そういえば、あの青年、どうしたんだろうか。と、ラティーナは思った。ラハッドがどうしたかは覚えていない。ジャスミンの花など手向けた覚えもない。ただ、あの時のあの青年の容貌が、なぜか不意に克明によみがえってきた。
「あ!」
ラティーナは小さく叫んで口を押さえた。
あの青年、どこかで見た事があるような気がする。馴れ馴れしい態度、酔っ払ったような歩き方、そして、あの口調……。
先程まで……そんな人間と一緒にいたのではなかっただろうか……。
「……シャー…………」
ラティーナは呟いた。
あの青年は、シャーによく似ているのである。背格好に口調に声。どうして今まで気づかなかったのだろうか。
なぜ、シャーがあそこにいたのか。どうして、ラハッドを知っていたのか。
それは、シャーがシャルルの手のものだと考えれば、全て納得できるような気がした。だとしたら、本当はシャーは、自分の主君の暗殺を止めるために、ラティーナに近づいてきたのだろうか。親切面して、何度も助けてくれたのも、そのためなのだろうか。
「シャー……どうしてよ」
もう、何が何だかわからない。頭が痛くなりそうで、心がばらばらになってしまいそうだ。
彼女は、心の中の、優しい彼女の恋人の笑顔を思い浮かべた。涙が浮かびそうになり、ラティーナは唇をかんだ。
「お願い、……本当の事を教えて……ラハッド……」
彼女がそう呟いた時、いきなり外で声が聞こえた。
「これはお客人」
「……あぁ、お役目ご苦労」
男の声が聞こえる。
「ご主人から娘を連れてくるように言われてね、私に引き渡してもらえないだろうか」
男は慇懃な調子で言った。そして、しばらくささやくような声が聞こえる。その密談が終わった後、看守の声が聞こえた。
「ああ、いいですよ。全部お任せします」
よほど信頼の置ける男なのだろうか、看守はあっさりと彼にラティーナを引き渡す気になったようである。やがて、がちゃりと錠の開く音がし、きしみながら扉は開いた。かつかつと、靴音がし、ラティーナはようやく顔を上げる。そして、驚いて叫んだ。
「ハダート=サダーシュ!」
銀髪の男は、苦笑した。
「困ったな。そこで名前を言われると、あまり俺としてはなあ」
そこで笑っているのは、ザファルバーンの七部将の一人である筈のハダート=サダーシュ、その人だった。
「おい、出ろ!」
扉が開き、横柄な男の声がする。シャーは、まるで煙草でもふかしているような顔をして、その男に注意を払わない。顔に傷のある男は、残酷な笑みを浮かべていった。
「ベガードさんが、お前を痛めつけて情報を吐かせるんだとさ。あぁ、かわいそうになあ。お前も、明日にゃ、そのひょろっこい体を地下につるされたまんま、あの世にいってるんだ」
明らかに面白がっている様子である。どうやら、彼も、痛めつけるのに一役かっているのだろう。シャーは、目を天井に向けて何か思い出しでもしているように言い始めた。
「うーん、そういう予定は困るなあ。しかも、ベガードっていうと、あの色気もなにもないでかいおっちゃんだろ? そーれに、オレ、いじめられて喜ぶような趣味ってないのよねえ」
シャーは、考え込むような顔をしていった。それから、思い出したように呟く。
「オレ、実はね、明日、女の子とデートの先約があるのよねえ」
「何?」
男が怪訝な顔をするのを見もせずに、シャルルは一人まだ考え込んでいる。
「約束を大切にするオレさまは、あんた達のへぼ用に付き合ってる暇はないっつーか、これ以上振られたくないっつーか…………うん、そうだなあ」
そして、彼に向けて、にやりと笑った。
「きーめた。オレ、脱走しちゃおう」
「何いってんだ?お前は」
怒った男が、彼の胸倉を掴んで引き上げた。一瞬怯えたような顔をするシャーだったが、対照的に彼の目はじっとりと男を見上げていた。間近で見ると、黒にわずかに青みがかった彼の目は、冷たく澄み渡っている。怯えは目にはなく、むしろ静かな迫力すら漂っていた。シャーは、どこかうっすらと微笑みながら訊いた。男はシャーの表情の変化には気づいていない。
「オレを殴ったりして、後悔しないかい? 一生もんだぜ? この後悔」
「なーにいってやがる! 生意気抜かすな!」
男はその時気づいておくべきだったのである。縛ってあったはずのシャーの縄は、彼が胸倉を掴んで引き寄せた時にばらりと下に落ちかけていた。そして、後ろ手のままの彼の右手に、細身で鋭い小型の短剣が握られていた事に。
「自分の立場を考えろ!」
男は、シャーに殴りかかった。シャーは、体を沈めた拍子に、胸倉を掴んでいた男のごつい手を振り解いた。そして、彼は叫んだ。
「あんたもな!」
シャーは、右手の短剣を男の胸に叩き込んだ。
「ぎゃーっ!」
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