エルリーク暗殺指令-42
「くそっ、まかれた!」
キアンは珍しく感情的に吐き捨てていた。
主君のギライヴァー=エーヴィルが、清楚な雰囲気の美人と歩き始めたのまではわかった。が、その後、彼はうまく回り道をして迂回していく彼を追いかけていたのもつかの間、何度か角を曲がった後、急に彼らの姿が見えなくなったのだ。
その後、本格的に道に迷ってしまい、ぐるぐると同じ道を何度かたどった挙句に、最初にギライヴァーと別れた場所に戻ってきたキアンであった。
(殿下は、私を何だと思っているのか)
イライラしつつも、あれにのせられるのは逆に不本意である。キアンは表向き冷静さを取り戻すことにした。
ギライヴァーは戻ってくるから待てとも言っていた。ということは、ここには戻ってはくるつもりなのだろう。
はぐれた以上、主君の言いつけを守るしかない。まあ、ああ見えて一応筋を通すこともないでもないのだ。
仕方なく、キアンは、ひとまず、近くの建物の壁に寄りかかって待つことにした。
この道の往来は少なく、河岸の中でもあまり治安のよい場所とも言い難い。ただ、キアンのような武官風の身なりの人間には早々簡単には絡んでこないだろう。
それよりも、どちらかというと、ここが七部将の一人、アイード=ファザナー将軍の影響力の高い土地だということのほうが、キアンには気がかりだった。
ギライヴァー=エーヴィルとファザナー将軍とは特に敵対しているわけでもない。
当主がシャルル=ダ・フールの支持を行っているとはいえ、本家のジートリュー家ほどに政治色は出さないところもあり、今の当主のアイードはとにかく穏やかな人格で知られている。彼は政治的には敵対している勢力の政治家や武官に対しても礼儀正しく接していた。
(確かに、殿下の言う通り、ファザナー家で恐ろしいのは”奥様”のほうだとは思うのだが)
奥様とは、今でも実権を握っているといわれている、ファザナー家に嫁いだジートリュー家の赤毛の姫であり、彼女のほうが脅威なのだ。ジートリュー家出身の彼女がギライヴァーに良い印象を抱いているはずはないだろう。
(まあ、アイードという人物自体は、それほど曲者にも思えなかったのだが)
ギライヴァーはキアンには詳しいことを教えてくれないが、朝待ち合わせしていた男が、アイード=ファザナーなのだろう。伊達男といってもいい洒落もの風の装いの割りに覇気の感じられない赤毛の男。
キアンは後ろに控えていたので、ギライヴァーがアイードと何を話していたのかは詳しくは知らない。ただ、リリエスから渡された薬瓶を彼に渡したのには違いない。
(殿下は、あの将軍を唆して、何かなされるつもりなのに何を一人で遊んでいるのだろう)
キアンはそんなことを考えてため息を深々とついた。
(今夜は色々と予定が入っていて、あの方も忙しいはずなのだが)
ふと、人の気配がして反射的にそちらに目をやった。なんとなく見覚えのある少女が、袋を手に歩いている。
「えへへ、どうしてもお菓子買いたかったんだけど、リーフィさんに寄り道をつき合わせるの申し訳ないもんねー」
彼女はそういって、袋からお菓子を一つつまんで口に運んでいた。
どうやら、先ほどギライヴァーが話しかけていた二人の娘の一人らしい。
言い訳しつつ歩いている様は、単に無邪気な少女といった様子だった。
(殿下は、あのようなごく一般人の娘たちと何を私に隠れて話す必要があるのだろう)
キアンはそんな風に疑問に思う。
(確かに、もう一人の娘の方は、まれにみる美人ではあったが遊び人の殿下には、いくらでも美人の相手などいるのにな)
もしや、一般人に無差別に手を出すようになっているのだろうか。それはそれでちょっと面倒なことになりそう。主君を全く信用していないキアンはそんなことを考えてしまう。
(一度、しかるべき人にも進言してもらわなければな)
そんな頭の痛いことを考えている間に、娘が歩いていく。
