一覧 戻る 進む


サギッタリウスの夜-28
 
 金星神の第二神殿。
 あの男から指定されたのは、やはり金星を司る女神の神殿だった。その女神は、豊穣と戦と愛を司る女神であり、一方で、時の王朝に王権を授けるものとして、王室からも信仰される女神であり、王国としても特別な神であった。現在のエレ・カーネス朝にしても、先代のセジェシス王が神殿より王権が先の王朝より移譲されたことを、神殿が神託として下したことが大きな意味を持っていた。王宮から程近い場所に大神殿が建っており、あの事件の夜のように、国王や近しい高貴なものが直参して礼拝を行うことも取り立てて珍しくはないのだった。
 しかし、第二神殿と呼ばれるのは、その大神殿より王宮から離れた、旧市街の南方の果てにある古い神殿ばかりが固まっている地区にあった。第二神殿と呼ばれているが、前王朝から存在する古い神殿であり、歴史は大神殿よりも古い。かつて、大神殿を建設するに当たり、ここは王都で二番目の権威ある神殿となされたためだった。
 その神殿だけではなく、この地区には、古い神殿が多かった。第二神殿は今も神官がおり、手入れが行き届いていたが、その周囲の古い神殿の中には、信仰が薄れ、忘れ去られた神もいる。内乱で王都にも戦火が迫ったことから崩壊しているものも多く、もはや、遺跡といったほうがいいほどに荒れ果てた神殿の残骸が、そこにいくつかあるのだった。ここは、古い神殿の墓場のような場所だ。そこで、あの第二神殿だけが荘厳にそびえたち、威厳を保っているが、そこから少しでも外れると、あたりは荒涼とした廃墟が続く。
 第二神殿に近づいてうろうろしていると、相手に見つかってしまうため、彼らは荒れ果てた神殿の合間を縫って移動してきたが、とうとう第二神殿の近くまできて、ザハークはそのうちのひとつに身を隠すことをすすめ、二人はそこに潜伏することにした。
 それは、第二神殿に程近い神殿のひとつであり、第二神殿のほぼ正面にあるため、中の様子すら伺える。
 内乱の戦火を逃れたのか、尖塔が残っているのが印象的だ。神官も参拝者もいないので、もはや忘れ去られた神の神殿なのだろう。すでに天井が落ち、煉瓦作りの壁と尖塔しか残されていないのだが、かすかに残された祭壇の気配が、ここが神聖な場所であったという名残を伝えている。祭壇の間の上に施されているのは、三日月を模したレリーフだった。あちらこちらに、そうした意匠が施されている。興味深いのは、三日月に向かって、月を崇めるかのように見上げる蛇が描かれていることだった。
「月の神殿か、ここ。でも、蛇が使いだなんて初めてきいたな」
 シャーがぽつりとつぶやくと、近くの瓦礫に座って足を組んでいたザハークが笑った。
「ここは、どうやら古い神殿なのだろう。リオルダーナでも、古い月の神の神殿には同じ意匠がある」
「へえ」
「リオルダーナではな、昔、月の女神に恋焦がれた蛇がいたとされている。その身の程知らずな情熱が神に通じたのかどうかはしらぬが、その蛇はその後、地上の王となったのだそうだ。今は、もはやその両方が信仰されていない。忘れ去られた古い神だ。さて、ここの月の神が男神か女神かはわからんが、ここの神もまた、俺の知る月神(げっしん)と同じ境遇にあるらしい」
 ザハークは、そういいながら、矢筒から矢を選び抜き、いくつかある弓を並べていた。
 まだ、夕暮れに差し掛かっているばかりだ。敵との約束は夜半である。少なくとも、交渉は日が落ちてからのつもりなのだろう。
「第二神殿にも、結構神官がいるんだよな。ということは、あいつらがあそこに入り込んでるとは考えにくいね」
 シャーは、落ちた天井と崩れた壁から覗く第二神殿を眺めてみた。平日の昼、しかも、もうすぐ日が暮れようとする時刻だ。参拝するものは少なかったが、神官たちが神殿の入り口を頻繁に出入りしていた。参道には篝火を支える為の台が置かれており、夜もそれで道は明るく照らされるだろう。そして、その隣にあるこの月の神殿もまた、その篝火の光の影響を受けるのだと思われた。
「もちろんだ。さすがにあそこを襲うと大事になる。他の場所に潜んでいるだろう」
「ああ、そうだろうね。でも、ここには廃神殿も多いからな。潜伏する場所は山ほどあるんだ」
 シャーは、途方にくれたように言ったが、ザハークは冷静だ。
「さあ、どうかな。相変わらず、こんな場所を選択したということは、相手には狙撃手がいるということだ。ということは、潜伏する場所も案外見当はつくものだぞ」
