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1.青年ハンスとエノルク書-7

 その日の夜は、早めに休むことにした。
 ラシードによると、南方に集落があるようではあったが、今の時間からでは夜になってしまうかもしれないとのことだった。ハンスのツェルベルスには、照明がついているので夜でも問題なく走行できるらしかったが、シェイザスがいるのであまり無理をしないでおこうという。
 もっとも、そのことはよかったかもしれない。その照明は、炎のように熱くない光だったが、どういう原理なのかはシェイザスにはよくわからないし、夜の道を不慣れな乗り物で走られたら、きっとドキドキしてしまって寝るどころでないだろう。
 ハンスが食料を持っていたので、その日はそれを食べた。甘いパンのようなもので、意外と美味しいのと、缶に詰められた鶏肉を煮込んだものをお湯で温めてから開けて食べた。ハンスは、カンヅメ知らないの? などといいながら、平然と食べていたが、シェイザスにはやはりよくわからないシロモノである。
 けれど、それも仕方がないのかもしれない。ハンスは、どこか遠いところから来たといっているのだし、シェイザスの知らないことが多いのは当たり前なのだ。物分りのいいシェイザスは、そう考えて、あまり深くそれらを追求しないことにした。
 食事が終わると、シェイザスは、ハンスに毛布を一枚わけてもらってそれに包まって寝ることにした。
 森のほとりではあるが、安全な木の下を陣取って休む。目を開くと、まっくらな空に無数の星が宝石のように瞬いてとてもとても美しかった。それはむしろ、恐くなるほど。
(これからどうなるんだろう)
 シェイザスは、今日起こったことを思い出していた。
 朝、ハンスの出てくる妙な夢を見た。そして、起きてからダルシュと共に辺境の森へ薬草をつみに……。ああ、あの時、途中で騎士にも出会った。エノルク書を探しているといっていた。ダルシュが、きらきらした目で隊長さんを見上げていたっけ。
 そして、急に日蝕が起こって、森の中が真っ暗になって……、何かに襲われて逃げていたら気がつくとハンスが現れて――。
 考えをめぐらせるうちに、少し時間がすぎていた。
 ちらりと隣を見やる。ハンスは毛布にくるまっていて、金髪がところどころ毛布から覗いているだけだ。彼は、毛布にくるまって十秒も経たないうちにぐっすりと眠ってしまって、平和な寝息が聞こえていて、到底、この感傷的な気持ちをわかちあえそうにもなかった。
 カラスのラシードは、焚き火を管理していたけれど、火はもう消えている。木の枝で休んでいるのだろうか。
 シェイザスは、ため息をついて目を閉じた。
 この状況が夢でない以上、あれこれ考えても仕方がない。幸いハンスは、いい人のようだし、きっと自分を助けてくれるだろう。それは大きな救いだった。
 安心すると、睡魔がそうっと忍び寄ってくる。シェイザスもようやく安らかな眠りに身をゆだねることにした。
 どこからか甘い香りが漂ってくるようだ。安心したから? 昼間の薬草の入ったお茶の香りにも似ている。あれの残り香だろうか? 今頃効いてきたのだろうか?
