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※注!この小説には、暗殺編のネタバレとなっています。蜘蛛と酔猫とも多少関連はありますが、読まなくても読めるようになっています。


物憂げな春の日に・前

 その日は、暖かな春風がゆるやかに吹いていた。
 ああ、もう春になってしまったのだ。と、私は嘆息をついた。そう、もう春になってしまったのだ。いつの間にか、もうそれほど時が経ってしまった。
 その時の流れの早さに、私は軽い絶望すら覚えていた。
 その日、街は穏やかだった。ここしばらく、”小競り合い”があったもので、私自身も落ち着かなかったが、しばらくは、平穏が続きそうだ。といっても、その平穏は見せかけにすぎないだろうが。
 しかし、珍しく私が外出して、バラズの屋敷を訪れたのは、その陽気と穏やかさに誘われてのことだった。春の到来に絶望しながら、私にもまだ春の到来を喜ぶ気持ちが残っていたということだろう。
 バラズ殿は、年齢を理由に早々に宮仕えをやめてしまい、今は平穏な隠居暮らしをしている。彼は、将棋(シャトランジ)の名人として、城下に名を知られており、今でもその腕は落ちていない。
 そして、もともと私の上司でもあった。人柄もよく、信頼のできる男でもあり、穏やかで思慮深い。困ったら相談においで、と優しくいわれてもいたし、今までも何度か相談にのってもらったことがあった。もちろん、将棋を指しながらであるが。
 何よりも、彼とは話していて落ち着く。このところ、ずっととあることから気が滅入っていた私は、この物憂げな春に、幾分かの救いを求めて、彼の元を訪れたということだった。
 その日も、私は、将棋を指南してもらうという口実のもと、彼の屋敷を訪れ、客間で盤をはさんで彼と差し向かいになっていた。きっと、彼は私がどんな気持ちで、この屋敷を訪れたか知るまい。私も、そのことを悟られないようにしているのだから。
「良い風だの、カッファ」
 窓から入ってきた春風に、彼はそういってにっと笑った。
「ええ、まったく」
 バラズは、白髪交じりの髭をちょいと人差し指でいじりながら、駒を弄んでいる。どちらかというと小柄な細い初老の彼を、見かけだけで侮ってはいけない。彼はそんな人のよさそうな微笑を浮かべながら、頭の中では先の先まで手を考えつくしている。
 私とて、嗜み程度に勉強はしていたが、正面から彼に勝てるはずもなく、どちらかというと教えてもらうといったほうが近い。
「ほれ、そこが空いておる」
 バラズが急に目を輝かせたと思うと、ふと指で盤を指し示し、そんなことを言う。
「ここにコイツを置くと、王手となる。まだまだ甘いな、カッファ。こういう場合はな……」
 彼は講釈を一通り垂れては、にんまりと微笑む。
「ははは、カッファ、そんなことでは妓楼の女子にも勝てんぞ」
「ぎ、妓楼ですか?」
 少しどきりとしたのは、私に後ろめたい気持ちがあったからだ。しかし、バラズは、そのことには触れずに明るく続けた。
「おお、勘違いされては困る。いい年をして遊びに行っているわけではないぞ」
 バラズは、そう断りをいれた。
「あちらから乞われてな、週に一度ほど、将棋や書などを娘に教えているのだ。特に覚えがよいのが、ただの娼妓ではなくて、女神の加護をうけた乙女でな。少々愛想には欠けるが、器量もよいし、性格も素直な良い娘だ。わしがもう少し若かったら、くどきにかかるところだが、今はただの家庭教師といったところだ。しかし、いつの間にか自分の娘のように思えて、本当にかわいらしい娘だ」
 乙女と呼ばれる娘達のことは、私も一応きいている。我が国でも強く信仰を集めている豊穣の女神は、彼女ら遊び女の神でもある。特にこの国の由緒正しい娼館は、その女神の神殿で教練を受けた美しい妓女を一人以上侍らせておくのが通例となっていた。彼女達は、女神の巫女として儀式の進行を仕切ることもあり、並ならぬ教養を身につけていた。彼女達は、通常の娼婦と違い、そこにいながら、厳密には春を売ることを生業とするわけではないらしい。
「その娘も、数日後の、春の祭りで巡礼にいってしまうというのだから、寂しいものだよ。あれに行ってしまうと、一ヶ月ほど彼女に会えない。年甲斐もなく、気が滅入ってしまうよ」
 そういってバラズは、ふとため息をつき、そして、私の方をじっと見た。
「そういえば、おぬしも不景気な顔をしているな? 何か心配事でもあるのかな?」
「あ、い、いえ、別に」
 バラズは、王の駒を弄びつつ、ふと、思いついたように眉根を寄せた。
「そういえば、おぬしがお世話をしているシャルル=ダ・フール殿下がご病気とか噂できいたぞ? 随分重いのかの?」
「あ、ああ、まあ、その」
 私は、言葉を濁した。
「命に関わるものではございませんが、長い遠征のお疲れが出ましてな。鎧兜一式を神殿に奉納いたしまして、快癒を祈っているところです」
「それは気の毒な。随分激しい戦いであったと聞いている。早く回復されるとよいのだが」
「ええ」
 私はため息をつきながら、殿下のことに思いを馳せた。
 そう、本来は喜ぶべき春の到来を、こんなにも絶望的に思わせているのは、全て殿下のことがあるからだった。


