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1.青年ハンスとエノルク書-6

「森の中?」
 ハンスは、きょとんとしている様子だった。
「そう。辺境っていうのは、人間が近づけない場所のことを言うの。その大部分は深い森よ。この世界の北側に位置しているんだけども、その中には砂漠も湖もあるって聞いているの。人間には近づけないし、ちょうどそのあたりが境界線になっているから『辺境』」
「そうかぁ、それじゃあ、俺たち、辺境の森の中をアレで走ってきたんだ」
 ハンスが、なにやら感心したようにうなずく。
「どおりで、なんか変な森だなーと思ってたんだけどね。見たこともない植物とか、鳥とか獣とかいるからさ」
「ハンスはのんきなのね。本当に危ないところなのよ」
 シェイザスは、あくまで陽気なハンスにあきれてしまう。
「辺境の森の奥は神秘的だけど、人間にはとっても恐いところなの。獰猛な辺境狼とか、食虫植物の凶悪なのがいたりして、簡単に歩き回ってはいけないところなのよ」
「あー。そうか、そういうのいたよ」
 ハンスが、なんでもなさそうに言う。
「いきなり植物が襲い掛かってきて、リケンさんが食われそうになって焦ったんだよね。そういう事情があるんだね」
 ハンスは、納得できたのが嬉しいのか、屈託なく笑っていた。普通の人間ならおびえる所だが、ハンスは普通の人間ではなさそうだ。
 けれど、辺境を知らないということは――。
「ハンスは、それじゃあ、辺境の狼人じゃあないのね?」
「オーカミビト?」
 いきなり見知らぬ言葉を聞かされて、彼は小首をかしげる。
「さあ。前世が狼男だって言われたことはあったけど、オーカミビトはしらないよ? おおかみびとってなに?」
 いかにも興味津々といった様子で、ハンスはシェイザスを覗き込む。あくまでハンスは無邪気だった。
「あなたのように金色の髪の毛をして、青い目をしているの。辺境に住んでいる神様の息子達のことよ。彼らは群れで生活をしているんだって。女の子達は、妖精といって羽が生えていて魔法を使うといわれているの」
「金髪碧眼の人間なんてそんなに珍しくないよ? 少なくとも、俺の故郷ではたくさんいるのに?」
「西の方ではそうだけれど、この地方では珍しいの。でも、狼人はただ金色の髪をしているだけでなくて、とっても力が強いのよ。人間によく似ているけれど、人ではないものたちなの」
 それにね、と、シェイザスは付け加える。
「私はそうでもないけれど、場所によっては、狼人は恐いものだと信じている人もいるの。だから、貴方を間違えて、恐がっている人がいるかもしれない」
 ハンスは、それもそうか、と頷く。
「ああ、でも、それでかあ。俺の顔を見ると、街の人がおびえている気がしたからさ。俺、図体がでっかいから、それで恐がられてるんだと思ってけど、違ったんだね?」
「狼人は、辺境の外に出てくることは少なくて、ほとんど伝説のような存在なんだけれど、外でみかけたらびっくりするわ」
 うん、とハンスは頷く。
「狼人は独特の習俗があるみたいだから、西方の人間だって思われたら、普通に接してくれると思うんだけれど、万一間違えられてしまうと厄介なの。だから、ハンスはもっと気をつけたほうがいいわ」
「それはそうだね。これから気をつけるよ」
 ハンスは、気楽な様子でそう答える。本当にわかってくれているのだろうかと不安になりそうなほどだ。
 そんなハンスの胸ポケットから、金の鎖がのぞいていた。一体なんだろうと思っていたシェイザスは、ふとあることを思い出した。
 そうだ、あの時計にもあんな鎖がついていたっけ。思い出して持っていた籠の中を探って見る。摘んでいた薬草は、先程の騒ぎで殆どなくなってしまっていたが、探していたものは確かにあった。
「そういえば、これ、もしかして貴方の?」
シェイザスは、金の懐中時計を取り出して、そっとハンスの前にさしだした。
ハンスのどんぐり眼がぱちぱちと瞬いた。
「あー、これ、俺がなくした時計だ! 夢の中で落としちゃったんだ。どうしてシェイザスが持ってるんだい?」
「覚えてない? 夢の中で、私、貴方と会ったの」
 ハンスは、目を瞬かせる。シェイザスは、ハンスの反応に困惑した。もしかしたら、自分は見当違いのことをいっているのでないかと不安になる。なにせ夢の話だ。ハンスは覚えてくれているだろうか。
 と、ハンスが、「あ、そうか」と声を上げて笑った。
