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エルリーク暗殺指令-43


 いつの間にかとっぷりと日が暮れている。窓から見える外の景色は、すでに暗くなっていた。
「それじゃ、俺、今日は帰るわ」
 ゼダは身支度を整えて、シーリーンにそういった。
 相変わらず、いつもよりは元気のない様子のゼダではあるが、それでもいくらかは明るい様子を見せている。
 ここのところ、出歩いて遊ぶこともなく、シーリーンのいる楼閣になんとなく引きこもっていたゼダだが、それでも、そろそろ外出する元気がでてきたようだった。
「そろそろ戻らないと、ザフのやつが心配するしさ」
「そうですわね」
 シーリーンはゼダの支度を手伝いつつ、そんな彼にちょっとほっとしていた。普段はあまり落ち込むということは少ないゼダなので、元気がないと彼女も気がめいってしまう。いつもはゼダが彼女を元気づけてくれる側なのだった。
「ザフといや、ここんとこ、ザフのやつ、顔を出さないんだよな。一体どこにいったんだか」
 ゼダは首を傾げつつ、
「シーリーン、お前は何か聞いていないか?」
「いえ」
 シーリーンはやや慌てて首を振る。
(本当は、ゼダ様のなくしものを探しに行かれているんだけれど……、口止めされているから)
 ゼダがなくしものをしてきたことを、ザフは何も言われなくても気づいていたようだ。幼いころから一緒にいるザフには、ゼダがどれだけあれを大切にしていたかもしっているし、それであるからこそ大切にしまっていたこともわかっている。
 最近、それを敢えて持ち出したことを気にもしていたから、何も言わずになくして帰ってきたことには違和感を覚えているのだろう。
 ザフは運河のある河岸地区にいっているのだろうと、予想できた。
「まあいいや。俺が戻ったら、アイツも戻ってくるだろうしさ」
 ゼダが履物をはいて立ち去ろうとしたところで、入口のほうから顔見知りの男が入ってきた。
「坊ちゃん、まだここにいらっしゃったので。どこかおでかけですか?」
「おう、そうだけど」
 やや年配の男だが、彼もゼダの使用人の一人だ。
「あ、でも、ほかのところに遊びに行くわけじゃないから。いったん帰ろうと思ってさ」
「そうだったんですか」
 男はちょっと安堵した様子でため息をつく。
「いや、今夜のところは、とりあえずここにお泊りになったほうがようございますぜ。もしお出かけなら、止めようと思ってきたんです」
「なんでだよ?」
 ゼダは目を瞬かせる。
「いや、それが街の様子がどうも変なんで」
「変って何が?」
 男は少し困惑しつつ答えた。
「河岸のあたりの地区が封鎖されちまってるらしくて。それで、ザフも戻ってこないんですよ」
 ゼダははっとして顔を上げる。
「河岸? 運河のあたりってことか?」
「はい。将軍の命令だとかなんとかで、兵士がいっぱいで通れないんですよ」
「まだ王都だって政情不安だからなあ。今までだってあったじゃねえか。急に封鎖されるの。なんとかって将軍たちが遠征中で、警戒してるんだろ」
「へえ、そうなんですが。でも、なんだかそれがいつもより変でねえ」
「変って何がだよ?」
「いえ、その」
 ゼダの勢いに気おされつつ、男はつづけた。
「どうも、封鎖されてるのは河岸だけなんで。しかも、ほかの地区の警備の兵隊たちは何も聞いていないみたいでね。河岸の周辺はファザナー将軍の支配下にあるんでしょう? あの将軍の直属の命令か何かじゃねえかっていうんですが、詳しい情報がなにもないらしくて、ほかの兵士たちも殺気立っていましてね。今夜はちょっとしたことでも、あらぬ疑いをかけられかねません。だから、坊ちゃんは外に出ずにここに……」
「ファザナー将軍」
 そう呟いてゼダはしばらく何か考えていたが、ふと思い立ったように顔を上げて靴をぬぐと駆け出した。
「あ、ゼダ様!」
「坊ちゃん!」
 シーリーンと男の制止の声を振りほどくようにして、ゼダは窓から外に出た。そのまま屋根伝いに隣の高い楼閣の屋根にのぼる。
 そこからは、王都が一望できるのだ。
 ゼダは運河のある方角に目をやる。暗くなった空の下、夕暮れとは違う赤い光がぼんやりと空を不気味に染めている。
 ファザナー将軍。
 ゼダは、あのファザナーの若旦那と呼ばれていた、赤毛の男のことを思い出していた。
「いったい、何が起こってるんだ」
 ゼダは不安げにそうつぶやき、眉根を寄せた。
 