 今、この国は、非常に不安定な状態におかれていた。
 先の王、セジェシス陛下の失踪されたことが、この国にとって大きな混乱を招く原因となっていたのだ。
 陛下は、世間的には崩御されたとされているが、実際は失踪である。セジェシス陛下は、親征中にふらりといなくなってしまった。戦場でいなくなったのだから、死んだと考えるのが通常だが、私はあのお方の気質を良く知っているから、多分失踪で間違いないのだと考えている。
 もともと、セジェシス陛下は、王になるにはあまりにも自由なお方だった。二十年近く宰相ハビアスにより玉座に縛り付けられていたあのお方が、自由を求めてはばたいてしまうのは、仕方のないことだったとすら思える。よく我慢したほうだ。
 そもそも、一部隊の隊長を務めていた彼を見出したのは、あの宰相ハビアスだった。ハビアスは、前王朝に重臣として仕えていたが、その時の王朝は腐敗しきっていた。内乱もあちらこちらで起きていたし、王は酒色に溺れて政治を省みなかった。
 だが、ハビアスは、あくまで権謀術数に優れた参謀であり、裏で糸を引くことしかできない男でもあった。自分が表舞台に立つ器にないことは、重々理解していたということのようだ。
 そんなハビアスが、見出したのが、セジェシス陛下だった。ハビアスは、セジェシスの人柄に心酔し、そして、この男は使えると見たらしかった。そうして、ハビアス主導の下、陛下による王権の簒奪が行われた。
 一応、その経緯は比較的平和的に行われた。その代わり、セジェシス陛下は、王族や時の豪族の娘達との結婚を余儀なくされたし、前王朝の王族達を外戚や養子として迎える必要もあった。
 そうして、本来どこの出身なのかわからない、身寄りもいなかったセジェシス陛下には、たくさんの家族ができたということだった。
 そんな彼が、突然、失踪した。しかも、まだ若かった為に、陛下は後継者の指名を行っていなかった。なにせ、陛下は正妻すら、決めていなかったのだ。
 次期国王をどうするか、で、重臣たちは荒れに荒れ、王妃達は、自分こそが正室だと言い張った。
 結局、ハビアスを中心に、陛下がいたころ、暫定的に振られた王位継承順位の通り、貞淑でセジェシス陛下がもっとも正室のように扱っていた王妃の息子で、陛下にとっては次男にあたるラハッド王子を国王とすることで内定した。
 だが、ここで思わぬことに、ラハッド王子が暗殺されてしまったのだった。
 ここにおいて、王位をめぐっての闘争は、泥沼の様相を呈していた。
 そして、その闘争に私自身も巻き込まれることになった。

