不意に遠くから馬蹄の音が聞こえた。シャーは、それがラゲイラ邸から遠ざかり、町の中に消えていく音をきいた。ラティーナは不安げな顔をしたが、シャーはそれがハダートの策でやってきたジートリューの一団が帰る音だと知っていたのか、少しだけ安心したような顔をして、ずるりと幹に寄りかかった。そのまま眠り込んでしまいたいような疲労を感じたが、まだ眠るわけにはいかない。ラティーナを安全なところまで連れて行かなければ――。
しかし、ともかく、今日の彼の戦いはひとまず、これで終わったのだった。
6.昔話
赤い血が止まらない。
カッファは自分でも驚くほど動転していた。
医者が来るまで、自分でも傷口を押さえてやりながら、カッファは目の前の青年を見た。痩せているが血色はよかった青年の顔色は、すでに血の気を失い、土気色に近い。
青い羽根飾りのついた兜をはずし、青いマントを血で染めた青年の大きな筈の目は、今は半分瞼が下がっていて、そのまま眠ってしまいそうで恐かった。
ここで気を失ったら、おそらくこの青年は二度と目を覚まさない。
「な、……なあ、……カッファ…………」
ぜえぜえと苦しそうに息をしながら彼は言う。
「ごめんよ、オレ、こんな筈じゃなかったのにさあ…………。よそ見してて撃ちおとされるなんて、オレって最後まで馬鹿だよなあ」
「そ、そんなことは! いいから、今は、助かることだけを考えなさい!」
「な、カッファ……。……こんな事言うと、迷惑だとは思うんだけど、……一言だけ……言わせてくれる?」
青年は少しだけ咳き込んだ。唇の端に赤い飛沫が飛ぶ。そして、彼はうっすらと微笑むと、目を閉じながらぽつりといった。うっすらとどこか寂しげに笑った口許が、ゆっくりと開かれた。
「オレ、あんたのこと、一度でいいから父上って呼びたかったなあ」
ふと、カッファ=アルシールは目を覚ました。周りには、書きかけの命令書が散らばっている。ここのところ、執務室で寝泊まりしていたが、今日は仕事中にそのまま眠ってしまったのかもしれない。もとは兵士だった彼は、寝られればどこでも眠れる男だった。実際、立ってでも朝まで眠ることもできるのだが、そんな彼でも先ほどの夢を見た後では、すぐに眠る気にはなれなかった。
カッファはため息をつくと、上着を羽織って執務室の外に出た。宮殿のバルコニーの方に出ながら、夜の街を見る。暗い街には、いくらか灯りがついているが、それも目立つほどでもない。
「カッファ、眠れないのかい?」
不意に声がして、カッファ=アルシールは慌てて後ろを見た。そこには、頭からローブをかぶった青年が立っている。カッファはその人物に慌てて礼をすると、居住まいを正した。
「あ、これは……失礼しました。起こしてしまいましたか?」
「いや、私は昼も寝ていたので、夜眠れなくなっているんだ。気にしないでくれ」
「しかし、夜風はお体にさわりまするぞ」
シャルルは、にっこりと微笑んだ。
「今日は加減がいいんだ。大丈夫だよ」
そして、シャルルは、カッファ=アルシールを気遣うような素振りを見せる。
「彼のことか?」
「え、ええ。ちょっと、昔の夢を見て、……あの戦いの時のことを思い出しました」
カッファは、深く冷たい夜気にため息をはき出した。
「思えば、いやがる幼子を無理矢理戦場に引っ張っていったのは私です。ずいぶん酷いことをしました。……今思い出しても後悔します」
「そうか……」
シャルルも感慨深げにため息をつく。その寂しげな瞳に、カッファはふと彼のため息の理由を思い出す。
「い、いやっ! 私は、あなたを責めているわけではないのです」
「ああ、それは十分にわかっているよ。……私はその時は戦える身ではなかったし……、それで彼に迷惑をかけたこともわかっているよ」
シャルルはうっすらと微笑んだ。
「彼には感謝しているよ。……私は、彼のおかげで生きていられるんだから……。彼が望めば、私は彼と入れ替わってもよかったのだが…………」
「……そうですか」
「彼は自由な男だからな……。あれには、風のように自由に生きていてほしい」
シャルルは、バルコニーの手すりに手を置くと、高い宮殿から見える街の方を見た。あの向こうには、さらに延々と続く砂丘が広がっている。彼らの言う「あの人」は、この広い世界のどこかにいる筈だった。カッファが、ふと不安そうに言った。
「今、どの空の下にいるんでしょうな……。ここのところ、全く姿を見せませんので、柄にもなく心配になってきたのです」
「……案外、彼のことだから近くにいるかもしれないが」
シャルルはあごに手を当て、眉をひそめた。
「やっかいなことに巻き込まれていなければよいのだが……心配だ」
「ええ」
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