 *

(なんなんだ、これ)
 地区をふさぐように、道に兵士たちが立っている。
 ほんの先ほど、シャーがリーフィと別れた時までは、こんな風ではなかった。しかし、今では運河のある河岸の地区の大通りが一通り封鎖されている。
 小さな路地裏からならもしかしたら脱出できるかもしれないが、見つかるとただではすまないし、向こうでもそれくらいの抜け道把握しているだろうから、どこにどう見張りを忍ばせているかもわからない。
 封鎖を行っているのは、明らかにアイード=ファザナーの正規軍だ。それなりの規模で行われていることは明白だった。
 それまでは、メイシア=ローゼマリーを探して、街中を駆けずり回っていたシャーだった。いつまでもメイシアは見つからない上、目撃したものもいない。気ばかりが焦ったシャーは、手がかりのなさに、河岸の外にいるのではないかと探す場所を広げてみようとしたところで、この事態に出くわしていたのだ。
 アイードの正規軍。しかもこの規模の動員。
 これは明らかにアイードの命令がなければできないことだ。
(アイツ、一体何考えて……)
 シャーはアイードに対する不信感が沸き上がるのを抑えきれない。
 このところの彼の不穏な言動、謎めいた経歴。
 それでも、アイードは、今まではシャーには忠実に仕えてくれていたのではなかったか。しかし、一旦芽生えた不信感は、どんどん大きくなるばかりだ。そこにきて、この事態。
「だめだだめだ! 今夜は誰も通すなと将軍に命令されているんだ」
 なにやら揉める声が聞こえて、シャーはそっとそちらに目を向ける。
 河岸から別の地区に抜ける大通りで、兵士たちと押し問答している若い男がいた。
「いきなり何の理由でだよ? 昼間はそんなことなかったじゃないか」
「不穏分子が河岸に潜入しているんだよ。だから、封鎖しろって命令がでているんだ。気の毒だが、今日は通れないぜ」
「野宿しろっていうのかよ!」
「あー、希望すれば宿はあっせんするぞ。費用だってこっちでもってやれって言われてんだ」
 兵士の一人がそういうと、もう一人が言った。
「うちの大将は、なんせ慈悲深いことで有名だからな。その辺の配慮はあるぜ。ほら、宿代とっとけ」
 そういって金を手渡される。男はまだ文句を言いたそうであったが、それ以上揉めると得策ではないと悟ったと見えて、諦めて踵を返してこちらに向かって歩いてきた。
(やっぱり、アイードの命令だ。……不穏分子? 海賊が入り込んでいるとかそういうことか。しかし、なんで今更。摘発するのに、ここまで大がかりにする必要はあるか。しかも、何故今夜……)
 男は歩いてくる。シャーはその男を何気なくみていたが、ふと彼と目があった。
「あ、お前は!」
 相手の方が先に気がついて、過敏に反応する。
 ちょっと不良っぽさはあるがすっきりとした二枚目の青年。見覚えはある。
 そう反応されて、シャーは目を瞬かせた。
「なんだ、ネズミんとこの腰巾着か」
 そこにいるのはゼダの従者のザフだった。
「今日は主人は来てないのかい? っていうか、アンタ一人で足止めくらってるんだから来てないか」
 ザフは露骨に嫌な顔をする。
 若干過保護気味のザフにとって、得体の知れないシャーはゼダの友人としては胡散臭すぎて不適格だ。ゼダはなにかと彼と遊びに行きたがるが、ザフに黙ってこっそり遊びに行ってしまうことも多く、シャーに関して好印象を持っているはずもない。
「坊ちゃんだけでなく、あんたまでここにいるとはな。いったい、なんなんだ」
「なんなんだってそれはこっちの台詞」
 シャーはそういいつつ、思い出したように付け加えた。
「おっと、勘違いしてもらっちゃ困るぜ。ここのところ、オレはあのネズミのお坊ちゃんとは顔合わせてないんだよ。オレだって忙しいから。つるんでるんじゃなくて、何か共通の気になることでもあるんだろ?」
 シャーは、ザフからの視線をさらっとかわして肩をすくめる。
「それより、坊ちゃんは元気なのかよ。なんか様子変だったけど」
 表向き、ゼダには比較的冷淡な態度を取りがちなシャーだが、それでもこのところの彼の様子がなんとなくおかしいのは知っているし、それとなくは気にかけてはいた。どうやら、アイード絡みなのも予測していたが、シャーも忙しい上余裕がなかったので、気が回っていなかったのも確かだ。
「坊ちゃんは……」
 ザフは少し言いよどんだが、シャーも何らかの事情を知っているようなので話すことに決めたらしい。
「ここには、俺は探し物に来たんだ」
「探し物?」
 ザフは首にかけていた鎖を外すと、その先にぶら下がっていたものを指示した。
「これと同じ意匠のある留め具を、坊ちゃんがこのあたりで落としてきたはずなんだ」
 シャーがのぞき込むと、親指の先ほどの貨幣のような丸い銀色の金属で、そこに果物籠の意匠がある。どこかで、見たことがある気がした。
「あんた、何か知らないか?」
「いや、……見たことある気がするけど、ピンとこないな」
 シャーは顎に手をやりつつ、
「これは?」
「これは、緋色のダルドロスのものなんだ」
 シャーはふと顔を上げる。ザフはうなずいた。
「坊ちゃんの様子がおかしくなったのは、あの人がここにきているっていう噂が出てからだった。坊ちゃんは、昔からずっとあの人のことを尊敬していたから」
「ああ、その話は聞いたよ。昔助けてもらったとかいう。だけど、その、留め金とかいうのは知らないな」
「このところ、その留め金を付けて外出するようになったんだ。坊ちゃんは、あのひとに別れ際に留め金をもらっていてな。すごくきれいな宝玉のついたもので、それはそれは大切にしていた。普段から使っているといたむからって、大切にしまい込んでいたんだが、それを何故かつけて外出するようになったんだ。それで不審に思っていたら、急に元気がなくなって、留め金がなくなっていた。どうやら落としてきたみたいだった」
 ザフはつづけた。
「坊ちゃんは、ここにきているあの人は本物じゃないと言っていた。それで、突き止めてやるんだって言っていた。河岸でも、誰かに会っていたようだったけれど、それが原因かなと思っていたんだ。それで、留め金を探しつつ、坊ちゃんが誰と会っていたのか調べていたんだ」
「誰と……」
 シャーに心当たりがあるのは、一人の男だけだが、アイードはその後も得に何も言っていなかった。二人の間に何があったのかは、シャーは知らない。
「しかし、これがダルドロスの紋章だっていってたよな。っていうことは、お前も?」
 シャーがそう尋ねると、ザフはうなずいた。
「そうだ。坊ちゃんだけじゃない、俺もあの人に会っているんだ」
 ザフは言った。
「だから、俺も会えば、本物かどうかたぶんわかる」
 ザフはそれをもらった時のことを簡単にシャーに話した。
 
