一覧 戻る 進む


笑うムルジム22


 ふと目が覚めると、窓から朝日が差し込んでいた。
 窓が開いているということは、ジャッキールが目を覚ましているのだろう。実際、日の高さからみて、夜が明けてずいぶん経っているらしい。
 ジャッキールは、深夜まで活動していても、朝日が上るとおきてしまうのだろう。すでに身支度を整えて、昨日の後片付けなどをしているようだった。
 相変わらず活発に動き回るジャッキールは、朝っぱらから騒々しいのだが、それでも、シャーが今日目を覚まさなかったのは、かなり疲れていたからだろう。
 二日酔いと昨日の大立ち回りのせいで痛む頭をなでやりつつ、シャーは起き上がってため息をついた。ついでに腰と喉の辺りも痛かったが、自業自得ではあるのであまり文句は言えない。
 昨日何をやったか覚えている。一時の感情と酒が入っていたとはいえ、随分なことをしたものだと反省はしていた。
「いててて……。ちぇっ、あんなに飲むんじゃなかった」
 シャーは、額を押さえつつ、水でも飲もうかと居間に向かった。
 と、居間では、ちょうどジャッキールが食器をまとめて、台所にもっていこうとしているところだった。昨日の後片付けなのだろうか。汲んできた水で皿洗いでもするつもりなのだろう。
 普段のシャーなら、何かとからかってやるところだが、さすがに今日はそんな元気はない。いきなり顔をあわせてしまって気まずいのだ。
「あ、ダンナ、……おはよう」
 シャーは、一応挨拶をしたものの、その挨拶はいかにもぎこちない。ジャッキールは、というと、別に怒った様子もなく、普段どおりの様子で彼を見迎えた。
「ふむ、珍しく、早いな。もっと寝ているものかと思っていたぞ」
「その、起きちまったからさ」
 そうか、とジャッキールは答える。ジャッキールは、別に昨日のことをとがめだてたりはしなかったが、シャーは気になってこう声をかけた。
「ダ、ダンナ、昨日は、悪かったよ」
 ジャッキールは、ん、と軽く返事らしいものをする。シャーは、すっかりしょげ返った様子になっていた。
「怪我なかったかい?」
 そういいながら、シャーは、昨日、引きずられて帰るときに、彼の右腕から血が滴っていたことを思い出していた。その後、別に包帯を巻いている様子などもなかったし、酒も飲んでいたぐらいなので、大した傷ではないのだろう。今も傷跡がどこだかわからないぐらいだ。
 しかし、シャーはそのことが気をとがめているらしかった。
「なんか昨日、血が滲んでた気がするんだけど……」
 ふむ、とジャッキールは唸る。
「あいにくとそう柔でないのでな、あんなかすり傷など、気にもとめていない」
「それはよかった、けど、本当に悪かったよ」
 ジャッキールは、ため息をつく。
「反省しているならそれでいい」
 ジャッキールは、ぶっきらぼうながら、少し優しくそう答えて作業に戻る。
「あのさ」
 シャーは、まだそこに突っ立ったままだ。
「ダンナ……。オレ、リーフィちゃんに会いに行くよ」
 シャーは、ため息まじりに言った。ジャッキールは、作業の手を止めて、シャーの方に顔を向ける。
「でも、あの子に顔を向けるの、正直まだ恐いんだ。こんなの、情けないけどさ。それでさ、あの、……ダンナに頼みが……」
 と、シャーが顔を上げた瞬間だった。いきなりジャッキールの拳が飛んできて、シャーの頬を捉えた。
 そのまま、シャーは吹っ飛ばされて、背後の壁に激突して崩れ落ちる。ついでに壁にかけていたタペストリーがおちてきて、彼の頭にかぶさる。
「……スッキリしたか?」
 ジャッキールは、自分も思いのほか痛かったのか、手を広げてを振っていた。
 シャーは、がたがたとタペストリーを払って、顔を上げた。
