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エルリーク暗殺指令-38


 住宅街を横目に石畳の道を進むと、ぐるりとそれを一望できる小高い丘に出る。
 高級住宅街に近い道は、整備されていて清潔で歩きやすい。そこでの散歩は確かに優雅といえなくもなかった。
 シャーが悠長に散歩をしていると散々いらだっていることも知らず、ジャッキールはそのあたりを散策していた。

 しかし、悠長な散歩といわれるとジャッキールの方にも言い分はある。
 彼が戒厳下の王都で歩き回るのは、いつでも危険を伴うのだ。ただですら背の高い異国風の美男子……という良い面だけでなく、一般人とは明らかに違う、ただならぬ危険な雰囲気を醸し出している彼はなにかと目立ちやすいのだ。職務質問されようものなら、全力で逃げ切るか、しらを切りとおすかのどちらかをしなければならないのである。今までも、シャーやハダートからもらった書付で公務を装って切り抜けたこともあるが、彼自身も何かと疲れるのでできるだけ目立たないようにコソコソ歩かなければならないのだった。
 そういう意味では、黙ってさえいればザファルバーン人とさほど見分けがつかないザハークの方が隠密行動しやすそうで、彼としては内心羨ましく思っているのだった。
 丘で足を止め、ジャッキールは住宅街を見下ろす。視線の先は高級住宅街にあたり、緑の多い地区でもある。
 本来、よそ者と一般人はまず入り込めない場所だ。
 しかし、彼としては、ここだけは先程のような神経を使わずに歩ける貴重な場所でもあった。ジャッキールがここに平気で入り込めるのは、逆に彼が一般人に見えない異邦人であるからでもある。

 王都は国際色豊かであり、そもそも様々な民族が入り混じっていた。しかし、やはりジャッキールのような容貌の戦士は珍しいわけであり、街中で歩いていればまず旅の傭兵として目をつけられる。しかし、この高級住宅街をきちんとした身なりで歩いていると、どこかの貴族に飼われている異国の武官に見え、逆にあまり目立たなくて済むのだった。
 実際、ジャッキールもラゲイラ卿に仕えている時は、この周辺をよく訪れていたため土地勘があった。彼の護衛を務めていたジャッキールは、彼と共に協力者の邸宅を訪れることも多かったのだ。
 その為、堂々としてさえすれば怪しまれなくてすむことをよく知っていた。
 彼のような異国の戦士を雇っているという自体で、雇い主が大物貴族であることも想定される。厄介な揉めごとを避ける為に、むやみに職務質問されることもない。
 あの頃の知人は軒並み逃亡して散り散りになっており、更にあの頃の彼は長髪にしていたので少し風体も違う。その点については注意はしているが、怪しまれている気配はない。
 そんなこともあり、意外と彼はこの周辺では快適に"散歩"が楽しめたのだった。
(旧王朝系貴族の邸宅は、あのあたりに固まっている。セブラン、ミデナス、高位武官のアデノラ。表向き動きはなさそうだが……)
 ジャッキールは手帳を開くと、筆を取り出してなんらかをさらさらと書きつけている。
(何やら兵士らしい男が屋敷の内外でそろそろと動いていたのは、ダインバル卿……。あの男は旧王朝系貴族の大物。暗殺計画の際も、ラゲイラ卿とは密に連絡を取って謀議に関わっていた。一方で、
彼は普段は中立性を強く表面に出している。あの時も、関係が露見しなかったのでおとがめはなかったはず)
 ジャッキールは記憶をたどる。
 あの暗殺未遂事件の後、ラゲイラ卿は逃亡し、彼と関係のある者たちにはそれなりの処罰はされたとは聞いている。ただ、シャルル=ダ・フールも万全の体制ではないこと、首謀者が自分の弟であったこと、計画に深くかかわったラティーナ姫を救わなければならなかったこと、そして血を見ることを嫌った彼自身の性格から、ほとんど粛清らしい粛清はできなかったと聞いている。
 もちろん、政治犯として王都を追放された貴族や武官はいるものの、ラゲイラ卿含め大物は逃げうせて無事だった。
 あのザミル王子がどこまで関係を吐いたのかしらないが、多少関わっていたとしてもギライヴァー=エーヴィル公をはじめとした大物には、確たる証拠がなくては到底手が出せるはずもなく、ギライヴァーも罪に問われることはない。ラゲイラ卿もザミル王子の狭量さを見抜いていたため、肝心な部分では情報を開示していなかった。それなもので、ザミル王子はダインバル卿が例の件に名を連ねていることは知らなかったはずだ。
 そういう意味では、王都で今も権力を持ちながら、不穏分子として活動できるダインバル卿は非常に怪しい人物といえる。
(ダインバル卿がこの件に関わっていることは十分に考えられるが……)
 ジャッキールは、文字を走らせる手を止めた。
(しかし、あの男は”女狐”サッピア王妃とつながっているということを、ラゲイラ卿は見抜いていた。到底信頼できる男ではないと言っていたのだがな)
 ジャッキールはペンを指の間に挟んでまわしながら目を細めた。
(ラゲイラ卿の交友関係か……。俺の知っているのはこのあたりまでだが、あの方のこと、俺にすべてを明らかにしたわけではないだろうな)
 手帳の紙面には、丁寧で美しい文字が等間隔にかかれている。しかし、それをのぞいたところで、意味が分かるものは少ないだろう。それは彼の故国の文字で書かれていた。
 こうしておけば、盗まれても簡単に読まれることがない。それは、彼がラゲイラ卿に仕えたころからの慣習だった。その事を彼に教示したのもラゲイラ卿だった。
 それに彼はふと懐かしさを覚えていた。
 ジャッキールが王都に戻ってきてからそれなりの月日が経っているが、そういえばここにはついぞ近寄らなかった。
「懐かしいものだな」
 彼は筆入れと手帳を直しこむとため息をついた。
 そのまま反射的に、ジャッキールは腰の剣に手をやった。
 普段とは違う感触。しかし、その剣は非常に馴染みが良い。
 今日の彼の手にあるのは、いつもそこにある愛刀フェブリスではなかった。
 今日彼は、フェブリスを背負い、腰に別の剣を提げていたのだ。しかし、それもまた美しい剣だった。
 女神の名を持つ、女性的な優美さを感じさせる美しい魔剣フェブリスと違い、その装飾はどちらかというと男性的な、騎士のような高貴さと無骨さ、幾らかの古めかしさを伴い、一目で業物とわかる迫力を静かにたたえていた。しかし、とっつきにくい高飛車な外見と裏腹に、手にしたときにクセがなく、すんなりと手に馴染む。
 人通りのないことから、そっと鞘ごと手に取って、少し刀身を引き抜く。光を反射しながら、美しい木目のような紋様が姿を現す。
 そのるつぼ鋼の紋様こそ、この剣が不屈の名を持つ折れない剣だともてはやされていた秘密だ。