 ザハークは、隠すそぶりもなくはっきりといった。
「それは知ってるよ。オレも接触したからさ」
 そうか、とザハークは答えた。
「エルナトという男でな。この地域には土地勘がある。弓の腕もまあいい方だ。土地勘があるので、アイツなら、この神殿にも通じているだろう。そして、奴は、弓矢の腕はいいが、接近戦ではさほど脅威ではない。自分でもそれはわかっているだろうから、奴が攻撃するとしたら、また狙撃をするはずだ」
「なるほどね」
「俺がもし狙撃するなら、あの神殿だな」
 そういってザハークが示したのは、彼らのいる神殿の向かいにある廃墟だった。第二神殿との距離も近く、尖塔が残されている。さらに、神殿の裏手に位置しており、この建物より保存状態が良く、屋根がある。
「金星の女神の神殿は、金星が見える位置に天窓があけられているときいた。とすれば、天窓は神殿のあのあたりにあるはずで、あの塔からなら狙うこともできるだろう。前と同じ状況だな」
 ザハークは、もはや、自分も前の事件にかかわったことを想起させる口ぶりになっていた。シャーもそのことには気づいてはいるが、それ以上は追及しなかった。彼がサギッタリウスであることは、もはや明白だ。ザハーク自身も、そのことをシャーに感づかれていることに気づいているのだろう。
 しかし、シャーは、一度彼を信用すると決めた。毒食らわば皿まで、とは言わないが、今更、彼が何者であろうとも、この決断を翻すことはできない。
 第一、ここは月の神殿だ。王都南方の尖塔のある月の神殿、ということは、そもそも、サギッタリウスが彼を呼び出すつもりだったのは、この神殿なのだ。そして、ザハークの落ち着きぶりをみれば、彼がこの神殿に以前も立ち寄ったことがあるのだろう、とも予想できた。というより、ザハークは、ここに潜伏していたことがあるのかもしれない。どこからともなく、彼は、道具箱のようなものや、油壺のようなものを持ち出してきていて、何か細工を始めていた。布を矢に巻きつけ、壺の油を塗ってみたり、乾かしてみたりしている。それらの小道具は、彼がここにあらかじめ保管していたもののように思われた。
「ラティーナちゃんもあそこにいるってことでいいんだよな?」
 先ほど、ここに来るまでに、彼らは通行人に聞き込みもしている。そして、馬に乗った一団が、神殿のほうに走っていったという情報を掴んでいた。
「しかし、なんで今更ラティーナちゃんを?」
「今朝、小僧がエルナトに接触した時に、エルナトはあの娘のことに気づいただろう。奴があの娘のこと、そして、お前のことを協力者に話したのだと思うぞ。それで、奴は娘とお前について感づいたというわけだ。あとは、小僧が尾行されたのか、それとも俺が尾行されたのかはわからんが、あの酒場に潜伏しているのを突き止められたというわけだな」
「蛇王さんが尾行されたって?」
 とたずねてみると、彼は苦笑した。
「まあ、色々あって、さる仕事を下りることになったのだ。となると、まあ、口封じに狙われるのも、またお約束でな。返り討ちにしてきたのだが、下っ端ではどうにもならんので、とうとう名のある奴がでてきたというところか? 奴らは、素人ではないだろう。かねてより間諜や暗殺に従事していた者たちか、なにか……」
「ああ、そうだよ、多分」
「奴らは、そもそも、俺を消したがっていたが、それはエルナトに対しても同じでな。しかし、エルナトは、俺と違ってまだ仕事を下りてはおらんのだ。使えるだけ使ってから消すつもりなのだろう。そして、消す口実も奴らは欲しがっている」
「口実だって?」
 シャーは、眉根をひそめた。
「ただ殺したのでは、かえって妙な噂が立っては困るだろう。今までの一連の事件は、流れ者が単独で暴走したように見せておきたいのだろうからな」
「まさか、ラティーナちゃんを誘拐した罪状でアイツを消すつもりってことかい?」
 シャーは、やや前のめりになりつつ尋ねた。
「それも最終手段として使えるだろうが、あえてあの娘を餌にするようなことをしたのだ。ついでに何かかかれば面白いだろう。まさか、ホンボシが来るとは思っておるまいだろうが、こんな事態だ。本人が来なくても、誰か信用の出来る腕利きを頼み、それがやってくることにはなるだろう。奴らはそれ一人でも消せれば良い程度に思っているのだろうな。そして、その殺人の実行犯として奴を殺した、とすれば、誰もとがめだてできまい。だから、呼び出す相手は、当の本人でなくとも、将軍の一人でもいいし、信頼の置ける部下でもいい。そして、小僧……」
