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物憂げな春の日に・後

 殿下の様子がおかしくなったのは、東征も後半に入ってからだった。
 遠征中に、戦場で矢で射抜かれたのが、原因のひとつではあった。
 それは間違いない。
 しかし、殿下は瀕死の重傷を負いながら奇跡的に回復し、東征を続けた。そのことで、士気が高まったのも事実である。その結果、リオルダーナの王を自決に追い込み、我が軍が優勢なまま戦争は終結した。
 しかし、そのかげで殿下は、傷の痛みを誤魔化すために、殿下は鎮痛剤と酒に頼っていた。しかも、ひっそりと周囲にそのことがわからぬようにだ。
 そして、そのことは、彼の持つ不安を増幅させてしまったように思う。
 殿下は、セジェシス陛下とあまりにも性格が似ていた。殿下は、生まれながらにして、父君の影を背負う宿命を持っていた。傍で仕える私ですら、その父の影を彼に見てしまう。それがいけないのはわかっているのに。
 そして、殿下自身も、激しくなる戦闘の中、自分が彼らの精神的な支えであることに気づき始めていた。みなの期待にこたえようとする気持ちが、殿下の中で少しずつ負担になっていった。
 ああ見えて、殿下は非常に繊細なお方だ。他人に辛い気持ちを相談するようなことはせず、一人で抱え込みがちなことは、よくわかっていた。特に、私には隠そうとしているようですらあった。私は、だからそのことに気づかなかった。
 知らないうちに酒の量が増え、殿下は酒に溺れるようになった。酒や薬は、仲良くしていた少女に調達させていたようだ。自分の弱い部分をさらけ出したということは、殿下はその少女を信頼していたのだろう。
 或いは、――恋をしてしまったのだろうとも思う。
 しかし、その娘は、崩壊寸前でどうにか均衡を保っているような、危うい状態の殿下を受け入れることはできなかった。身近で接していた彼女には、殿下の隠された凶暴性が見えてしまったのだろうか。
 殿下は、いつもどおり、彼女にそばにきて話をするように言ったそうだ。
 殿下は、その時酔ってはいたが、彼女に対しては紳士的な態度を取っていたらしい。ただ、一人でいると寂しくなるから、傍に来て一緒に話をしてくれないかと、ただそう頼んだらしい。
 それを、彼女は拒否してしまった。 
 曰く、お前様が怖ろしい。気持ちが悪い。傍にいるのが怖い。
 そういって、娘は殿下の前から逃亡した。
 殿下の壊れかけていた心は、それでぷっつりと引き裂かれてしまった。
 その後、彼は暴君と化した。権力を振りかざし、暴力で周囲を支配し、気に入らないことがあると喚き散らした。
 彼は、王子として、そして将軍としての自分の権力をあるいは甘く見ていた。自分がそうなっても誰かが止められるだろうと思っていたのだろう。
 だが、誰も止めることができなかった。この東征中に殿下の立場は強くなっていた。それゆえに、誰も彼をとめることはできなかった。
 あまりにも目に余る振る舞いに、私はあるとき殿下を殴ろうとした。
 しかし、殿下は、にやりと笑っていった。
「カッファ、俺を殴るのか?」
「ええ、これ以上の傍若無人な振る舞いは許せません」
「へえ、それじゃあ、殴ってみろよ? 殴れるのか、カッファ」
 いきなり何を言い出すのかと思った私に、彼はこう続けた。
「アンタの主君であるセジェシス王の息子のこの俺を?」
 私は思わずはっとして、振り上げた手を止めた。その時、殿下が、あきらめたような、寂しげな表情をしたことを覚えている。
 そのときの殿下の目は、今でも忘れられない。殿下の目は、かすかに潤んで、そして怒りに震えていた。
「できないんだろう? やっぱり、そうだよな!」
 そういって、殿下は、突然感情を高ぶらせた。
「アンタは、いつだって俺の中にオヤジを見ている! アンタが仕えているのは、俺じゃなくてオヤジなんだ! オヤジの臣下のアンタに、俺は殴れないんだろう! 俺を息子同然に思っているなら、殴れるはずなんだからな!」
 殿下はそういって、私の前から走り去った。今思えば、そのときの殿下は、泣いていたのかもしれない。私は、彼を追いかけることもできなかった。
 私は、殿下が幼いころからお仕えしてきた。母親のいない殿下は、私の妻を母上と呼び、私を実の父のように慕ってくれた。私と妻の間に男児はおらず、時に殿下が自分の息子のように思えることもあった。
 だが、その感情が罪であることも自覚している。私は、私が忠誠を誓ったセジェシス陛下のお子様を、あくまでお預かりしているだけなのだと。特に見つかる余地のない母とはちがい、父である陛下はご存命だ。だから、妻と違い、あくまで私は、殿下との関係に線を引いてしまっていた。
 しかし、父と疎遠な殿下が、私に父親を求めているのも知っていた。ただ、私はそれに応じることができなかっただけだ。