 その剣の名は、”アダマスパード”といった。
 
 *

「それは、アダマスパードでは?」
 そう尋ねられたときの、ジャッキールはまさに居心地が悪かった。
 忘れもしない。あれは、夕暮れの庭だった。
 春だったのか、花がたくさん咲いていて、どこか甘い香りがしていた。ラゲイラ卿の別荘地でのことだ。
「アダマスパードをジャッキール様がお持ちになったのですか?」
 尋ねてきたのは、ラゲイラ卿に古くから仕えているという老人で、名をラザロという。
 彼自身はただの庭師だといっていたが、別荘地においては彼がほとんど屋敷のすべてを取り仕切っているように見える。
 ラザロは、ジャッキールがラゲイラ卿に拾われて、別荘地に静養したころに面倒を見てくれた男だったが、なんとなく無表情でとっつきにくい男だった。しかも気配を感じさせないところもあり、いきなり背後から声をかけられて肝を冷やしたことも一度や二度ではない。そのあとの様子を見ていると、どうもその反応を面白がっているのでは、と思うこともある。
 早い話、ジャッキールは、この老人が少し苦手なのだった。
 しかし、彼とはまたよく顔を合わせてしまうのだ。彼は、別荘地の屋敷を担当しながらも、時折王都にも庭の手入れという名目で現れる。
 嫌われているのかなと思ったジャッキールは、なるべく彼を避けるように行動したこともあったのだが、行動を読まれているかのように出会ってしまうのだ。
 この日も、夕方に散歩に誰もいない庭にでてみただけなのに、何故か後ろからラザロに声をかけられてしまった。
「御前様がお譲りになったのですか?」
 答えあぐねていると、無表情なままそう尋ねられた。
「あ、ああ、そうなのだ」
 ジャッキールはとりあえずそう答え、それから少し表情を曇らせた。
「ああ、その、やはり、ラザロ殿も、私がこれを持つのは不相応なのではとお感じでは?」
 ジャッキールは思わずそう尋ねたものだ。ラザロが答えないので、ジャッキールは慌てて続けた。
「いや、私も、さすがにこれはどうかと……。素晴らしい剣で、私のようなものからすればこれはまさに喉から手が出るほど欲しかったのも間違いないのではあるのだが……」
 ジャッキールがやたらと遠慮しているのも無理はなかった。
「私も、正直、これはラゲイラ卿にお返ししようかと思っている」
 この剣は、ラゲイラ家にとってはどうやら伝家の宝刀というものらしかったのだ。