「ちっ! このクソオヤジめ」
 シャーは、唇を切ったらしく口元を押さえながら立ち上がる。
「わけもきかずに殴りやがって……! しかも手加減なしかよ!」
「そういうことなのだろう。踏ん切りがつかないから一発殴れといいたかったんだろうが」
 ジャッキールは、心外であるというように首を振る。
「俺は普段は無益な暴力が嫌いなのだが、致し方ないから応じたまでだ」
 ちえっ、とシャーは舌打ちする。実際、気合を入れてほしいというつもりで声をかけたのは確かだが、自分で申告するまえに殴り飛ばされたのは気に入らなかった。
「あ、そうかよ。まあいいや。これで踏ん切りがついたぜ」
 シャーは、にんまり笑った。
「ダンナ、この借りは後で三倍返しで返すからな」
「そんな返し方はいらん。まあ、しかし、健闘は祈ってやる」
 そういうと、シャーは、にやりと笑ったらしい。ジャッキールは、再び洗い物に戻った。
「それじゃ!」
 シャーの声と足音が聞こえた。背後でシャーが出て行った気配があったので、ジャッキールは、一応振り返る。シャーの姿はすでに部屋から消えていた。
 が、何故かそろそろとシャーがそのまま後退して戻ってきた。
「あの〜、ダンナ、ちょっといい?」
 シャーは、そろっと彼の機嫌をうかがうようにして上目遣いになっている。ジャッキールは不気味そうに彼を見た。
「何だ、一体?」
「そのぉ、面倒かけついでに、ちょっとオネガイがあるんだけど」
 擦り寄る猫のようなシャーである。いかにも普段の彼の行動に戻っていて安心なのは安心だが、なんだか嫌な予感がする。
「だから、なんだ?」
「あのですね、実は、その。今日、リーフィちゃんと会って、ちゃんと謝るのに、何かもっていくか、お茶でもおごろうと思うんだよね」
「うむ、それはいいことではないか」
「そうそれ。それがね」
 シャーは、言いよどむ。
「ソノォですね、オレ、金が……」
 いいにくそうにしながら、シャーは、じっと上目遣いで彼を見た。
「ちょっと、持ち合わせが、全くないっていうかさ。いわゆるひとつの無一文?」
「まさか、昨夜、飲み代に全財産使ったのか?」
 表情を引きつらせるジャッキールに、シャーは慌てて言った。
「いや、その、後悔してるんですってば。ほら、オレ、結構ああなると後先考えない人だから、それでその……」
 シャーは、言い訳をつらねながら手を振った。
「いや、どうしようかなーと思ったけど。だって、こんな時に、リーフィちゃんにおごってとかいえないもん。ね? 質草もないしこんなこと、頼めるのダンナしかいないから」
 ジャッキールは、いつの間にか握りこぶしを固めていた。
「……もう一度殴っていいか?」
「ちょ、ちょっと、そんな乱暴な。やだよ、そんなに殴られたら顔が変形しちゃうじゃん。昨日ダンナが無茶やったせいで、オレ腰も痛いし、首も痛いし。このままじゃ、リーフィちゃんに何かあったってばれちゃうよ!」
「まったく、貴様という奴は!」
 ジャッキールは、ため息をついて財布を取り出すと、いくらか選んで、シャーの方に手のひらを向けた。
「もっていけ」
 シャーは、それを受け取りながら、思ったより額が大きいのをみてあからさまに笑みを浮かべている。
「へへ、こんなにいいの? すまないねえ、ダンナ。そのうち返すから」
「期待していない。その代わり、きちんとリーフィさんにおいしいものでもおごって、ちゃんと謝るのだぞ」
 ジャッキールがなにやら子供に言い聞かすような口調でそういうのをきいて、シャーは目をまんまるにした。
「ええ? マジ? ホント? もらっていいの?」
「貴様に金を貸すなど、やるのと同義だ。だったら、くれてやる」
 ジャッキールは、あきれた様子でそういう。