 *
 
 主人の手元で、きらきらと宝石が日の光をあびて光っている。
「ありがとうございます。大切にします」
 小さな主人が熱い視線を向けている。その視線の先の男に、彼もまた目を向けていた。
 ――いいな、坊ちゃんは。
 ザフは、大人たちに紛れながら主人とその男が別れをかわすのを見ていた。
 小さな主人の手の中には、その男が先ほどまで派手な羽根つき帽子につけていたマント留めがある。果物籠の意匠のある宝石のついたそれは、緋色のダルドロスの紋章だ。
 緋色のダルドロスは、彼にとっても船を助けてくれた英雄だった。目の前で颯爽と現れて敵を倒した手並みをみて、彼だって心が熱くなっていた。
 けれど。
(いつも、坊ちゃんだけ、いいな)
 彼はいつでも主人の近くにいた。
 同じ年頃の子供。主人は小柄だから自分より年下にいつも見えたけれど、年はそんなに変わらない。
 けれど、飴をもらえるのはいつも主人だった。隣にいても使用人の彼は何ももらえなかった。
(羨ましいな。坊ちゃんは)
 本当は羨んだりしてはいけない。自分は使用人の子で、坊ちゃんは坊ちゃんだった。飴をもらえるのは、お坊ちゃんだけなのだ。
 そんな彼の胸中を主人のゼダが知っていたかどうかはわからない。そんな時、ゼダは後でこっそりとザフのところにきてはこういって笑いかけた。
「ザフ、一緒に食べよう」
 ゼダは飴を必ず分けてくれる子供だった。それは救いではあった。けれど、彼から欲しがるのはいけないことだった。
 だから、こんな風に羨んでいるという感情を持つことを、ザフは恥じていた。ゼダもそれを知っているのか、大げさに喜んだりすることのない子だったが、今日は違った。
 ゼダは手放しでその男にあこがれていた。憧れの男から宝物をもらった彼は、ザフに気を遣う余裕すらなかったのだ。
(坊ちゃんだけじゃなくて、おれだってダルドロスのことが好きなのに)
 伊達男で強く優しいダルドロスに惹かれるのは、同じ年ごろの少年のザフだって同じだった。けれど、声をかけてもらえるのは、やはり坊ちゃんのゼダだけだった。自分は、その他大勢の中の一人にすぎない。仕方がない。自分は使用人の子で、何一つ、自慢できるものをもっていない普通の子供だ。
 ザフは特別な宝物を憧れの男から貰っている主人に、嫉妬に似た気持ちを抱いていた。
 ふと、一瞬、顔を鮮やかな柄のスカーフで覆っていたダルドロスが彼のほうを見た気がした。どきりとしたが、すぐにゼダに視線を戻したので、きっと何か別に気になることでもあったのだろう。
 けれど、ザフはその視線に何かとがめられた気がした。
 羨んではいけないことを羨んだことを、見透かされた気がして、胸の鼓動が早くなってしまった。
 だから、ザフはそれを契機にこの場を離れることにした。
 これ以上ここにいると、この心のうちを誰かに悟られてしまいそうだ。ザフはゼダのお守りだけしていればいいわけではなく、言われている仕事があればしなければならなかった。力仕事をすれば、このもやもやした気持ちも忘れられる。
 だったら、仕事があるのは今日は好都合だった。そんな風に考えた。