 私が、セジェシス陛下の長子である、シャルル=ダ・フール王子の後見人を勤めていたからだ。



 シャルル=ダ・フール殿下は、セジェシス陛下が、まだ王になる前に、サーラという女性との間に生まれた王子だった。サーラ様は、とても冷静で賢い女性だった。そして、切れ長の三白眼が印象的な美女でもあった。だが、彼女は、その聡明さゆえにハビアスから疎まれることになった。二人は、結局、彼によって引き裂かれた。
 陛下は、サーラさまのことを深く愛していらっしゃったが、自分を王へとのし上げてくれるハビアスの言葉をむげにすることもできなかった。その後、サーラ様は身篭っていた子ともども行方不明になった。
 陛下は国王になった後、ひっそりとサーラ様と子供の行方を捜させた。サーラ様は見つからなかったが、子供は、街の路地裏で物乞いをしているところを保護された。
 それがシャルル=ダ・フール殿下。
 もちろん、彼の出自を疑う声がなかったわけではない。疑っても当然だろう。殿下は、身分の証明になるものをほとんどもっていなかったし、第一、仮にも王子である彼が、街中で他人から恵みをうけて生き延びていたなど、褒められたことでもなかった。だが、この一件については、ほかならぬ父であるセジェシス陛下が認知されたので、仕方なくみなは引き下がった。しかし、そのような経緯と母の身分の低さゆえ、殿下は王位継承争いから外されていた。
 理不尽なことではあるが、それで、彼の身は安泰となるはずだった。
 しかし、仮にも彼は長子であり、陛下がサーラ様を愛していたことは、他の王妃にも伝わっていた。厳密には、陛下の最愛の女性は、ずっとサーラ様だった。そのことが周囲の王妃の嫉妬心を買ったのは、想像に難くない。
 殿下は、あまり父王に似ていらっしゃらなかった。似ているのは、癖の強い髪の毛と背が高いことぐらいで、三白眼の目などはむしろ母のサーラ様に似ていた。しかし、人格は、お子様のうちで、もっとも父王に似ており、そのことは陛下自身も認めるほどだった。そして、セジェシス陛下は、常々、自分がいなくなった後は、あいつでないと治まらないだろう、と口癖のように周囲に漏らしていた。
 それらが特に王妃の一人であるサッピア王妃の嫉妬心を買い、何度も暗殺されそうになったことと、母に似た外見がハビアスに疎まれたことがあり、結局のところ、殿下は幼少期の多くを私と共に外征地で過ごした。
 殿下の窮状をひそやかに懸念した陛下は、殿下に師をつけられ、殿下に剣を覚えさせ、生き延びる方法を覚えさせた。
 殿下自身も、元々たくましい子供ではあったので、その辺の対策を自分でするようになった。
 たとえば、殿下は、宮殿にいるときから、仮面をつけているか、兜をかぶっていることが多かった。殿下は、幼いころから将軍の扱いだったので、兜をかぶることは許されていたが、仮面や布で顔をおおい隠すのは、本来なら許されないことではあった。
 しかし、顔に醜い傷があるとか、毒を飲まされたせいで人に見せられない顔になったとか、いろんな噂が出回っていたこともあり、特例としてそれが許されるようにもっていったのは、殿下自身があちらこちらでそう吹聴したからである。
 敵の多い王宮で生き延びる為に、殿下は、陽光の元に姿を晒さないという選択を取った。それは、市井で育った殿下が、宮殿を窮屈に考えている証拠でもあった。
 ともあれ、殿下は王族として存在を示している時に、素顔をさらすことは殆どなかった。そのため、殿下の顔を知らないものも多くいる。
 少年から青年へと育った殿下は、よき将軍でもあった。青い武具を身に纏い、前線で指揮をするときにですら、彼は名も身分も明かさなかったが、それでも、殿下は前線の将兵の精神的支柱になっていた。
 国境を脅かしている隣国リオルダーナへの遠征で、殿下が果たした役割は大きく、殿下が将軍たちの絶大な支持を得たのもそこでのことだ。
 しかし、セジェシス陛下が失踪したことにより、東の戦争は終結した。殿下も東征から解放された。そのことは、本来喜ぶべきことだったのだが――。


 バラズと将棋をさしながら、私はそんなことを考えていた。バラズには、私が雑念をもってここに現れたことは、気づかれているだろう。
 だが、それを指摘せずに、優しく私の相手をしてくれる彼には感謝している。
 春の気配。ああ、もうそれほどに時間が経ってしまったのか。
 あの優しく明るい殿下が、心を閉ざしてしまってから、いったい何ヶ月経ってしまったのだろう。
 ああなるまでに、どうして私は何の手立ても打てなかったのだろうか。
 



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