「隊長と会うかもしれないし、手土産も欲しいもんね。会えなければ食べるだけだし」
メイシア=ローゼマリーは、そんな風に言い訳しつつも宿への道を急いでいた。流石の彼女も、リーフィの言うことを聞かずに寄り道したことはちょっとは後ろめたいのだ。
早く宿につかなければ。そう思って帰路を急ぐ。
てくてく歩いていくと、通り道の壁に、どうやら身分が高い人らしい美男子がたたずんでいた。誰か人を待っているようだ。その様子に、メイシアは先程出会った男のことを思い出した。
(でも、さっきの人、何者だったんだろう。リーフィさんの知り合いみたいだったけど。普通の人じゃなさそうだったけどなあ)
リーフィも不思議なところのある人物だが、その知り合いだけあってか、大変独特の雰囲気に満ちた人物だった。 貴人風の装いで実際に身分が高いのだろうとすぐわかるのだが、どこか崩れた気配が強く、なんとなく悪の香りもする。
ただ、なんとなくではあるが、自分やリーフィに対して悪意はないようではあった。きわめて紳士的に対応してきた彼だが、リーフィが目当てだとしたらもっと自分にはそっけなくてもよいようなもの。第一、メイシアはどこの馬の骨ともわからぬような元奴隷娘。明らかに身分の低い彼女は、ジャッキールと一緒にいたときでも彼のそばにいた者たちから、ぞんざいな扱いを受けたことも珍しくない。
先ほどの男が、明らかに身分の高い人物なのに、彼女に対して紳士的なのは、何もリーフィの気を引くためというわけでもなさそうだった。彼の態度はごくごく自然なものなのだ。
(ああいう人、リーフィさんとどんな話をするんだろうなあ)
メイシアがそんなことを考えていると、不意に声がかけられた。
「おや、よかった。こんなところにいたんだ」
聞き覚えがあるような声だ。メイシアは、思わず警戒してすっと後退しつつ相手を見上げた。
「あんた、さっきの!」
「おっと、先ほどはうちの相棒が悪いことしたね」
そこにいるのは短髪の優男。あの大男の傭兵の相方の傭兵で、確かフルドとか呼ばれていた。物腰の柔らかそうなふるまいをしているが、彼こそ、下心が見え見えだ。
「あたし、今日は忙しいんだから。構っている暇はないの」
メイシアは話を聞かずに突っぱねて通り過ぎようとしたが、
「まあまあ、そういわないで。君に話を持ってきたんだよ。ファザナーの若旦那からさ……」
といわれて、メイシアはふと立ち止まる。
ファザナーの若旦那、それはつまりアイードのことだ。
今日は確かに連絡をくれるとはいっていた。シャーは今夜は会うのは難しいかもしれないといっていたが、アイードの性格を考えると、返答がどちらにしても連絡をくれるだろう。
しかし。
「なんで、アイードさんがアンタになんか連絡を託すわけ?」
さすがのメイシアも、彼のような男を無条件で信用するはずもない。
「あたしは忙しいんだから。あまりしつこいと、痛い目見るわよ」
「はは、まあ、そういうのも無理はないけどさ」
とりあわずに足を進めようとしたメイシアに、フルドは軽薄な調子でつけくわえた。
「エーリッヒと会う予定なんだろう。なんせ、エーリッヒは、”あなたの騎士”様なんだもんな」
メイシアは思わず足を止めて、振り返る。
「手紙にそう書いてくれるんだよな、エーリッヒのやつ」
フルドはにんまり笑う。メイシアは驚いて目を丸くした。
「なんで、それ知ってるの?」
「いやあ、俺じゃ信用されないからって教えてもらったのさ」
と、フルドは優しげに笑う。
「エーリッヒもファザナーの旦那も、何かと忙しいみたいだからさあ。直接伝えに行けないみたいだから、俺がってことになって」
メイシアは少し考えつつ、疑いの目を向ける。
「でも、そんな話になるの? アンタはリリエスにやとわれてたんでしょ」
「ファザナーの若旦那は話が分かるって噂だったからさあ。それなりの金もくれるし、乗り換えたってわけさ」
フルドは目を細めてにやりとした。
