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『エウレカ』-4
笑う声が意識の遠くで聞こえる。黒い闇が自分の体を覆っていて、もはや動くこともかなわない。どろどろの闇の中に捕らえられたファルケンは、ただ自分が闇に食われていくのを感じていた。指先ももう動かせないし、第一指先があるのかどうかもわからなくなっていた。ただ、相変わらず目と耳だけはしっかりしていて、物を見たり聞いたりすることは出来た。
ただ一つ動かせる目で向こうを見ると、 ミメルとシャザーンがそこで楽しげに話し合っていた。何を話しているのかわからなかったが、楽しい話なのだろう。喉には黒い水が入り込んでいて、もう声をたてることもできなかったが、最初から声をかける気などなかった。楽しそうなミメルは、自分など知らない顔をしている。
そして、笑いながらミメルとシャザーンはやがてそこから歩き出した。どこかで待ってくれ、気づいて欲しい、と願ったが、ミメルは無情にもそのまま彼といってしまう。
ミメルは、そのまま向こうに歩いていって、とうとう見えなくなった。
ああ、と、ファルケンは涙を流しながら思った。
ミメルは自分を置いて行ってしまった。ミメルの事は昔から好きだった。ミメルだけは裏切らないと思っていたのに、ミメルは彼を置いて行ってしまった。
悲しかったが、どうしようもない。動けない自分は、それを止めることも出来なかったのだ。
悲しんでいるファルケンの前に、もう一組男女がやってきた。今度は人間のようだ。長身で痩せた目の細い青年と、赤っぽい巻き毛の目の大きい娘だった。ファルケンは、名前をよく知る二人がまたやってきたことに、また哀しみを覚えた。きっと彼らも、彼に気づくことなくいってしまうに決まっているからだ。
それは仕方のないことだ。
ファルケンは辛い想いを押し殺しながら思った。
レックハルドはもともとマリスが好きだった。だったらこれは喜ぶべき事である。ファルケンは、あの二人が仲良くなってくれたらいいとずっと思ってきた。その願いが叶うなら喜ぶべき事だ。
もうこんなどろどろの闇に食われて、支配されて、自分の意志では体を動かせなくなったような自分をあの二人がファルケンとして見ることはない。それはもう仕方のないことだ。
楽しそうに笑う二人を見ながら、ファルケンは目を伏せる。恨むつもりはない。ねたむつもりもない。もう、ここまで闇に食われた自分は、立ち直ることなどできない。だとすれば、あの二人の幸せを祈ってあげたかった。あの二人のことも、ダルシュもシェイザスも、あの意地悪なロゥレンも、それでもみんな好きだった。自分を彼らが裏切ったのだとしても、見捨てたのだとしても、あの時、好きだった気持ちに変わりがあるはずもない。
でも、自分に気づかない二人を見続けてしまうと、恨んでしまいそうで恐かった。だから、彼は目をそらした。あの二人が幸せでいてくれるようにと祈るためにも、彼らが見えなくなるまでは、せめて安らかな気持ちでいたかった。
と、ふと、笑っていたレックハルドが声を立てるのをやめて、不意にこちらを見た。
「ああ、そうか……。お前…」
ぽつりとレックハルドはそう呟くとこちらに向かって歩いてきた。
「レックハルドさん?」
きょとんとしたマリスが彼に声をかけて、慌てて後を追ってきた。
「そこに、いるんだろ? いるならいるっていえよ」
優しく声を掛けられて、ファルケンはわずかに上を見上げる。
「なんだ、どうした? 泣いてるのか?」
レックハルドは怪訝そうに首を傾げた。
「どこか、苦しいのか?」
すでに声をあげることすらできなかった。どろどろの黒い闇の中に飲まれている彼は、レックハルドからどんな風に見えているだろう。とてもみられた姿でないことを予想していたので、ファルケンは悲しくなってしまった。だが、レックハルドは彼から目を反らさなかった。
「どうした? 何かあったのか? 辛いのか? ファルケン。辛いなら辛いっていえよ?」
レックハルドはそこにしゃがみ込み、ファルケンをのぞき込みながら訊いた。偽りの笑顔と同じように、異様に優しいレックハルドを見ながら、ファルケンはそれが彼の本心かどうかわからなくなっていた。
「ここにいるのが辛いなら、オレ達と一緒にいこうぜ?」
レックハルドはそういうと、手をそっと差し出した。
「ファルケンさん、一緒にいきましょう?」