 それを思い知らされて、私は、殿下の所業を止めることすらできなくなってしまった。
 その一件から、殿下も、私と距離を置くようになっていた。
 そんな中、王都に戻ってきた私達を待っていたのは、ラハッド王子の毒殺事件だった。殿下は私の前では何も言わなかったが、実際は相当取り乱していたそうだ。
 それっきり、殿下は、毒見をしてもらわなければ、食事がまともにできなくなった。
 もともと、幾度となく毒を飲まされた事のある彼だ。いつそのような状態になっても、本当はおかしくなかったのだ。
 殿下は宮殿にいるのを嫌い、安全な場所と、遊ぶ女が欲しいといい、楼閣を借り上げさせた。そして、そこにいついて宮殿に戻らなくなった。外には殿下は病気で伏せっていると伝えさせていた。
 私は、そんな彼に何をしてやることもできなかった。ただ、安全な場所を金で買い、殿下が快適な生活をするように取り計らうことができただけだった。殿下に忠実な部下をつけ、そして、時折報告させることぐらいしかできない。
 殿下は、私が妓楼にやってくることを好まなかった。彼の不興が怖ろしかったわけではないが、殿下は私や私の妻がやってくるなら死ぬと周囲に吹聴していた。もちろん、それが私の耳に入ることを知っていてだ。
 その言葉には、ある程度信憑性があった。そのころの殿下は、精神的に不安定で、実際に何をしでかすかわからなかった。
 最初は、少し遊ばせていればすぐにもとの優しい殿下に戻ってくれると思っていた。いい加減なところはあるが、優しく陽気な殿下に。少し気が立っているだけだ。
 遠征中に、父王が失踪し、弟君が毒殺され、自分も継母から命を狙われている。正気でいられるほうがおかしい。気が晴れれば、きっと元に戻ってくれる。だから、少し羽目を外すぐらい、認めてやろうではないかと。
 しかし、殿下の病は、私が思っているより根深いものだった。



 ある時、殿下が暴れていると部下から報告を受けて、慌てて私は妓楼にかけつけた。
 そもそも、殿下は、戦闘能力が高かったから、暴れだすと誰も手がつけられないのだ。部下には手向かいしないように伝えてはあるが、それでも、何かあるたびに殴られる彼らも大変だった。
 既に部下たちは、遠巻きに殿下を眺めることにして、彼が落ち着くのを待っているようだった。その部屋には、殿下の罵声に怯えて泣き出すむすめたちもいた。
 ただ、殿下は、娘達には暴力を振るうことは過去から今までないらしく、それだけは私にとっては救いだった。
 部屋からはもう物音は聞こえなかった。気持ちがおさまっているのかもしれない。そう考えて、私が殿下の部屋に行こうとすると、一人の娘が私を止めた。それはその妓楼の乙女だった。
「だんな様が行くと、かえって殿様の気分を高揚させてしまうかもしれません。私が参りましょう。ご心配でしょうから、後ろからそっとお部屋を覗いておられるとよいでしょう」
 なるほど、乙女になれるのは、素質のある娘だけだという。教養や作法を学ばせて、選ばれたものだけが、妓楼に戻されるのだと。その娘も随分と若かったが、しっかりとしていて度胸も据わっていた。
 私はその娘の言うとおりにすることにした。
 娘が、殿下の部屋に入った背後から、私はそっと部屋の中を覗きこんだ。
 日光を意図的にほとんど入れていない、暗い部屋。
 絨毯の上に、皿や料理、調度品の破片が散乱した中で、殿下はごろりと寝転んで煙草をふかしていた。
(これが、殿下か?)
 私は目を疑った。それは、以前の殿下とは、まるで違っていたからだ。
 殿下は、――派手な赤い服をだらしなく身につけ、はだけた胸に金銀の首飾りをきらめかせていた。
あまりきちんと食事をしていないのか、元から痩せていたのに、明らかに私が知っている彼よりもやつれていて、本当に病気でもしているのでないかと心配になるほどだった。仮面をつけていてはっきりとはわからないが、痩せて落ち窪んだようになった殿下の目だけが、ギラギラと輝いて、窓の外を睨みつけるように見つめている。
 私は、愕然としていた。
 殿下は、妓楼で好き放題遊んでいると聞いていた。娘達を呼んで派手に遊び、文字通りの酒池肉林の生活を送っていると聞いていた。けれど、これはどういうことだろう。殿下は、ちっとも幸せにも、楽しそうにも、見えなかったのだ。
 周囲から怖がられ、自ら周りを遠ざけて、たった一人で暗い部屋に閉じこもっている。それが、今の殿下の姿なのだと、その時私は初めて知った。
「殿様。入りますよ」
 そういって、娘は、殿下を恐れずに部屋に入った。
 殿下は、彼女に気づいて、面倒そうにぼそりと言った。
「なんだ、お前か」
「なんだなんて酷いですわ。私を呼んでいただければ、いつでもお暇つぶしの歌でも歌ってあげましたのに」
 そういって、娘はくすりと笑う。
「今日はご機嫌がよくないみたいですね」
 ふっと殿下は、鼻で笑った。
「そうだろうよ」
 殿下は、身を起こした。