「リリエスについていっても、使いつぶされるのが関の山だしなあ」
メイシアは黙っている。
「俺は相方のワズンと違って、エーリッヒに対して別にこだわりはないしさあ。あーいうやつだけど、君を助けるとかいいとこあるんだなーとは思ってるし、まあ実力はあるもんな」
メイシアはまだ疑ってはいたが、少し考えた後、
「少しだけなら話を聞いてあげるけど、変なところ連れ込もうとしたらぶっ飛ばすからね。あと、用が終わるとすぐ帰るんだから!」
「おや、怖いねえ」
フルドはややおどけたように肩をすくめると、彼女に微笑みかけた。
「それじゃあ、ちょっと場所を変えよう。ここは治安が悪そうだからさ」
そういって、フルドは彼女に先導して歩き始めた。
ふと、路地の壁によりかかる一人の青年が見えた。先ほどもいた青年だ。
メイシアがちらりと彼を見やると、青年のほうもメイシアのほうを一瞬見ていた。その彼がどこかしら不審そうに、フルドのほうに視線を一度やったようだった。
*
水路に夕陽が差し掛かる。
もう夕暮れ時だ。
空が茜色に変わるころ、シャーは、アイードに言われた通りにメイシアを迎えに行っていた。
ジャッキールやザハークとは一通り話をしたこともあり、なんとなく安心して気が抜けてしまった気もするが、本番は今夜の夜の会議なのだ。
(でも、結局、ジャッキールにはどういう策があるんだろうなあ)
その辺のことは、ジャッキールは詳しくは話さなかった。ただ、いろいろ知っている情報を教えてはくれていた。
ここ数日、彼は過去ラゲイラ卿と関係があった貴族や武官などの動向を探っていたようである。それに対して得た情報などを簡単に教えてくれていた。
何かと不穏な動きをする河岸の船乗りたちのことは、アイードに任せたほうがいいとも言ってはいた。シャーとしても、海賊やら船乗りは完全に畑違いでよく知らない。ジャッキールの言う通りではある。
(確かに、アイツ、何でもないような顔をしてきっちりと防衛線張ってるみたいだ)
今シャーが通っている道も人気がないようにみえるが、実はアイードの息のかかった連中があちらこちらで見張っているようだ。確かに視線を感じる。
ただ、シャーに関しては見守られているに近いものがある。どこまで事情を教えているかはしらないが、シャーはアイードの味方ということになっているようで、敵視はされていないようだ。
しかし、この情報網。自分の部下のみならず、自分の領民といってもよい、管轄区域の住民たちを目立たないようにしながら従えらえる統率力。
今更ながらにシャーは、アイード=ファザナーのことが不気味に思えてきた。
(一体、あいつは何者なんだろう。なぜ、七部将としては、敢えて目立たないようにしているんだ)
そのくせ、何かと挑発的な彼の姿が思い出されると、シャーはなんとなく重たい気持ちになるのだった。
いったい、アイードは自分に何を求めているのだろうか。いったい、何をもって自分に火をつけてみろと言い放ったのだろう。
「しかし、メイシアはまだ宿屋に帰ってないっていうし、だったら、リーフィちゃんの酒場に一緒に行ってるんだろうな」
重い気持ちを振り払うように、シャーはそう呟いた。
今はアイードのことを考えると、余計に気がめいってしまいそうだった。
そう、もうすぐ、メイシアをアイードの屋敷に連れていく指定の時間なのだ。
メイシアが滞在しているという宿屋に行ったが、メイシアは帰っていないようだった。
となると、まだリーフィと遊んでいると考えるのが自然だった。リーフィが酒場まで連れて行ってくれているようなら、シャーとしても安心だ。
そういうこともあって、シャーは河岸のある地域からいきつけのカタスレニアへの道を急いでいたのだが、
「あれ?」
ふと見慣れた姿が道の先の角から現れた。小走りで急いでいる様子だが、ベールからのぞく黒髪やその後ろ姿は間違いなくリーフィだ。
「あれ、リーフィちゃん!」
