予感と戦慄−1
水を一口飲んだ後、彼はそれを荷物入れに戻した。つまらない。本当につまらない道だ。
「ちっ、水じゃなく、こっそり酒でも詰めてくればよかったぜ」
文句を言いながら、山道を馬に乗って上る。景色も十分見飽きたし、何の楽しみもない。正直、彼は退屈してきていた。
太古、辺境と人には境目がなかった。今では、多くの人が旅の途中、辺境の深いところをさけて通るが、昔は狼人の案内などを連れて深い場所を通り、近道をしたものである。
国の宰相を務めるこの男も、その近道を狙って、この山を通っていた。狼人の案内こそつけていないが、彼らとの話し合いはすでにすませてある。だから、何か問題が起こっても、彼らは手を貸してくれるだろうし、間違っても襲いかかってくることなどない。お互いの約束さえ守れば、彼らとの関係はずいぶん有益で平和なものだった。
向かう場所はフェルケスタードという大きな街だ。あそこの領主に、ちょうど今横で馬に乗っている金髪の子息を送り届けて、伝言を伝えるだけで、彼の役目は一応果たされることになる。
何も波乱のない日々。頭を使うほどのことでもないし、命がけの旅とはまるで無縁だ。
「暇だ」
宰相は、もともと細い目をさらに細めて大あくびをした。貴人のくせに、輿に乗りたがらない彼は、痩せた身体を馬に乗せて山を登っていた。元々の生まれが余りよいものではないというが、そのためか、彼は輿や馬車といった乗り物より自分で歩いたり、馬に乗ったりする方が好きらしい。
「平和ってのは、なかなか罪なもんだな。このオレの才能が飼い殺しとは、つまらねえったらありゃしねえ。なんで、あんな、刺激のねえ街に使いに出されなきゃならねえんだ? ガキの使いじゃあるめぇし」
宰相の癖に驚くほど口が悪いが、その事実を知っている者はあまりいない。普段、口のうまい彼は、公の場では、けして態度を崩さないからである。ただ、元々何となく崩れた感じがするのはごまかしようのない事実ではあったが――。
「しかし、宰相様は、世の中を平和にするのがおつとめなのではないですか?」
物騒なことを呟いたのを訊かれたのか、横にいた金髪の少年がおそるおそる言った。
「…ふむ、まあそうだが、それは時によりけりってもんでな。あまりにも暇すぎると、自分の才能が何のために存在するのかわからなくなる。…そうなると生きる張り合いがなくなってな。そう、スリルがねえんだよ。この生ぬるーい平和って奴は」
「そうなのですか? でも、スリルなんて、そんなにほしいものでしょうか。今のところ、私はそのようなものをほしいとは思いませんが」
育ちの良さそうな少年を見ながら彼は少しあざ笑った。
「そりゃ、あんたのような坊ちゃんには、まだまだわからねえ世界かもな。修羅場をいくつかくぐり抜けていく内に、あんなに恐かった修羅場に戻りたいなんて、わけのわからねえことを考え出すようになるんだよ、人間って奴は」
そうして物騒なことを呟きながら、前に続く護衛に従い山を登る。騎馬して登山できるこの山は、辺境の中としては険しい方には入らない。それもあって、宰相の緊張感は、最低レベルにまで落ちていたのだった。彼がつまらないと思っても、あるいは仕方のないことだったのかもしれない。
あくびをしたせいで出た目の涙を拭きながら、煙草でも吸おうかなどと考えていると、ふと前方でわあわあと歓声のようなものがあがる。
「どうしたァ!」
何かまずい事でもおこったのかと、彼は前方に向けて声をかけた。だが、明確な返事はかえってこない。宰相は、後続のものたちをそこで待たせると、自分は前の方に走っていった。
前の方では、何か山の上の方をみあげながら、わいわいと部下達がなにか言い合っている。
「何事だ?」
人混みの中に割って入った彼を見て、前方にいた案内人兼護衛部隊の隊長が慌てて報告する。
「あっ、宰相殿。申し訳ありません。実は困ったことが…」
「遠慮せずに言ってみろ」
遠慮している様子に、多少いらいらしながら彼は急かす。