「今日のお料理がお口に合わなかったのですか?」
 そうきかれて、殿下は目を伏せた。
「……昔から、宮廷風の料理はニガテなんだよ」
 殿下は、ぶっきらぼうにそういってため息をついた。
「あら、そうでしたの。今度から別のお料理にするように伝えておきますわ」
 娘はそういって、しかし、少しためらってから優しくたずねた。
「お料理を見て、亡くなられた弟君さまのことを思い出されたの?」
 ぴく、と殿下は、顔をあげた。ああ、そうか。ラハッド王子は、食事か酒に毒を盛られたと聞いている。豪華な宮廷で出されていた料理は、それを殿下に想起させてしまったのだろうか。
 殿下は、娘を見上げたまま、苦く笑った。
「さあ、アイツが本当は何の毒で死んだのか、わからねえんだよ。でも、同じようなメシ食って、俺が死なねえのに、なんで同じようなメシでアイツが死んじまうんだろうな。そう考えたら、何かといらついた。……こんなこと言わせんなよ」
「そうですの。ごめんなさいね」
 殿下は、ため息をついて娘から目を離した。
「お前は怖いもの知らずだな。俺に声をかけてくるなんて」
「ええ、よく言われますわ。空気を読まない女だってね」
 娘はそういって微笑む。
「そうか。お前のそういうところは嫌いじゃない」
 殿下のその言葉には、以前の優しい彼の片鱗がのぞいていた。
「……でも、今は、俺を一人にしておいてくれ。下がっていい」
 娘は、何かいいたそうにしていたが、やがて残念そうな表情で部屋から出てきた。それでも、彼女はそっと私に微笑んで、もうお気持ちは落ち着かれたようです。ご心配いりません。と告げた。私は、彼女のあとについて、殿下に見つからないうちに部屋を後にした。
 そっと振り返ると、殿下は、こちらに背を向けて、再び窓の外を睨みつけていた。
 あんな暗く閉ざされた部屋で、殿下は、一体、毎日、何を考えて過ごしているのだろうか――。
 
 
 いつのまにか、季節は、春になっていた。
 殿下が閉じこもってしまってから、もう随分経っている。しかし、私も、殿下自身も、まだこの問題の解決方法がつかめずにいた。
 それどころか、事態は悪化している。
 とうとう、宰相ハビアスの耳に殿下の乱心のことが入ったのだ。
 ハビアスは、私の師でもある。私が、文官としてここまで出世できたのも、師であるハビアスが私を評価してくれたからだ。だが、それは、彼が私の能力を純粋に評価したからでないことも、弟子として私は良く知っている。
 彼は、頭のいい男であるが、それだけに自分よりも聡明なものを嫌う。ハビアスが私を重用したのは、私が嘘をつかないことを知っているからであり、さらに、私の能力が彼より劣っていることが明らかである為だ。
 そんなハビアスが、自ら疎んじた母に似たシャルル=ダ・フール殿下に、常々複雑な思いを抱いているのを知っている。父王に良く似たあの性格に惹きつけられながら、勘が鋭く、自らの計略すら見破る可能性のある殿下に対して警戒を抱いている。それが証拠に、ハビアス自身は、殿下を自分から遠ざけようとしてきた。
 そんな殿下の乱行をあの男が知った。
 実は私は、既にハビアスからは、あまりに乱行がすぎるようなら、殿下を殺せと言い含められている。彼が本物の暴君となる前に殺さなければ、大変なことになるといわれている。
 もちろん、私に、そんなことができるはずもない。しかし、私が動かなければ、いずれハビアスが刺客を放つに違いない。今の殿下なら、間違いなく殺されるだろう。
 そんなことになるのだとしたら、いっそのこと、私の手で――。私の手で殿下を殺し、そして私も――。
「カッファ。いかんな」
 不意にバラズに声をかけられて、私はドキリとした。
 いつの間にか、盤の上ではバラズの王手が成立していた。バラズは、にこりとする。
「そんな、自分の首を絞めるような打ち方をしてはいかんな。誰の得にもならんよ」
「は、はい」
 バラズは、将棋の話をしているのだろうか。それとも、いつの間にか、私の心を読み取られたのだろうか。好々爺然とした彼の表情からは、一向にわかりそうもない。
「まあ、お前も気苦労が多いのだろう。そうそう、わしが将棋を教えている乙女に影響されたわけではないが、星の女神の神殿にでも行ってきたらどうかな? お前は固い頭をしとるから、遊女を加護する女神と思っているかもしれないが、それだけの女神様ではないのだぞ。第一、お前ところのシャルル殿下の青の旗も、あの女神からとっているのだろうが」
「は、はあ、いえ、そういうわけでは」
 バラズは、にこりとした。
「春は、彼女の季節だ。随分と世情が荒れているが、今年こそよい春になるといいのう」
 バラズは、そういって窓の外を見た。
 バラズの言うとおり、今年の春こそよい春になってくれないかと、私は願うばかりだった。



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