「あの時にいたのは君だったんだ。気づかなかったよ。だって、体が透けてたから」
「やっぱり、あの森の中にいたのは貴方だったのね?」
「うん。あの時も言ったとおり、俺はこの世界に来る前に、何度もあそこに呼ばれてるんだよ。熱い熱い砂漠を越えて、何度もあの紫色の森へね」
 ハンスは、目を少し細めた。
「あの森も変だよね。まるでネオンサインみたいに紫色に輝いてた」
「あんな森、私も初めてだったわ。辺境の森なのだと思うんだけど、あんな場所があるなんて誰にもきいたことがないの」
「人間の入れない森の奥なのかな?」
「そうかもしれない」
ハンスは、にっと笑う。
「でも、そういう場所があってもおかしくないよね? 不思議な森だもん。きっとそうなんだよ」
 ハンスにそういわれると、なんだか説得力があるような気がした。
「ハンスは、夢の中で何をしていたの?」
 シェイザスは、そんなことを聞いてみる。
「私は、気がつくとハンスの目の前にいたんだけれど」
「俺はねえ」
 ハンスは、腕組みをしてなにやら思い出しながら、おもむろに口を開いた。
「シェイザスと会うまでは、一人で森の中をうろついていたんだ。俺、砂漠を歩いてきていつも疲れてたんだけれど、森に入ると水もあるし、ちょっと元気になるもんだからね。誰かに呼ばれている気がして、その誰かを探してやろうと思ってたんだ。はじめは、時計を見ながら方位を確かめてたんだが、やがてわかんなくなっちゃってね、そうこうしているうちに、いつのまにか時計がなくなってしまった。そんなことをしていたら、ある日シェイザスに会ったんだよ」
 ああ、と、ハンスは、初めて気がついたかのように手を打った。
「その日、俺、森で本を拾ったんだ。あのエノルク書ってやつ。で、本を拾った日にシェイザスに出会ったんだよ」
「それで、なくした時計を砂の中で見つけたの?」
「そう。それをシェイザスに差し出した後、シェイザスはふっと消えちゃったんだった。そしてその後に、赤い石が残されていた。俺がそれを手にとって……」
 ハンスは、む、とばかり眉をひそめた。
「おかしいな。その後あんまり覚えていないや。確か、その後もなにか色々したはずなんだけど。ただ、何か強い光の明滅をみたような……」
「その後、ハンスは夢から醒めたの?」
「うん、目を覚ますと、枕元に本と赤い石があってね。代わりに時計がなくなっていたんだ。あとは、シェイザスにさっき言ったとおり、本に書いてあったとおりに、ツェルベルスを改造したのさ」
 ハンスは、苦笑する。
「結局俺を誰が呼んでいたのかはわからずじまいだったんだけれど、君があの夢の中の女の子で、俺の時計を持っていて、それであの森がここからつながっているのだとしたら……」
 ハンスは、にやりとした。普段は、陽気でいい加減なハンスだが、そういう顔はなんとなく危険を楽しむ危ない男の香りがするようだった。
「そうしたら、一連の黒幕の正体がわかるかもしれないね」
「ええ。そうかもしれないわ」
 シェイザスはそう答えて、しばらく時計を見つめていたが、ふと思い立ったように顔を上げた。
「あ、これ、それじゃあ、あなたに返すね」
 彼女は、そういってハンスに手渡そうとした。が、ハンスは笑って首を振る。
「それは、シェイザスにあげるよ」
「え、でも、これ高価なものでしょう? 金色に光っているし、宝石もついてる」
「時計なら一杯持ってるもん。ほら、ここにもね」
 ハンスは、懐から懐中時計を取り出して見せた。シェイザスに渡したものより一回り以上大きいものである。
「俺は体がでかいから、時計も大きい方が好みなんだ。その時計はちっちゃいから、こっちの時計の方がすきなんだよ。シェイザスの手に時計が渡ったのも何かの縁だし、あげるよ」
 ハンスはにこりとすると、シェイザスの手に両手を添えてそっと彼女に押し戻す。
「あ、でも、こんなごっつい鎖じゃかわいくないね。首飾りにできるように細い鎖に付け替えてあげるね」
「あ、ありがとう」
 ハンスに押されるようにしてそれを受け取り、シェイザスは、ハンスを見上げた。彼は愛想よく笑っていたが、何かに気づいたのか、立ち上がって空を見上げ、大きな目を眇めた。
「おや、そろそろ帰ってきたかな?」
 その視線の先に、黒い点が見えていた。きっとラシードが帰ってきたのに違いない。

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