慌てて声をかけると、リーフィは立ち止まって降りかえり、シャーを見た。
「シャー? こんなところでどうしたの?」
リーフィもやや驚いているようだった。
「いや、リーフィちゃんこそどうしたの? メイシアは?」
シャーは小首をかしげた。
「宿屋にまだ帰ってないっていうから、てっきりリーフィちゃんところにいるんだと思ってさ……。オレ、彼女を迎えに来たんだよ」
「え? まだ宿に帰ってないですって?」
リーフィが心配そうな顔になる。シャーも急に不安になってきた。
「どうしたの?」
「実は、宿の近くで別れたのよ。ここなら一人で大丈夫だっていうから。でも、彼女危なっかしいから、帰っているかを確かめようと思って、用事を済ませてから戻っている途中だったの」
リーフィは眉根を寄せて少しだけ険しい顔にある。
「やっぱり、私が宿屋まで一緒に行けばよかったわ」
「え? それ本当?」
シャーは、思わずさっと青くなる。
「どこ行ったんだろう? 心当たりはある?」
「いいえ。ほかに行くところはないはずだったけれど……。もしかしたら、何か買い物にでかけたんじゃないかしらね」
「それはそうかも。別荘にも来ていないことは確かなんだ。もしそうなら、オレがここまでの道で会っているはずだし」
シャーは少し考えた後、心配そうなリーフィをみやった。あのメイシアなら、たとえ宿に入ったところで、暇になれば出かけてしまっただろうから、リーフィにそれほど大きな過失はないだろう。それでも、リーフィが気に病む気持ちもわかった。
夕陽が街の向こうに沈んでいく。あれが沈んでしまえば、約束の時間が過ぎてしまう。
(アイードは、オレだけでも来いといっていた)
それを思い出しながら、シャーはリーフィの顔を見る。しばらく、考えた後、シャーはにっこりと笑った。
「大丈夫だよ、リーフィちゃん」
シャーは心配そうなリーフィの肩に手を置いた。
「オレがちょっと探してくるよ。アイツの行きそうなところはなんとなくわかるから」
「でも、もう遅くなるわ。私も……」
「大丈夫だって、リーフィちゃんは酒場に戻ってて。後でそっち行くからさ」
そういうとリーフィは、シャーの顔を見やりながら考えてうなずいた。
「わかったわ」
「うん、まあ、お騒がせ娘だからさあ、あのコ。そゆとこ、ジャッキールのダンナに似てるよ。まったく、心配をかけさせるんだから。だから、リーフィちゃんは気にしないで」
シャーはそうおどけつつ、足をすすめかけたが、
「シャー、あのね……」
リーフィが思い出したように言った。
「知っている人に聞いたの。今日はこの周辺、普段と違う乱暴者が集まってるんだって。もしかしたら、アイードさんの別荘の近くでもめ事が起こるかもって」
「ああ、ちょっと不穏なヤカラは見かけたよ」
「だからね、シャーも気を付けて。暗くなるようだったら、危ないかもしれないし」
「ああ、わかったよ。ありがと。リーフィちゃんも気を付けて」
シャーはリーフィに笑いかけると、そのまま、走り出した。
太陽が沈んでいく。
息を切らしながら、シャーは夕暮れの街を走る。
水路の川面に、暮れていく夕陽が差し込んで瞬くのが時折シャーの目に入る。
「あの馬鹿、まったくどこに行っちまったんだよ!」
シャーはそう吐き捨てつつ、暗くなる街の中を駆け出していた。
買い物にいったなどというのんきな理由であればいい。しかし、何故か嫌な予感がする。
そして、同時にシャーの脳裏に、アイードの言葉がよみがえった。
――もし、万一メイシア=ローゼマリーが見つからなかったとしても、定刻には俺の屋敷に絶対にくることです。
この街は、アイードの街だ。すべての情報はあの男の耳に入っているはず。だとしたら、メイシアのことも知っているはずだ。
アイードは、メイシアのことを知っているのか。それとも彼にとっても予想外のことなのか。知っているなら、シャーに知らせに来なかったのはわざとなのか。
(アイツ、いったい、何を考えてやがる!)