 ザフは船倉から重い荷物を運び出し、荷物の数を数えていた。
 ほかに大人もいたが、大体運び終えてしまったので、あとは数を確認しておくようにザフにいいおくと、別の仕事にとりかかっていた。
「えーと、これで確かに全部だから……」
 ザフは両手を使って計算しつつ、目の前の荷物とにらめっこしていた。
「よう」
 不意に後ろから声をかけられた。
 少しどきりとしたが、その時はほかの使用人だと思っていた。
「仕事熱心だな、お前。感心だなあ」
 その声は、聴きなれた大人たちのものではなかった。誰の声かわかって、ザフは慌てて振り返った。
 そこには、先ほど主人達と別れたばかりの伊達男が立っていた。
 ひょろっと背が高く、派手で洒落た服を着こなして、相変わらず顔と髪の毛を布で隠し、綺麗な羽のついた帽子を斜めにかぶっていた。
 腰にはきらめく宝玉で飾られた新月刀。ひらめく東洋風の帯。西洋風の意匠の装飾品。
 緋色のダルドロスだ。
 それに気づくとザフは思わず固まってしまった。
「あ、あの」
 黙っていてはいけない。ようやく声を絞り出す。
「おれに、なにか? 坊ちゃんなら、向こうに」
 思わずおずおずとそう告げると、ダルドロスは軽く笑った様子で言った。
「俺はお前に用事があってきたんだよ」
 そういうと、彼は苦笑した気配があった。
「俺としたことがだめだなあ。お前に見られてたの、すっかり忘れていたよ」
「え?」
「お前だって見てただろ。俺が帽子飛ばしたとき、俺の顔、いや”髪”をさ」
 そう言われて、ザフはぎくりとした。
 確かに彼も見たのだった。ゼダがダルドロスと話をしているとき、ザフは遠巻きに彼らの姿を見ていた。ゼダのお目付け役であるというのを言い訳にして、本当はどんな話をするのか気になっていた。
 その時に、ダルドロスは突風で帽子と頭巾を飛ばしてしまった。慌てて彼は帽子を捕まえてかぶっていたけれど、その時に空に広がる彼の長髪を見た。顔の詳細は見えなかったが、彼の”髪”は、それでも、彼を特定できるだけの要素ではあったのだ。
「あのネズミのボーヤに口封じしたなら、お前にもしなきゃなって思い出してね」
 そういってダート=ダルドロスは懐から革袋を取り出し、中身を取り出した。
「あのボーヤにあげたのは、あれしかなくてな。同じのじゃないけど」
 といって彼が手のひらの上にのせて差し出したのが、貨幣のような大きさのものだった。それに、果物籠のあの意匠が施してある。
「これは、なんてーか、俺のところの党員証みたいなもん。だけど、せっかく作ったのに、うちのやつらときたら、身元が割れるのが嫌であまり歓迎されなくてさあ。で、余ってて困ってるから、お前に引き取ってもらおうと思ってね。指輪にも首飾りにも留め金にでもできる。一応、銀製なんでそこそこの価値はあると思うんだが」
 そこまで言われて、ザフはあることに思い至った。
 あの時、ダルドロスは自分の顔を見た。ということは、ダルドロスは彼の心の内を呼んだのかもしれない。ゼダのことをうらやましいと思ってしまった自分のことを。
 そう気づくと、ザフは急に情けなくなってうつむいてしまった。
「あ、あれ? 要らなかったか? そ、そうだよな、こんなダサイの、いらねってか」
 急にダルドロスが焦ったように言い訳する。
「す、すまねえな。押し売りみたいになってしまって」
「ち、違います。おれ、ごめんなさい」
 ザフはそう謝って、唇をかんだ。