「古いと言っても、たかだか百年程度のものですよ。伝統というほどのものではありません」
 たまたま、剣の話が出たときだったと思う。
 ラゲイラ本人はそんなことを言ったものだ。ジャッキールにとっては百年は重い年月だが、文化人のラゲイラにとっては他の骨董品の方が価値があるということのようだ。
「私は武器のことは不案内ですからね。しかし、欲しがる方もいるので、売ってしまっても……と思いまして、出してきたのですが」
 当時のラゲイラ卿には資金が必要だった。
 彼自身は元から裕福だったが、シャルル=ダ・フールへの反逆を決めた為、その準備にあてる資金が必要となったのだ。その準備は当然表にはわからないようにしなければならない。となると、目に見えるところの資産を減らすわけにもいかず、裏で金を工面しなければならない。流石のラゲイラ卿もそこには苦労していた。
 そこで出たのが、名剣アダマスパードを含めた骨董品の売却案だ。
 ラゲイラ卿は文化人であり、書物や芸術品の売却には保護の観点から消極的だったが、武具に関しては大して興味がないらしく、他にもあれこれと売り払っていた。
「私はその手の知識がありません。貴方はどうやら剣を収集していらっしゃるし、目利きでもあると聞きました。今度、是非一度見てはくれませんか。売却の際の価格を参考にしたいのです」
「ば、売却されるのですか。あの剣を」
(勿体ない!)
 ジャッキールは、そんな話をされながらもう少しでそんな言葉が口から出そうになっていた。
(どうせ売るなら、俺に売ってくれないだろうか)
 ラゲイラ卿のいうとおり、ジャッキールは、剣の収集が好きだった。
 彼にとって剣は商売道具であるので、当然質の良いものを求めるのは当然だ。が、それを表向きの理由にして、単に欲しいものを買ったりしている。普段は質素倹約を旨とするジャッキールだったが、剣に関しては商売道具を理由にして金に糸目はつけない主義だった。
 早い話、単に綺麗で良い剣が好き。いってみれば、ただの収集家(マニア)。
 それなもので、アダマスパードの噂は、ジャッキールも早くから聞き及んでいた。
 ラゲイラ卿は、北部の文化圏との交流も深い為、アダマスパードはジャッキールが使っている諸刃の直剣と同じ形をしていると聞いている。当然ジャッキールとしては、手に取って触りたいし、できることなら買い取りたい。
 不屈の剣を意味するアダマスパードは、まさにジャッキール垂涎モノの一品だったのだ。
 しかし、いくら親しいとはいえ居候同然のジャッキールだった。家に伝来するとかいう貴重な剣をべたべたさわりたいので見せてくれともいえない。しかも、アダマスパードは、そもそもが高価なるつぼ鋼で作られていたが、装飾も丁寧なもの。そして、その名に由来してか、一部に金剛石(ダイヤモンド)の粒が埋め込まれており、芸術品や宝飾品としての価値も非常に高いのだった。
 いくら高給取りとはいえ、一介の傭兵である自分がやすやすと払える金額でもないのも確実。ジャッキールとしては、我慢するしかないのである。
(しかし、フェブリスの代わりを探している時に売却の話か。何となく気が塞ぐなあ)
 そのころ、実は、ジャッキールは、ラゲイラの護衛中に魔剣フェブリスに折れる寸前の深い傷をつけてしまったのだった。
 それは不可抗力な部分もあった。
 そもそも、ジャッキールは先の東方遠征に参加した際、フェブリスを一度傷めているのだった。彼自身も瀕死の重傷を負った戦闘で、フェブリスにも深い傷を入れてしまっていた。修復してもらってはいたものの、完全に修復するには時間が必要という話で、ラゲイラに仕えはじめていた彼にはそんな時間がなく、応急処置ですませていた。
 さらに、その時、いきなり複数人から襲われたこともあり、ジャッキールも苦戦を強いられた。
 ジャッキールには剣を振る際にやや強いクセがあった。それは相手が避けづらくなる利点もある一方で、剣に負担を与えやすいらしく、実はジャッキールはその使い方で今まで何本も剣を折ったり曲げたりしているのである。
 彼にしてみれば、それは剣士として恥ずべきことで、普段はなるたけつつしんでいるのだが、それでも興奮状態に置かれたり、咄嗟の際にはどうしても抑えきれないことがある。
 フェブリスも万全の状況であれば、それで折れたりしない。しかし、元から古傷がある状態だったためか、深く傷つけてしまった。
 その場は何とか切り抜けたものの、しばらく使えるような状態でもない。フェブリスは修復する為に、王都郊外のセアドの鍛冶屋ハルミッドのもとに里帰りさせたものの、修復には年単位で時間がかかるといわれてしまった。その間、何とかほかの剣でやりくりしないといけない。
 ジャッキールはそのことで深く深く落ち込んでいたのだった。 
 そんな時に、ラゲイラ卿からそんな話を聞いたものだから、ジャッキールとしては本当に残念な気持ちになってしまった。
 とはいえ、見せてくれるというのなら、売られる前に一度は見ておきたい。
 ジャッキールが引き受けると、ラゲイラはあっさりと彼にアダマスパードを見せてくれた。

