく居辛くなる。かといって、レックハルドには口止めされているし、彼女自身も、どうもこのマリスには本当の事を言う気になれない。だが、黙っているのも堪えられなくなり、ロゥレンはぽつりと言った。
「危ない目にあっるかもしれないのよ? それなら、そうだって知ってもどうしようもないじゃない。助けらんないのに! もし、あの狐っぽい商人が、どうにかなってたらどうするのよ?」
「大丈夫よ。きっとファルケンさんが助けてくださるし、レックハルドさんも強い方だし!」
そのファルケンは、今レックハルドの傍にはいない。それに、レックハルド自身も、相当参っているようだった。マリスが思っているようには、状況はきっと甘くはない。ロゥレンはぐっと奥歯をかみしめた。
「し、心配とかしないの?」
「それは心配よ。でも、きっと楽しく旅をしていらっしゃるんじゃないかしら」
明るくマリスは答える。
「ほら、レックハルドさんたちだもの。なんだか、とてもそんな気がするの。大丈夫よ、また帰ってきて、一緒にお話してくださるわ」
にこりとして、マリスはそういう。
「心配する事はないわよ、ロゥレンちゃん」
「し、してないわよ! 心配なんか!」
言い返しながらも、何となくマリスの確信したような微笑みに少しだけ救われる。その根拠のない確信がどこからくるのか、ロゥレンは本気で知りたいとも思った。
「…そういえば、ロゥレンちゃん、最近元気ないわよね」
「え! べっ、別にっ!」
急に話を振られて、ロゥレンは慌てて、首を振った。
「な、なんでもないわよっ!」
過剰な反応は、普通怪しむべきなのだが、マリスは小首を傾げただけだった。
「そう? そうならいいんだけど」
そういってから、マリスは思い出したようにロゥレンの顔を覗き込みながらにこりとした。
「わかったわ。レックハルドさんもファルケンさんもいらっしゃらないから、ロゥレンちゃんも寂しいのねっ!」
「違うって言ってるでしょ!」
慌ててロゥレンは否定する。
「隠さなくてもいいのよ。そうよね、あたしも寂しいなあって思っていたところなの!」
にっこりと笑うマリスの顔を見ていると、何となく反論できなくなってしまう。マリスは、かばんをごそごそとやりながら、続けた。
「あ、それでね、今日はロゥレンちゃんも寂しいだろうから、いい物を持ってきたわ」
「寂しくないって言ってるでしょ!」
何となく言いよどんでいるうちに、とりあえず、マリスの中ではそういう結論になったようだ。マリスは反論を、おそらく何の悪気もなしに無視すると、じゃーん、と言いながら何か取り出した。
それは、ペンダントのようなもので、五色に鮮やかに染められた糸であまれた紐で作られていた。そこに紅いの丸い環が釣り下がっていた。宝石の一種なのか、木漏れ日にきらきらと輝いてロゥレンの目にもそれは鮮やかに見える。
「これ、ロゥレンちゃんにあげようとおもって」
「え、でも、コレ何?」
きれいだとは思ったものの、それが何かよくわからなくて、ロゥレンは戸惑いつつ訊いた。宝石もあまり辺境の者達は好きではないらしいが、金属ほどの抵抗感はない。だから、それは平気なのだが、ロゥレンはただこの首飾りに呪術的なものを感じたので気になったのだった。マリスはにこりと笑った。
「大丈夫! 金属だめなロゥレンちゃんにも大丈夫だから、安心して!」
「そういうこと言ってるんじゃないのよ! だから、あたしが言いたいのはぁ!」
なぜ会話がかみ合わないのだろう。少しイライラしながら、ロゥレンはマリスを見る。
「だから、コレはどういうものなのって聞いてやってるの!」
「これ? これはお守りなんですって! メアリーズシェイル様の」
にこ、とマリスは微笑んで、ロゥレンの苛立ちなど解さずに答えた。ロゥレンは訊きなれない名前にきょとんとする。
「メアリーズシェイル?」
「なんでも、昔そういう名前の強い女の子の将軍がいたんですって! 強くて冷静で、それで正義の味方らしいの。正義の戦いの女神様なのよ」
マリスは、そういいながらロゥレンの手にそれを渡した。
「護身用のお守りなんですって。この前、神殿の辺りで見つけて、それで、ロゥレンちゃんにもってことで買ったの。これもっていると、いいことがあったり、元気が出たりするっていわれてるんだって」
「ふうん。ヘンなの。…人間にも色々あんのね」
そういいながら、ロゥレンはそれを受け取った。キラキラする紅い環が何となく気に入った。
「まぁ、一応、お礼はいうけど」
機嫌がいいので、ロゥレンはそういった。マリスはにこりとしながら、思わずロゥレンに抱きついた。抱きつかれて逃げようとしたが、思いのほか力の強いマリスをひき剥がす事はできない。
「気に入ってもらえたならよかったわあ」
「だ、誰も気に入ったとかいってないわよ! ヘンって言ってたじゃないっ! 放しなさいよ! 苦しいわよ!」
逃げようとしながらも、いつの間にやらかけたのか、彼女の首にお守りの宝石が輝いていた。精一杯否定しながら、すでに首にかけている時点で、それを充分気に入っている事を示してしまっていたロゥレンだった。
書き直しをくらった子供達が周りから去って、何となく暇そうなファルケンの元に、部下が一人駆け寄ってきていた。