赤い髪の娘がいつの間にか側にきていて彼にほほえみかける。どうして、と視線を投げると、彼女はにっこりと笑った。
「だって、あたし達はお友達だったんでしょう? ね、一緒に帰りましょう?」
嘘だ…
と、漠然と思った。先程もそうだった。そう言った癖に、レックハルドもマリスも自分を裏切った。もう騙されたくなかった。これがきっと最期になる。だったら、前みたいにいい思い出に浸ったまま消えてしまいたい。
だが、その思いをうち消すには、マリスはあまりにも優しかった。どうしてもファルケンは、その言葉に希望を抱いてしまう。さしのべられる手が幻のように見える中、ファルケンは、どうしようと迷った。最期なら、もう一度騙されてもいいかもしれないと思う。もう、これ以上悪いことなどおきやしない。もう、これ以上辛いことなどないのだから、もう一度信じて騙されてみても、いいのかもしれない。
「何戸惑ってるんだ? …帰ろうぜ、ファルケン。それとも、オレ達といるのはいやか?」
そんなはずはない。いつだって、この離れ島に来てから、ファルケンは、あの頃に戻りたかった。戻れないと思っていたから、焦がれるほどに戻りたかった。だが、ファルケンはただ、視線を彼らに向けるだけで、精一杯だ。
「嫌じゃないなら帰りましょう?」
マリスが声をかけてきた。
帰る? 帰れる?
ファルケンは、闇に食われてはっきりしない意識の中でそう繰り返す。もし、それが叶うとしたら本当に嬉しかった。こんな地獄にいなくていいだけで、それだけでよかったのに、戻ってもいいと二人は言う。さしのべられる二つの手に、ファルケンの心は躍ったが、結局どうすることもできない。すでに体は彼の体ではなくなっている。
(ああ、でも、もうだめだ…)
ファルケンは、さしのべられる手を見ながら絶望的な気持ちになった。すぐにでもその手にすがりたかったのに、それすらももう出来ない。彼はただ視線を投げることしかできない。
(さっきだったらよかったのに……。もう、だめだ……。もう少し早く、……信じられればよかったのに……)
悲しくて、悔しくて、苦しくて、ファルケンは泣いたと思ったが、涙が流れたかはわからない。二人を見ているのも辛くなり、ファルケンはそっと視線を外した。
「動けないんですか?」
マリスは瞬きをして、そしてレックハルドの方を見た。そして、彼女は微笑むとそうっと手をさしのべていた手をどろどろした闇の沼の方に向けた。
「だったら、あたし達がひきあげてあげますから、だったら一緒に帰れるんでしょう?」
「ああ、そうだな。手伝えばいいんだろ?」
ファルケンは、戸惑うように彼らに目を向けた。自分の姿は確認できなかったが、どうなっているかはおおよそ予想がついていた。自分は、自分が今まで狩ってきた妖魔のように醜悪な姿に変わってしまった。そんな自分が前と同じように扱ってもらえるはずもないし、そんな自分を受け入れることは彼らに迷惑をかける。
「どんな姿でも、ファルケンさんはファルケンさんでしょう?」
マリスは、突然彼の心を見破ったように声を掛けてきた。どろどろの闇が彼女の手を汚しているのをみて、ファルケンは申し訳なく思ったが、マリスは構わない。
「生きていればそれでいいじゃねえか、ファルケン」
レックハルドがふと言った。
「お前は変わってねえよ。生きているだけでいいじゃねえか。生きてるなら、もう一度前みたいに旅が出来るんだろ? だったらそれでいいんだぜ。お前がそれでも歩き出せないなら手を貸してやる」
レックハルドは、そういって薄いが穏やかに笑んだ。
(オレは、でも、レックを追い込んでしまった…。それに、オレは疫病神だよ……だって、オレがいたせいで、みんなを巻き込んだんだ……)
ファルケンは、口に出せない分心の中でそう呟いた。レックハルドは首を振る。
「馬鹿ぬかせ。お前が疫病神なわけないだろう? オレは、お前と会わないと、マリスさんと一生会えなかった。お前は、オレの夢を一つ叶えてくれたんじゃないか。疫病神なんてそんな大仰なもんじゃないだろ?」
だから、とレックハルドは言って、手を伸ばしてきた。
「帰ってこい」
レックハルドの伸ばした手が胸ぐらを掴んだ。そのまま引っ張られて、ファルケンは突然浮かび上がったような気がした。目の前には、キラキラ輝く水面がある。その向こうに誰がいるのかはわからなかった。
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