「だが、金はきちんと考えて使うのだ。お前みたいに自棄になったからといって、そういう風にやるのが、いかに今後のためにならないか……」
「マジで返さなくていいの? お小遣いくれんの?」
 ジャッキールの説教をきいていないのか、シャーがキラキラ目を輝かせながらそう繰り返す。彼は不機嫌に言い放つ。
「しつこい。男に二言はない。だが、きちんと使えといっている!」
「そりゃあ、任しといてよ。いやあ、悪いねえ、ダンナ!」
 シャーは、いつもの彼らしく軽い調子になった。
「それじゃ、お礼に今度、何か面白いことがあったら、ちゃんとダンナにも教えてあげるからね。じゃっ!」
 先ほどより数段も軽い足取りになり、シャーはさっさか走っていく。その足音からして、彼がもう落ち込んでいないらしい様子を知って、ジャッキールは、ため息をついて渋い顔をした。
「あの男とかかわると本当にろくなことがないな」
 しかし、もう十二分に、関わってしまったのだ。ジャッキールは、これはまずいことになったものだとつくづく思うのだった。



「ちっ、無茶しやがって……。いてて……」
 シャーは、頬やら腰やらをさすりながらため息をついた。
「ちきしょう。……やっぱ、強いな、あのオッサン。酔った勢いとはいえ、絡むんじゃなかったぜ」
 重にダメージが酷いのは昨夜のものだ。まさか、あんな強引な格好で投げられるとは思わなかった。おかげで首も寝違えたような痛みがある。
 おまけに、先ほども手加減なしに殴り飛ばされたので、頬も痛い。
 いや、シャーも、実はあれは彼が怪我をさせないように気をつけていたことを知っている。あの男はあれはあれでかなり気をつけて殴っていたのには気づいているのだが、人が頼む前に殴ることはないだろう。
 昨日の一件も、自分が喧嘩を売ったので文句を言える立場ではないのだが、あれこれ見抜かれていたのが少し癪で、シャーは思わず悪態をついてしまうのだった。
「チェッ、あの、説教親父。まあ、小遣いくれたから文句言うのはやめとくか」
 シャーは、足元の石ころを蹴り飛ばした。
 そのまま、ぽーんぽーんと石が飛んでいく方向をなんとなく見やる。のどかな朝だ。シャーはあくびをして、そのまま足を進めようとして、そのまま動きを止めた。。
 向こうからリーフィが歩いてくるのだ。酒場に向かっているのだから、リーフィが出勤してきたのに出会っても、別におかしくはないのだが、酒場に来るリーフィを待ち伏せしようとしていたシャーは慌てた。まだ心の準備ができていないのである。
 リーフィは、彼を見ても表情を変えなかった。もしかしたら、無視されて通り過ぎられるのでないかと思って、シャーは、内心おびえていた。
 リーフィなら、表情も変えずに通り過ぎてしまうだろう。彼女は、普段から表情の変化が薄いのだから。けれど、そうなったら、どうしよう。
 そう思った時、ちょうどリーフィがシャーの前に差し掛かった。シャーは、思わず棒立ちになってしまう。
 と、リーフィが不意に彼のほうを見上げた。
「シャー、おはよう」
 リーフィは、わずかに微笑んで自分から声をかけてきた。
「あ、うん。お、おはよう、リーフィちゃん」
 シャーは、慌てて挨拶を返す。少しだけぎこちない沈黙が続きそうになる。けれど、リーフィから声をかけてくれたので、シャーは気が軽くなっていた。それを見越したように、リーフィはもう一言続けた。
「今日は早いのね?」
「あ、ああ、うん」
 リーフィは、何事もなかったかのような態度だった。シャーは、それに救われて、思い切って切り出してみる。
「あ、あの、あの、リーフィちゃん、オレ、昨日……」
「ううん、いいの。昨日のことは私が悪かったの、ごめんなさい」