「リャンティール」
そう呼びかける。リャンティールは、そもそも狼人の集団の長の事をさす。彼はここのリーダーという意味で、そう呼ばせているようだった。
「なんだ?」
顔をめぐらせ、ファルケンは応える。部下はどこか不安そうな顔をして、進行方向を指し示した。
「あそこに街がみえるんですが…、まだ街に着かない予定じゃなかったですか?」
遠くて見えにくいが、よくよくみると、そこにはうっすらと街のような建物がちらりと見えていた。緑もみえるので、その辺りにオアシスがあるのかもしれない。
「ああ、それそれ。目的地の宿場町だ」
目を細めてみてから、ぽーんと、手をたたいて、ファルケンは言った。部下が更に不安そうになる。
「え、でも、昨日、後一日かかるって言ってたんじゃ…位置がおかしいですよ、それに」
「あ、そうか。砂嵐とかにあっている間に、方角間違えてるかもなあ。じゃあ、別の街かもしれねえよなあ。あはははは」
無駄に楽しそうに笑い飛ばしながら、答える頭領を見ながら、彼の部下は不安そうな顔をした。
「まぁ、とりあえずあの街までいってみて、違う街だったら、食料だけでも調達して進路修正したらいいわな。ということで前っ進ー! なんだ、その不満そうな顔は!」
途中まで調子よく言っていただけに、部下の不満そうな顔が少し不本意だったらしい。ファルケンが言うと、部下は首を振った。
「いいえ、やりますよ。進みますよ」
「それじゃ、用意しろ、なっ!」
軽い口調でそういって、彼は、起き上がり、反対のほうを見る。 向こうのほうで何か考え込むように、レックハルドが立っているのだった。彼はそちらに歩いていった。
「ええと、レックハルドだったよなあ!」
大声に言いながら、彼はのそのそと近づいてきた。レックハルドは顔をそちらに向けながら、少しだけ微笑む。
「そろそろ出発になりそうだ。あの街にいこうとおもうんだが、…とりあえず行ってみるか?」
「事情は一通り聞いてたぜ。純粋に間違えたんだろ。方角」
ぼそりと言ってやると、ファルケンはばつが悪そうにてへへと笑った。
「いやぁ、その、なぁ。たまにはこういうこともご愛嬌かと…」
(なぁにが……)
あきれ半分にため息をつき、レックハルドはとりあえず考える。とにかく、一番近い街であるには変わりないようだ。イェームの事もあるし、とりあえずはそこにいって情報を集めるのも悪くない。
「そうだな…。一応行けば連れと会えるかもしれないし…それに…」
レックハルドが、続きを少しためらいがちに続けようとしたとき、急にああ、そう! と、ファルケンが口を挟んできた。
「オレの事は、リャンティールでもファルケンでもいいぜ。あんたの好きなほうの呼び方で呼んでくれよ!」
「…オレが言いよどんだのは、続ける言葉を選んでたのであって、お前の名前の呼称に困ってたわけじゃねえんだが…」
「いや、オレ、忘れっぽいから、一応覚えてるうちにいっとこうとおもって!」
どうしようもない奴だ。レックハルドは肩をすくめた。
「わかったよ、わかったよ。…早い話、一緒に行くからよろしくなといったんだ。『ファルケン』」
思ったよりも自然に名前が出る。それに少し安心したのか、レックハルドは、にやりとした。
「…あと、一ついっとくがな、自分で手本書くのやめといたほうがいいんじゃねえのか? どっちが先生だかわかりゃしねえぜ?」
「うっ! いや、それはっ…!」
痛いところを突かれて、ファルケンは黙った。それを心地よさげに見て笑うと、レックハルドは身を翻して、街のほうを見る。割合に大きな街のようだった。レックハルドはそれを眺めながら、懐かしい気分になる。自分がこの前まで死の砂漠をさまよっていた事を思わず忘れてしまうぐらいに、レックハルドはいつの間にやらこの現実に馴染んでいた。
街を見つめているレックハルドを後ろから見ていたファルケンは、ふとレックハルドの足元のほうを見た。そうして、少し顔をゆがめた。真昼の影は足に張り付いているように短い。突然、不穏な空気が彼の辺りに静かに流れ始めた。
すっと、ファルケンと名乗る男の手が、自分の腰の剣の柄をなでた。一瞬、険しい光を湛えた目がレックハルドの背を捕らえる。そのまま柄を握る。静かに、殺気を押し殺すような形で、足音を忍ばせてそっと近寄る。レックハルドは接近には気づかない。
柄を握ったままわずかに剣を抜く。コートの内側で刃が冷たい光を放った。
「リャンティール! 用意ができましたよ!」
突然、後ろから声が飛んできた。ファルケンは、素早く柄から手をはなし、身に着けているマントの影にそのまま手を隠す。
「ああ! わかった!」
部下にそう応え返し、レックハルドのほうを見る。彼も、こちらのほうを向いていた。
「なんだ、用意できたのか?」
「そうらしいな。じゃあ、とりあえずあっちのほうに戻っといたほうがよさそうだな」
「ああ、そうするよ」
レックハルドは軽く応えて、先立って進み始めた。先ほどの不穏な空気は、そこには微塵もなくなっていた。彼は異変に気づく事もなく、そのまま足を進めていく。
だから、そのとき、ファルケンを名乗る男が軽く舌打ちしたのには誰も気づいていない。