*
屋敷のバルコニーから外を眺める。
ここからは、運河や河川が十分に見渡せる。そういう場所につくった、ファザナー家の屋敷。執務室でも何でもない私室。それですら、仕事のためにあつらえられたかのような、この景色だ。
時折、それにうんざりすることもあるが、彼はここから見る景色自体は嫌いではない。
眼下に広がるのは自分の街といっても過言でもない場所。いや、実際のところ、彼はそれを”自分の街”と思ったことはない。そこはファザナー家の街。ファザナーの街であって、自分のものではない。
方向を変えれば見える、あの宮城に住まう王でも、そんな風に考えることがあるのだろうか。と、彼は時折思い浮かべる。
目の前に広がるのは自分の街でなくて、それとも、偉大なる父の街なのだろうか、と。
その男がそこまで感傷的なことを考えるかどうかを、彼は実際に尋ねたことはないし、尋ねる気もないけれど。
キラキラ輝く川面が、茜色に染まって、それからきっと闇の色にうつりかわっていく。その一瞬にだけ、空は不思議な色の移り変わりを示して彩りを描き出し、どこか幻想な特殊な空間を作り出すのだ。
それが人の望郷や感傷、さらには不安までもを掻き立てるのか。
「まったく。夕陽ってやつは毒だねえ」
彼はそうぽつりとつぶやいた。
「おや、何をなさっておいでです? 旦那様」
そう声をかけてきたのは、アイード=ファザナーが私費でこっそりと経営している喫茶店錨亭の従業員であるマディールだった。普段は、彼の屋敷で小間使いをしている。
このところは喫茶店を休みにしているので、彼も本業を務めていた。
長い付き合いのわりに、ちっとも彼を尊敬するそぶりもないマディールだったが、使い勝手が良いものなのか、アイードにはよく使われている。
「いや、いい夕陽だなって思ってね」
アイードはため息をつくようにして、静かに振り返る。
「またずいぶん奇抜な服装ですね」
「え? そうでもないよ。今日は抑えてる」
いきなりそんな風に言われて、アイードは首を振りつつ、
「お前は相変わらず思ったことが口に出るんだよなあ。まあ、俺の前だけにしておけよ」
アイードは苦笑気味にそういった。
確かに、アイードは、またしてもやたらしゃれた服を着ていた。時折、異国の気配を感じさせる服装をしていることがあるので、マディールには奇妙に映るのだ。とはいえ、意外といい具合に着こなしてはいるので、別に違和感はないのだが。そういえば、大事な会議があるとか言っていた。それで一層しゃれた服でもきているのかもしれない。
しかし、少しの伊達男感なら出しておいたほうがいいのかもしれない。マディールからみても、アイードはずいぶん迫力もなければ、赤毛以外は印象も薄い、ちょっと頼りない当主なのだった。奥様が強烈なだけに、そんな風にしていても彼は実に地味なのだ。
「あ、そうそう。何をしているのか、って聞かれてたんだっけ」
マディールはもうそのことには興味はなかったが、アイードのほうがそう話を戻してきた。
「俺はな、この夕暮れの瞬間が好きなんだよ。ちょっと怖くもなるが、不思議な空間に思えるだろう。夜になるとそうでもないのに、なんとなく感傷的な気持ちにさせられるじゃないか」
「それはご自分に酔っているだけなのでは?」
「お前はホント辛辣だなあ」
アイードは苦笑して、ため息をついた。
そんな彼の手には、ガラス製の盃が握られていた。
「おや、お酒ですか。珍しい。会議の前でしょう?」
「そんなに強いものじゃないよ。食前酒みたいなもん。ちょっと景気づけにね」
アイードはそういって微笑む。
「ところで、俺の命令書はちゃんと詰所に届けてくれたのか?」
「もちろん。そんなお使い程度のことなら、ちゃんとこなしますよ」
「そういう意味じゃなくてだな。まあいいや。それはご苦労だったな。ほら、これ、お駄賃だよ」
「それはありがとうございます」
アイードは一応彼をねぎらいつつ、小銭を渡す。
「途中でゼルフィスに会わなかったか?」
「いえ、副官さんには会っていませんね」
「そう、それならよかった。アイツに知られると、ちょいと面倒なことになるからな」