 リーフィが、先に謝るので、シャーはさらに慌てていった。
「違うんだ。リーフィちゃんは悪くないよ。オレが、悪いんだよ。変なこと聞いちゃったり、逃げちゃったりして……」
 シャーは、リーフィの顔をちらちらと伺った。彼女の表情は、とうていうかがい知れるものではなかったが、リーフィは別に普段と変わらない様子なので、怒っているわけではなさそうだった。
「あの、本当に、ごめんよ。変な誤解されてたら、困るけど、オレは別に……」
「ふふ、もういいの」
 リーフィは、少し口元を押さえて笑う。
「そんなにまじめに謝るシャーは、らしくないわ。そんなこと、忘れましょう?」
「う、うん……」
「そんなことより、どうしたの? どこかで喧嘩でもしたの?」
 リーフィは、シャーの顔が少し腫れているのと、唇が切れている事に気づいたらしい。少し心配そうな彼女に、慌ててシャーは首を振った。
「こ、これは、その」
 まさか、リーフィに会うのが恐くて、ジャッキールに気合を入れてもらったなどといえるわけがない。おまけに昨日荒れて喧嘩を売って暴れまわったなど、余計に言えることではなかった。
「いや、オレがちょっと馬鹿をしただけさ。気にしないで」
「昨日、怪我もしていたのに、大丈夫?」
「うん、大したことないよ。ありがとう」
「このまま、酒場に寄ってちょうだい。包帯を替えてあげるから」
「い、いいよ。そんな」
「でも、化膿したら大変だもの。ね? お願いだから」
「あ、ありがとう。それじゃあ、寄っていっていい?」
 リーフィは、うなずく。シャーは、少し嬉しくなって歩き出したリーフィの後を追いかけた。
 シャーはため息をついた。
 リーフィは、やっぱりリーフィだ。いついかなる時も、彼女は優しいし、こんな自分を受け入れてくれる。けれど、それが万人に対してそうだから、自分は見苦しく嫉妬してしまうのだ。それでも、そういう自分もリーフィは許してくれた。
 本当のことは言えるはずもない。彼女に自分が何者であるのか告げてはいけない。それを告げてしまえば、すべてが終わってしまう。
 けれど、もし、そのことを告げても、リーフィなら――。
 彼女なら、もしかしたら、「そう」と答えるだけで済んでしまうのかもしれない。彼女は、一体、自分をどうみているのだろう。
 シャーは、彼女の後姿を見ながら漠然とそう思った。
「あの、オレ、ね。昨日、考えたんだけどね……」
 シャーは、意を決してそう声をかけてみた。
「なあに?」
「オレ、昨日の件、リーフィちゃんに協力したいんだ」
 リーフィが、はっとして振り返る。シャーは、目一杯余裕そうな笑顔を作る。
「そ、そりゃあっ、リーフィちゃんが、あんな奴に係わり合いになるのは心配なんだけどさ。よく考えると、オレが一緒にいれば、あいつだってリーフィちゃんに無駄に手を出さないもんね。そりゃそうさ。オレの方がアイツより大分いい男だからね」
 内心ドキドキしながら、シャーは、できるだけ軽い調子を繕う。
「そ、それに、リーフィちゃんも危ないかもしれないし、オレがいた方が役に立つとおもうんだよね? ど、どうかな? 迷惑?」
 リーフィは、一度瞬きをしてから、にこりとした。
「ありがとう、シャー」
「べ、別に礼を言われるほどじゃあ」
 シャーは思わず苦笑する。
「オレは、リーフィちゃんの役に立ちたいし、それにこのままじゃ引き下がれないよね。今日から一緒に情報集めてみよう」
「ええ」
 リーフィは笑って答えた。彼女の微笑みは、それはそれはかすかなものなのだが、シャーはいいようなく安堵していたのだ。
 本当に、彼女の側にいるのは、とても居心地がいい。いつまでもこんな日々が続けばいいと彼は思っていた。


一覧 戻る 進む