「おれ、坊ちゃんのことをうらやましいって。おれもほしいな、って思った。そんなこと思っちゃダメなのに。顔に出てしまった。それで。あなたに、気を遣わせたんです」
 ザフは頭を下げた。
「ごめんなさい。そんなの、使用人のおれが望んじゃいけないのに」
 ん、とダルドロスは小首をかしげた。
「なんだ、そういうことか」
 ダルドロスはため息をついた。
「そういうことなら遠慮するなよ。俺はお前に気をつかってきたってわけじゃないから。それに、使用人の子とか主人の子とか関係ねえよ。ほしいものはみんなほしいし、いらねえものはみんないらねえって。その感情にかわりはないだろ?」
「でも……」
 ザフは半べそをかいていた。情けなくて、恥ずかしくて涙があふれそうだった。
「そんな顔をしなくていいんだよ。ま、俺もその気持ちはわかるしな」
「え?」
 そんなことを言い出したので、ザフはきょとんとしてしまった。
「俺は、ガキのころから要領が悪かったからさ」
 ダルドロスは言った。
「ガキの頃、俺といとこ……ってほど近い関係でもないな、まあ親戚だよ。その親戚の子と俺が一緒にいた。俺のほうが本家に近かったけど、あっちのが周りのお偉方のオッサンたちにかわいがられていてね。俺は訳ありだったから、連中はそいつのほうにあとを継がせたいとかあったんだろうよ。周りの大人たちは、俺とそいつに区別をつけた。とにかく、一緒に遊びに行くと、俺だけが、いつも飴玉をもらえなかった。俺はあいつがうらやましくてね、でも、うらやましいなんて感情を出すのは恥だと思っていた。でも、俺は大人になったら、全員に飴玉を配る大人になろうと思ったもんだよ」
 だけど、とダルドロスは言った。
「それはそれとしてさ、俺たちがその時感じたその感情って、別に間違いじゃないと思うんだよな。自分がいじましくって、情けなくなるけど、それが普通の感覚なんだ、きっと。いっただろう。ほしいものはほしいって、人間は思ってしまうんだ。だからさ、お前もそんなに気にすることはないんだよ。それだけそんな風に感じちゃうのは、今まで我慢してきたってことだろうし」
 そういってダルドロスはザフの手をとって、それを手渡した。
「でも、だめです。おれは受け取れません。坊ちゃんに悪い」
 そういうと、ダルドロスは微笑んだ気配があった。
「お前の主人は、そんなことでお前をとがめだてるほど、狭量な男じゃないと思うけどな。でも、秘密にしたかったらしていてもいいさ」
 ただ、と彼は告げた。
「もし、お前にこれが必要なくなったのなら、それはお前が大人になったってことだ。その時はこれを売ってしまっても捨ててしまってもいい。でも、もし、今のお前に必要なのだとしたら、これは持って行ったほうがいい。きっとお前は今からもずっと我慢していくんだろうから、一度くらい報われた思い出があるほうがいいんだよ」
 そういって、ダルドロスはザフの頭をなでやった。
「あのネズミのボーヤ、意外と気が強いからさあ。結構無茶をするぜ。お前、これからも主人を守ってやれよ。じゃあな」
 そういって彼は振り返りざまに手を振って、去っていく。
「あの」
 ザフがいいかけると、彼が顔半分だけ振り返る。
「ありがとう、ございました」
 ザフは赤面しながら礼を言う。
「俺も、これ、大切にしますから」
「はは、大げさだな。そんな大したもんじゃねえって」
 緋色のダルドロスは苦笑して、軽く指をそろえて手を振った。
「まあ、それに値打ちが出るまで、気長にもっててくれよ」
 