 ザハークは、細工をしていた手を止め、シャーの方をまっすぐに見た。
「奴らは別に、消す相手が貴様でもいいのだ」
 シャーは、黙り込んだ。ザハークは、そんな彼を見て、笑いながら立ち上がる。
「まあ、そんな顔をするな。連中の思惑がわかっているのだ。だったら、それに引っかかってやることはないだろう。それに、連中は俺たちがここに来ていることに気づいていない。しかし、われわれは奴らがあそこにいるのを知っている。ということは、俺たちが圧倒的に有利なのだ」
 ぽん、と、ザハークは陽気にシャーの肩をたたく。そして、彼に細工済みの弓矢を渡した。
「ソレを貸してやろう。外すなよ?」
「え? どうすんのさ、蛇王さん」
 唐突にそんなことをいわれて、シャーは戸惑うが、ザハークはにんまりと笑った。
「先手必勝は兵法の基本だ。こっちから仕掛けてやる!」
「そりゃいいけど、蛇王さんじゃなくて、オレが矢を射るの?」
 ザハークがどんな作戦を考えているのか理解できず、シャーは困惑気味だ。
「特訓の成果を見せてくれるのではないのか。まあ、任せておけ」
 にやっと笑って、ザハークは片目を閉じた。


 尖塔の窓からは、隣の星の女神の神殿が良く見える。神官たちは、こちらに目を向けるでもなく、淡々と日常的な動作を繰り返していた。
 日没が近づいてきているせいか、空は暗くなりつつあった。大神殿にはすでに燭台に火がともされており、祭壇の間は薄明るい。ここにも、あの大神殿と同じく、金星の上る方角に天窓がおおきくあけられていた。
 エルナトは、弓を軽く構えて一度軽く狙いをつけ、それから、ため息をついてそれを戻した。少し神経質になっているのか、どうも落ち着かない。
「おい、本当にヤツはここに来るんだろうな」
 エルナトは、ぶっきらぼうに彼にきいた。クロウマと呼ばれていた男は、相変らず素顔を彼らに見せることはなく、常に黒い頭巾を巻き、顔を半分以上隠している。彼が、例の事件後、依頼主とエルナトやサギッタリウスの間の連絡役を担っていた男であり、そして、エルナトに情報を与え続けていた男でもあった。
 年齢不詳のクロウマは、意外に涼やかな目元をしていたが、それがかえってどこかしら不穏に思えた。
「来るだろう。あの男は、女を見殺しにするほど冷淡ではないと聞いている」
「本人が来るのか?」
「さあ、本人でなければ腹心の部下が来るだろう」
 クロウマは、くすりと笑ったようだった。
「本人であろうとなかろうと、どちらにしろ、射抜ければお前には大手柄だ」
「気にいらねえ」
 エルナトは、そう吐き捨てた。
「その女はどうしてるんだ? いやに静かだな。交渉前に殺したんじゃ、いざって時に人質にもなりゃしねえぞ」
「気の強い娘で散々騒がれて困っていたので、眠り薬を飲んでもらったまでだ。よく眠っている。まだ、殺すには早い。あの娘はよい交渉材料だからな」
「へえ、わかってるなら世話ねえよ。でも、本当に気にいらねえな」
「何がだ」
 エルナトは、クロウマをにらみつけつつ続けた。
「大体、あの女の話をしたところで、どうして急に俺に協力するつもりになったんだ。あの女を餌に、今度こそ標的を連れてきてやるといって、今更あの女をさらうなんて」
「あの娘は、あの男と直接話が出来る数少ない人間の一人。最初に標的にした後、複数人の男が護衛についていた。あの三白眼の男は、正体こそ明らかにされていないが、間違いなく宰相とつながりがある狗だ。あの娘にはそれだけの価値があり、そして、我々に彼女を拉致する機会があったということ」
「しかし、何故今更?」
 エルナトがそう食い下がると、クロウマは首を振った。
「もう、いよいよ時間がない。お前はあの三白眼の男に見つかっている。あの男は、必ず将軍の誰かに連絡を取り、お前を探し出す。そうなる前に勝負を決める必要があるからだ」
 彼は、どうやら微笑んだようだった。
「あのお方はとても寛大だ。お前にももう一度機会をくれてやろうと、私に協力するようにおっしゃった。裏切り者のサギッタリウスと違い、私はお前の協力者だ。余計なことは考えずとも良い」
「ちっ、まあいいさ」
 エルナトは、不安を払拭するように首を振った。
「そういえば、そのサギッタリウスはどうした?」
「さて、例の男と一緒にいたらしいが、何を考えているのやら。ただ、あの男が宿を引き払っていることは確認済みだ。王都を立ち去るつもりなのか、或いは……」
「あの男に協力するってことはねえのか?」
