だが、ジャッキールにとっての危ない橋は、一つとは限らない。今、ジャッキールは、長身をどこか縮ませるようにしながら、座っていた。そして、自分でも意味がわからないうちに、スープを飲んでいた。いや、これも成り行き上仕方がなかったといえば仕方がなかったのである。
 リーフィが、
「あなた、逃げる間、ろくに食べ物もとれていないのでしょう? 残り物なんだけれども、よかったら食べる?」
 といってスープとパンを差し出すのを、どうにか断ろうと思った記憶まではある。それから、どうして自分が食卓についているのか、ジャッキールは、その間の記憶が判然としないのだった。簡単にいえば、断りの言葉を挟むひまなく、単にリーフィに押し切られただけなのだが、その事実も覚えていないジャッキールは、ひたすらに流されるままにリーフィのペースにのせられていた。
「お口に合えばいいんだけれど」
「い、いや。とても旨い」
 慌ててそう答えるジャッキールの笑みは、慣れないことからか引きつっていた。リーフィの作る料理だから、まずいわけはないのであるが、ジャッキールには、味を感じる余裕はあまりない。
 おおよそ、ジャッキールという男は、女子供が苦手である。いや、厳密に言うと、苦手というより、ちょっと当惑してしまって妙に緊張してしまうだけかもしれない。そもそも、女性も子供も、ジャッキールに寄り付くはずもないのだから、彼らから親しげに話される、ということはあまりない。無邪気な子供は、それでも、稀にちょっかいをかけてきたりするが、大体事情がわかるようになった年頃の女性は、彼を見ると基本的に恐がるものである。
 そういうこともあってか、ジャッキールは、こういう風に親切にされると、どうしていいものかわからなくなることがよくあった。おまけに、誰か他にいればよかったのだが、二人っきりという状況に、ジャッキールのほうは、どう話をつないだものやら。先ほどから混乱しっぱなしの頭が、まだ全く回復していないのだった。
 それで、何となく挙動が不審になっているのだが、幸いなのは、リーフィがそのあたりにあまり気を留めない女性だったということである。リーフィの涼しげな様子は、ジャッキールを慌てさせもするのだが、だが、挙動不審な真似をやってしまった後は、ほんの少し救われる。
(それにしても、この娘、こうしてみると、このような場所にいるような者にはみえんがな)
 ふと、ジャッキールはそんなことを思う。少なくとも、場末の酒場にいるような器量の娘ではないし、昔は妓楼で妓女でもやっていたのかもしれない。詮索するつもりはないし、実際どうなのかわからないのだが、若い割りに苦労した様子が覗く彼女を見ていると、どうしてもそういう気分にならざるをえないのだった。
 ともあれ。今のジャッキールにとっては、彼女は恩人である。ジャッキールには、まだ、どうして彼女が自分を助けてくれたのか、判然としないところもあるのだが、本当に心根の優しい娘なのだな、と思わず感に入っていた。
 ジャッキールでも、最初、彼女を見たとき、あまりに無表情かつ無愛想なので少々戸惑っていたが、こうして助けられた事情を知って、あれこれ世話を焼かれてからは、感情を外に出すのが苦手なのか、辛い過去でもあるのだろう、と考えるようになった。
(それにしても……)
 ジャッキールは、洗いものやらなにやら、後始末をしている彼女をちらりと覗きやった。
 切れ長の目と艶のある黒髪としろい肌。整った顔立ち自体は、それでも結構妖艶な方にはいるのだろうが、本人の表情がないものだから、それほど俗っぽくもなく、何となく人形のような上品さが漂うのである。それに、ランプの温かな光が当たって、ほんのりと赤く照らされると、彼女の優しい心根が内から染み出たようにみえて、何故か表情のない顔に、微笑みが浮かんでいるように見えるのである。
 それを呆然と眺めていたジャッキールは、思わず握っていたスプーンを落とした。
「……美しい……」
 ぼとんと、スプーンがそのままスープに落ちた音で、リーフィが振り返る。
「どうしたの?」
 声をかけられて、ジャッキールは、ハッと顔を上げた。その表情に何を思ったのか、リーフィは眉をひそめた。
「傷が痛むの? ごめんなさいね。いい薬を持ってなくて……」
「い、いや、そうではなく、……ただ……」
「ただ?」
 そこまで思わず言ってしまってから、ジャッキールは、ようやく、自分が今何をつぶやいたか思い出したらしい。途端、真っ青になってから、ジャッキールは慌てて俯いた。
「どうしたの? 気分が悪いのではないの?」
「そ、そうではない。わ、私のことは、気にしないで頂きたい!」


* 目次 *