 *

「俺は坊ちゃんほど、顔をはっきり見たわけじゃないんだ。坊ちゃんも約束をまもって、俺にもダルドロスの顔のことは教えてくれなかったから。でも……」
 とザフは言った。
「俺も坊ちゃんも、今噂されているダルドロスが本物か偽物かはすぐにわかると思う」
「お前のとこの坊ちゃんは、ダルドロスに会ったのか?」
 シャーがそう尋ねると、ザフはうつむいた。
「それはわからないんだ。ただ、坊ちゃんが何度か同じ男と河岸で会っているらしいっていうのは、後々俺がここで聞き込みしてわかった。それが、ファザナー将軍だって噂されている若旦那って呼ばれている男だってことも」
 ザフは眉根を寄せた。
「だけど、ダルドロスは本当にいい男なんだ。坊ちゃんを傷つけるようなことを、言うはずもない。大切にしていた留め金をなくしても平気なんて、どう考えてもおかしい。もし、ファザナー将軍に何度か会っていたのが本当なら、その男がダルドロスであるはずがない」
 そういいながらも、ザフはやや不安げに続けた。
「でも、ファザナー将軍は、噂によると、その、ジートリュー将軍の一族なんだよな。だったら、坊ちゃんがその人に話しかけたのは……」
「待てよ」
 シャーは一度会話を止める。
「お前、今、ジートリュー一族がどうとか。なんなんだ? ジートリュー一門とダルドロスとどう関係があるんだよ?」
「ああ、それは……」
 といいかけて、ザフは少し困った様子だったが、ため息をついていった。
「もう、でも、本物のダルドロスは死んでるんだ。坊ちゃんにいわれていろいろ俺だって調べたことがある。生存を示すことはなにもなかった。だから、今更のことなんだけど……」
 ザフはそう断ってからつづけた。
「髪なんだ」
「髪?」
 シャーが目を瞬かせる。
「ジートリュー将軍の一族って、あの髪の色なんだろう? 俺はファザナー将軍に会ったことがないのでわからないけど、もしかして、その人も同じ髪の色をしているのかなと思ったんだ。ダルドロスは、髪の色が特殊なんだ。見ればわかる」
 ザフはそう言い切ってつづけた。
「あの時、俺が見たダルドロスもそうだったよ。突風に帽子を吹き飛ばされて、ついでに頭巾が外れて」
 ザフはその時の光景を思い出しているかのように、一言ずつ区切りながら告げた。
「長い髪が、その、空に”燃え上がる”ように広がって……」
「燃え上がる?」
 シャーが反芻したとき、不意に向こうの方で大きな音が鳴った。
 何かが弾けたような音だ。見れば向こうのほうから煙が上がりはじめていた。
「なんだ?」
 ザフは不審そうに眉根を寄せる。
 シャーは、その煙の上がる場所の位置を確認していたが、ふと何に気付いたのか、険しい顔になった。
「まさか……」
 シャーは、思わず腰の剣の柄を握る。
「話につきあわせて悪かったな」
 シャーはザフにそういいながら、すでに駆け出していた。
「ネズミの坊ちゃんにヨロシク言っといてくれ」
「あ、おい!」
 ザフは止めにかかったが、シャーはすでにザフを置いて路地の向こう側へと消えていた。


 道は封鎖されてはいるが、路上に兵士はほとんどいない。
 彼らが集まっているのは、あくまで河岸のある地区から外に出る路地だけだ。
 煙があがっているのに、兵士たちはそこには注意をむけようとしていない。いや、視線は向けているが、決して持ち場を離れようとはしなかった。
(あいつ、何故……)
 ゼダやザフの話をきいて、シャーにはある種の憤りが沸いていた。
 シャーには、それについての確信はない。
 ただ、ゼダやザフの純粋な憧れだけは痛いほどわかった。シャーの予想通りだとすれば、あの男は、それをまっすぐに向けられたはずなのだ。特にゼダからは。
 それに対して、何故彼はゼダを傷つけるような返答をしたのだろう。
 それほどまでにきらびやかな感情を向けられながら、どうしてこんな行動を。
(いったい、何を考えていやがる! 自分が何やってるのかわかっているのか、アイツ)
 シャーはまっすぐに煙の上がる方向へと足を進める。
 申し合わせたかのように、誰も外に出ていない。シャーはその中をただひたすら走っていった。
 炎が上がっている方向には、あのアイードの別荘があるのだ。
 そこに行けばある一定の答えが出るはずだった。その問いに対する答えを、シャーは内心知りたくないと思った。
 
 ――お前は、本当にオレを裏切ったのか?


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