「結局は、サギッタリウスとあの男は敵同士だ。手を組むとは考えられない」
「どうだか、敵の敵は友っていうじゃねえか」
「もし、敵対するつもりなら、裏切り者のあの男をお前が始末すればいいだけのことだろう」
 エルナトは、舌打ちする。
「今の今まであの男を始末できなかったてめえが、何をのんきな……」
 と、そこまで口にした時、風を切る鋭い音がした。はっと、エルナトが身構えると、彼が潜んでいた窓の天井に矢が刺さっていた。エルナトは、ばっと起き上がる。
「な、何だ!」
 外を覗こうとするが、追い討ちとばかり窓を狙って矢が次々に射込まれてきた。
「裏に回れ!」
 クロウマがすばやく階下の部下に命令を下す。
「サギッタリウスか?」
 混乱気味のエルナトがそうつぶやいた瞬間、窓から真っ赤なものが飛び込んできた。火矢だと認識した時には、それはすでに室内に飛び込んでいた。油を仕込んであったのか、朽ち果てかけつつも残っていた敷物に炎が燃え広がる。
「畜生! あの野郎!」
 エルナトは、慌てて火を踏み消した。窓から外を見るが、人の姿は見えない。クロウマの部下達が、ばたばたと外に出てきたが、辺りを見回すばかりだ。と、再び火矢が、あざ笑うかのように別の場所から何本も射ち込まれ、石畳の上で炎を散らす。
 不意に、階下でどたんばたんという物音がし、焦げ臭いにおいと煙が上がった。クロウマは、すでに塔を降りたのか、あたりに姿を見ない。エルナトも慌てて階下へと後を追った。
 塔の下には、かつて祭壇が置かれていたのだろう大広間が広がっていた。さきほど射ち込まれた火矢のせいか、あたりは煙がくすぶっており、日没の時間とあいまって非常に視界が悪かった。
「窓からやられた! 気をつけろ、近くにいるぞ!」
 矢に右腕を射抜かれた男が、腕をおさえながらそう叫ぶ。
 クロウマがここに連れ込んでいる部下は、精鋭だがその数は彼を入れて六人だった。大広間で薬で眠らせたラティーナについているのが一人、外に二人が出ていて、クロウマをのぞけば、あと二人が神殿の中にいる。
 火矢を浴びせかけてきたのは、間違いなくサギッタリウスの仕業だ。というのは、エルナト以外も全員が察知していただろう。それだけに、彼らの対応は後手に回っていた。
 なにせ、相手は百発百中のサギッタリウスだ。彼が姿を見せずに狙撃してきているとすれば、これほど恐ろしいことはないのである。
 と、ふと、裏手の窓からもうもうと黒い煙が入り込んできた。どうやら、裏で火を起こしているらしい。
「裏だ、裏に回れ!」
 クロウマの指示で、外にいた二人のうち一人が神殿の裏に回った。裏では、どこから持ち込んだのか、枯れ草に油を撒いて火をつけた形跡がある。
「くそっ! 誰が!」
 と、火を消そうと近づいた瞬間、背後から何者かの気配がした。
「きっ、貴さ……!」
 黒い大きな影を目の端に捉え、男は小刀を抜こうとしたが、いきなり首に腕を絡められ、そのまま締め上げられて思わず小刀を取り落とす。男の失神を確認して、彼はそのまま腕を放し、男を地面に落とした。
「おい、どうした!」
 もう一人が、異変を感じて走りより、彼に気づいて剣を抜く。
 その瞬間、ざっと空気を切り裂いて、彼の肩を掠めるようにして飛んできた矢が、男の右肩を射抜いた。そのスキを見て、のけぞった男の襟をすかさず掴んだ彼は、そのまま男に蹴りを食らわして気絶させてしまった。
「おー、上等上等。なかなかやるではないか」
 ザハークは、ちらりと背後を見てにやりとした。そこには、弓を構えたシャーが立っている。シャーは、ふう、と額の汗をぬぐう。
「ったく、のんきなこと言ってくれちゃって。オレは、アンタと違って、実戦でコイツ使うの得意じゃないんだぜ。まったく、火矢だかなんだか使わせてさ」
「ははー、俺が煙を焚くまでの時間稼ぎにはなっただろうが。ま、免許皆伝とはいわんが、上出来上出来」
 ザハークは、上機嫌そうにそういう。
「これだけ煙を出したから、中はちょうどよく視界も悪くなっていることだろう。さて、二手に別れて入るぞ」
「しかし、ちょっとやりすぎじゃねえか。あんまり燃やすと、下手すると隣の神殿で騒ぎになるぜ」
「安心しろ、もう燃えるものもないからそろそろ消える。それに俺はな、どこかの誰かと違って、やる時はとことん派手にやる主義なのだ。騒ぎは大きい方が楽しいぞ」
 いつの間にか、夜が迫っていた。西の空に、細い月がこうこうと輝いている。
  

一覧 戻る 進む