「は、は! では申し上げます。実は狼人が一人、大木の上にいまして、ここを通さないといいはるのです」
宰相は、奇妙な顔をした。
「何だ。狼人か? 奴らの領地を通る通達は出しているし、そういう契約は結んでいるはずだが…。伝達に不備でもあったか?」
「違うんです。あいつはちょっと特別で。あっ!」
ずざっと音が鳴り、強行突破しようとした男が上から飛び降りてきた何かによって倒される。気絶したらしい男を残し、また何かは木の上に飛び上がった。人では真似のできない跳躍力をみると、やはりその「何か」は狼人でなければならないだろう。
「ははあ。なるほど」
宰相は、あごを軽くなでやるとふっと微笑んだ。
「あいつが噂のはぐれ狼だな」
「え、ええ。しかし、ここの山には出ないという話だったので、うっかりしておりました。迂回いたしましょうか?」
「ま、いいだろ」
宰相は、不意に口をわずかにゆがめて笑った。
「ちょうど暇していたところだ。オレが話をつけてくる」
「えっ! それは危のうございますよ! あいつは、何しろ乱暴者で有名で…。里からもそれで追い出されたという噂があるほどですから。狼人には珍しい人格ですよ」
慌てて隊長が引き留めようとしたが、宰相は軽く手を振るばかりである。
「まあ、任せろ。…今から迂回といったら、山をいったん下るんだろう。それはあまりにも面倒だからな」
「は、はあ」
何となく雰囲気に飲まれて、うっかり彼はうなずいてしまう。宰相は、にやりと笑うと、そのまま一歩進み出したが、ふと身を固くした。目の前に風とともに、何かがハヤブサのように飛び降りてきたのだ。
ガッと、喉に冷たいものが当てられ、彼は斜め上を見上げる格好になった。その斜め前に、人の顔がある。宰相は、顔色も変えずに、前にいる髪の毛を乱した狼人を眺めた。
「へえ」
と、狼人は感心したような声を上げた。
「オレに刀突きつけられて、びびらなかったのはあんたが初めてだぜ」
狼人としてもまだ若いらしい。繊細で優美な顔立ちの多い狼人にしては、かなり荒っぽい容貌をしていて、目は大きくて鋭い。血でも適当に塗ったようなメルヤーに、腰まであるばさばさした髪の毛は伸ばしたい放題のばしている。
狼人だけあって、背はかなり高い。首に大きな狐の毛皮を巻き付けて襟巻きにしているようだった。ごつめの服に丈夫なマントを上から羽織っている。彼らにしては、きちんと服を着込んでいるし、言葉になまりが薄いので、人間の街に住み着いていたことがあるのかもしれない。
「お褒めにあずかり、光栄といったところだがな…悪いが、オレは、あんたに刀を首に突きつけられるようなことをした覚えがねえんだがね」
「さ、宰相殿!」
横にいる隊長が慌てたが、宰相は手を振った。
「下がれ。騒ぐな。ったく、会話した直後に来るとは、気のみじけえ奴だな」
自分より二十センチは高い男をみあげる格好になるわけであるから、当然、首がつかれる。
「刀をはずせ。そうじゃなければ、苦しくてしゃべれねえ。このまま話をしたら、確実に自分で喉をついちまうぜ」
「そうはいかねえ。オレが離せば、あんた、部下に命じて、オレを殺す気だろ? あんたみたいな野郎のやり口は全部わかってんだぜ!」
狼人は大声に言った。
「まさか」
宰相はくくっと笑った。
「オレはお前と話がしたいだけだ」
「いまいち信用できねえな!」
「それじゃ、信用できるようにあいつらをどこかにやる。それでいいか?」
狼人は口をつぐんだ。
「よし、それでいいな」
それを肯定ととって、宰相は部下の方に手を振ってよびかけた。
「手を出すな。…お前らは、こいつから姿の見えないところに向こうに行ってろ」
「しかし!」
「…こいつをあまり刺激したくないんでね。お前らはともかく、オレは自分の首がかかってるんだ。黙って下がれ!」
厳しく言うと、仕方なく護衛の兵士達がおそるおそる下がる。その姿が見えなくなってしまってから、宰相は言った。
「そろそろいいだろう。…さ、剣をはずせ」