アイードは独り言のようにそういって、身を起こした。彼の腰には、マディールもあまり見たことのない珍しい剣が提げられている。ずいぶん立派なもので、鞘にも飾りがたくさんついていた。
「これからお出かけですか」
「ああ。見送りはいいぜ。適当に行くから」
「それはそれはお気をつけて」
別に見送るつもりもないのだったが、見送りしてくれと言われても面倒。小遣いももらったし、さっさと部屋に戻って休もう、というのが顔に出ているマディールは、そのままあっさり帰ろうとする。
が、珍しく呼び止められた。
「マディール」
その声の調子が、いつもと違うようで、きょとんとしてマディールが立ち止まる。
「なんです?」
「もうちょっと話につきあってくれよ」
アイードが淡白なことを十分に知っている彼を引き留めるのは珍しいことだ。そういう意味でマディールは、少々興味を抱いた。前のめりになって応じる様子の彼をみて、アイードはうなずいた。
「実はさ、今日は面白い男に出会ってな。そいつが来るとは、流石の俺も予想外だったんだけど」
そう前おいて、アイードは言った。
「ずいぶんとやさぐれた男でねえ。でも、なんか気になる男ではあったんだ。多分だけど、あの男はね、子供のころに人生で一番良かった時期があったんだよ。ガキの頃に栄華を極めちまって、だからこそ、今はどうにもならなくなって、やさぐれちまったんじゃないかって、ふと思ったんだ」
アイードはにやりとした。
「でさ、あの男が、何故俺の前に現れたのかがちょっとわかる気がしたんだよ」
アイードは酒を口にすると、杯をながめながら言った。葡萄酒が、夕陽を受けてちらちらと琥珀色に煌くのを見遣りつつ彼は続ける。
「俺もなんとなくその気持ちがわかるからさあ。真昼の太陽が過去にあって、今はただ沈むだけの夕暮れの光景をみるだけ。普通に人生を重ねても、きっと切なくなるだろう。だとしたら、真昼が自分の人生のうんと若いころにあって、早くに黄昏が来てしまうのだとしたら、どうだろうな。残りの人生はずっと夕方なのだとしたら?」
アイードは、優しい表情をマディールに向ける。
「人間は欲張りだから、きっと一度手に入ったものと同じ栄光を求め続けちゃうんだ。二度と手に入らないことがわかっていてもね。それを追い求め続けるのは、結構つらいことなのかもしれないよな」
静かに聞いていたマディールは、そこで不意に肩を竦めた。
「何を言い出すかと思えば、旦那様は相変わらずキザですね。顔に似合いませんよ」
「あ、そういう評価なんだ」
アイードは苦笑いしつつ、
「ま、別にいいんだけどさ」
「ご自分に浸っているから、そういうわけのわからないこと言い出すんですよ。早いこと仕事終わって寝ちまったほうがいいですよ」
「お前、本当に思ったことを口に出すよなあ。本当に、俺の前以外でそれするなよ」
アイードはあきれつつ、本気で心配になって釘をさす。
「じゃあ、俺はでかけるんで。あとはヨロシク」
「了解です。では俺は帰るんで。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
そういうと、マディールは返事もそこそこに出て行ってしまった。
「まったく、もうちょっと話きいてくれてもいいじゃないかなあ」
残されたアイードは、再び盃を傾けつつ夕陽の街を眺め、そんな風に呟いてみる。
夜を運んでくる風が、緩やかに彼の赤い髪をなで始める。太陽は、ほとんど地平線の向こうに消えてしまっている。
「さてと」
アイードは目をすがめた。
「時間切れだな。三白眼のボーヤ」
ことん、と空になった杯をそばにおいて、アイードはぽつりと言った。
「まったく、ヒトが親切心で教えてやったのに。相変わらずいうことを聞かないボウヤだよ。まあ、そういうところが”らしい”のかもしれないが」
アイード=ファザナーは、謎めいた微笑みを浮かべるとふらりと踵を返した。
「さて、そろそろ俺も出かけるか。”時間”だから」
彼は右手で腰の剣ステラ・マリウスの柄をさわりながら歩き始める。
その彼の左手がきらりと赤く光った。
沈む前の一瞬の太陽の残光が、彼の左手の小瓶を射抜いて赤く輝いていた。
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