 いや、そんなはずはないのに。
 そんなことを考えていたシェイザスは、ふと目を開いた。
 あたりにははっきりと甘い香りが漂っていて、一度睡魔に取りつかれているせいか、シェイザスも眠くてぼんやりとしている。けれど、彼女の直感がざわめいていた。危険なことが起こる。眠っている場合ではないと告げている。
 と、ずるずると地面を這うような音が聞こえてきた。シェイザスは身を起こして、眠い目をこする。
 闇に目が慣れてきて、かろうじて周囲が見えていた。まだしゅるしゅる、ずるずるという音が聞こえている。
 シェイザスは、じっと目を凝らした。何かがこちらに這い寄ってきている。しかも、一匹や二匹ではない。たくさんのものが――。
 何か細長い紐のようなものが蠢いている。恐ろしくなりながらも、彼女は視線をそらさなかった。
 そして彼女ははっと口を押さえ、悲鳴を飲み込んだ。
 蛇だ。こちらに向かってきているのは、蛇の大群だった。 
「ハ、ハンス、起きて!」
 隣でごろんと横になっているハンスを揺さぶってみるが、ハンスは平和そうな寝顔で危険に全く気づいていないらしい。
「ちょっと、ハンスってば!」
 必死に揺さぶったり、背中をとんとん叩いてみると、ようやくハンスは寝ぼけ眼で起き上がった。
「なにー? まだ空暗いよ?」
「違うの。見て、周り」
「え? 何?」
 ハンスの袖を引っ張ると、ハンスは目をこすりながらきょろきょろとあたりを見回す。
「あー、なんか蛇が一杯いるー。寝ぼけてるのかなあ、俺」
「寝ぼけてないの! 私にも見えてるの!」
 どこまでものんきなハンスの言葉に、シェイザスはますますハンスの袖を引っ張りながら彼の後ろに回った。ようやく、ハンスがはっとして立ち上がる。
「えー、なにこれ?」
「なんなのかわからないわ。でも、こっちに来る」
 ハンスは、こちらに這い寄ってくる蛇の群れを一瞥して、あごひげをなでやった。
「ふうん、なんだかわかんないけど、作為的だなあ」
「こっちに来るわ」
 焦ってシェイザスがぎゅっとハンスの袖をつかむと、ハンスは、きょとんとして彼女を見やった。
「シェイザス恐いの?」
 当たり前じゃないか。急にそんなことをきかれて、意味がわからず彼を見上げると、彼はにっこりと微笑んだ。
「んじゃ、俺につかまっててよ」
「つかまっててって……わあっ」
 返答する暇もなく、ハンスがシェイザスの首ねっこをつかむようにして持ち上げ、肩まで引き上げた。慌てて彼の背中につかまりつつ、シェイザスは非難の声を上げる。
「いきなりびっくりしちゃうじゃないの!」
「はは、ごめんごめん」
 ハンスは、軽い調子でそう答えつつ、周囲を見た。蛇たちは、じりじりと距離を詰めてきている。ハンスは、その辺にあった枝を足で蹴りあげて、手にとり、そっと蛇たちにふりかざしてみるが、蛇たちがおびえた様子はない。いくつかのものは、鎌首をもたげて、彼らに狙いを定めているようだった。
「威嚇したら逃げていってくれないかな」
「そんなのんきな空気じゃないわ」
「そうだよね、っと!」
 ハンスは、軽く飛び退った。先頭にいた数匹の蛇が、わっと飛びついてきたのだ。ハンスはそれをかわしながら、手にしていた木の枝で蛇たちを掬うようにはらった。
 が、奇妙なことがおきて、ハンスは、思わずきょとんとした。
「どうしたの? ハンス」
「おかしい。こいつら、手ごたえがない」
 ハンスがぼそりと呟くように答える。が、彼らに戸惑う時間は与えられない。第二陣とばかり、蛇がまたハンスに群がってくる。
「っと、こりゃダメだ!」
 ハンスは、反射的に身を翻して駆け出した。
「どうしたの、ハンス!」
 もう一度シェイザスは聞いてみる。
「あいつらを確かに払ったのに、手ごたえがないんだよ。まるで透けて通っちゃったみたいだよ!」
 ハンスは、困惑を隠さずに答えた。
「軽いからでなくて?」
「どんなちっちゃい蛇でも手ごたえぐらいわかるよ。いくら俺でも、そこまで鈍感じゃないもん」
 そう答えた所で、ハンスは、はっと足を止めた。
 シェイザスは視線を前に向けて、思わずそっと口を押さえる。いつの間にか前方にもたくさんの黒い蛇が回りこんでいた。
「いつの間に……」
「どうなっているの?」
 この蛇たちはどこから来たのだろう。シェイザスは、ぎゅっとハンスの肩を握る。
 さて、こうなるといくらハンスでも、どうしたものか迷ったらしい。立ち往生したまま、彼は大きな目を地面のあちこちにすばやく向けて何か考えているようだった。強行突破するべきか、それとも何か他に逃げ道があるのか。
「おーいっ! ハンス!」
 どこからか声が聞こえて、ハンスは暗い空に顔を向けた。その暗闇にまぎれて、ほとんど見えないが、何かの影がうっすらと飛んでいるのが見える。
「リケンさん」
 ばさと羽音を響かせて、ラシードはハンスの肩にとまった。
「なんだーリケンさん、無事だったの? 蛇に食べられちゃったかと思ったよ!」
 どこまで本気なのか、ハンスがのん気にそんなことを言う。
「ったく、のん気なこと言いやがって!」
 ラシードは、あきれた様子でそういって、ついとくちばしを地面に向けた。
「まったく、こんな初歩的な罠に引っかかりやがって」
「初歩的?」
「この蛇どもは幻だよ。一種の幻覚というやつさ」
「それで枝で払ったのに手ごたえがないのかい?」
「そういうこと」
 なんだー、とハンスが一転明るい顔になった。
「それじゃ、踏み潰していけばいいってことだね」
「あ! 待て!」
 さっそく大きく足を踏み出しかけたハンスに、ラシードは慌てて警告を飛ばすが、ハンスは、すでに枝をそのあたりに振りかざしていた。いきなり、枝に力が加わって、ハンスはそれを手放す。
「おお!」
 落とした枝にはロープが絞まっており、そこに無数の蛇たちがたかりはじめていた。
「幻で人は殺せないが、罠と一緒に使うと効果的なんだよ」
「なにが幻かわかんないけど、あまり見たくない光景だねえ」
 冷静なラシードの言葉に、あくまでハンスの感想はのんきだ。
「よくわかんないけど、こいつらに手出しするのはやめたほうがいいってこと?」
「そうだ大本を断つ」
 じわじわとまた蛇が彼らに近づいてきているが、ハンスは少し後退る程度で慌てるそぶりはない。再び、シェイザスの鼻先を甘い香りがかすめていく。心地よいが、香りをかいでいるとなんだか頭がぼんやりしそうだった。ふと、シェイザスは我に返った。いつの間にか、この香りが周囲に充満しているのだ。
「ハンス、なんだか変なにおいがするわ!」
 シェイザスは、ぐいっとハンスの背中を引っ張った。
「お、いい所に気がついたな。幻を助長させてるのはこの香りさ。何者かが香を焚いてるらしいが、この香には幻覚作用を引き起こす成分が含まれている」
「ええ? でも、この程度の香りで幻覚なんかみるものかなあ」
 ハンスは、香りを振り払うように手ではらいながら反論した。
「いくら強い薬だっていっても、密閉された部屋で燻されてるわけじゃないんだから!」
 ラシードは、軽くため息をつく。
「お前は、幻術というものをわかってないな。幻術って言うのは、半分は科学で出来てるんだぜ。心理的にそう仕向けることからはじまる。肉体的精神的に相手を錯覚させやすい状態に陥ってからが術者の腕の見せ所というわけよ。ほれ、さっきより徐々にきいてきてるはずさ。敵は俺達をじわじわと罠にはめていくつもりのはずだ」
「んじゃあ、こっちは慌てずに正攻法で叩き潰す方がいいというわけだね」
 ハンスが、急に前向きになる。
「そういうことだ。まずは、この香をどうにかしろ。完全にはめられる前に撤去すれば、相手は方針転換をするしかなくなるぜ」
「そっか。そんじゃ、俺の得意分野ってわけか!」
 ハンスが急ににんまりと笑った。なんとなく悪餓鬼を彷彿とさせるような悪戯っぽい表情だ。
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