 ラゲイラ卿は、私室の一室、価値のある財物を置いている蔵のような場所からそれを出してきた。
 そして、高価な布と質素ながら美しい鞘で包まれたそれを一目見て、ジャッキールはすっかり惚れ込んでしまったのだ。
 宝玉を埋め込んであるのに、貴族趣味的な優美さよりも剛健さを感じる外見。刀身の美しい木目紋様は幾何学的で何度見ても飽きない。手に持った時の心地よい重さ。握った時の感触。そして、包んでいた布を少し引くだけで裂いてしまう切れ味。
 思わずジャッキールは年甲斐もなくはしゃいでしまい、
「本当にこの剣は美しい。このような素晴らしい剣は、またとないものです」
 などといった後、勢いに任せて、るつぼ鋼がどうの、この装飾はどうの、切れ味が……と、きれかれてもいない蘊蓄話を舞い上がって語ってしまったものだった。
「あ、ああ、失礼いたしました。良い剣なので、思わず……」
 ひとしきり説明してしまった後で、我に返って急に恥ずかしくなり、俯き加減にそんな風に言った時、それまでにこにこしながら話を聞いていたラゲイラが頷いた。
「いえ、良いお話でしたよ。この剣はそれほど価値のあるものなのですね。誰かに売ってしまう前に、貴方にお話をお伺いできてよかった。それでは……」
 と彼は、ジャッキールに渡されたそれを、そのまま彼に向けた。
「これは貴方に差し上げましょう」
 ジャッキールは思わずきょとんとした。
「い、いえ、これは、受け取れません。わ、私には不相応です」
「構いませんよ。どのみち、売ってしまうつもりでした。私には、どうにも剣を役立てることはできませんし、でしたら貴方に役立ててもらう方が剣も幸せでしょう」
 うっすらと彼は微笑んだ。
「し、しかし、このような高価なもの……、ラゲイラ卿には十分な給金はいただいてはおりますが、さすがに私には蓄えが……」
「ははは、対価なら要りません。そもそも、貴方は私の身を守る為に、自分の剣を傷つけてしまったのですし、それなら貴方にはちょうど良いはずだ。アダマスパードとは、けして折れない剣という意味です。折れない剣を探している貴方には、ぴったりだと思いませんか」
 ラゲイラは続けていった。
「それは私には不要のものですが、貴方には必要だ。そして、貴方が私に仕えてくれている限り、私はそれを手放したことにはならない。これは、私にとって得な取引です」
 彼はそういって続けた。
「財物で人の心を買うのはたやすいことですが、貴方のような男の心は金ではなかなか買えるものではない。それ相応の価値あるものが必要なのです。だから、遠慮なくお持ちなさい。資金の工面については、別のものを売却すればよいのですからね」

 そういう事情で、アダマスパードはジャッキールのものになったのだった。
 確かにアダマスパードは丈夫で切れ味の良い剣で、装飾品としてでなく実戦にも向いていたが、ジャッキールもさすがに普段使いの剣としては使っていなかった。見る者が見れば、その剣がアダマスパードとわかるものだ。いくら折れないと言われていても、万一壊しでもしたら、という重圧もある。
 後の暗殺未遂事件の際、シャーに剣を叩き折られたジャッキールだったが、もしアダマスパードを最初から使っていれば、そんな失態を演じることもなかった。まあ、それはジャッキールの側も、シャーを少し甘く見た部分もあったのも違いなかったのだが。
 ともあれ、そんなアダマスパードの所持が、おそらく自分のことを快く思っていない様子のラザロにバレたのだ。さすがに後ろめたく思っていたジャッキールは思わず、ラゲイラ卿に返上すると答えたのだったが。
 しかし、ラザロの反応は意外なものだった。
 ラザロは、そう聞いた後、少し首をかしげるようにして言った。
「いえ、それはジャッキール様がお持ちになればよろしい。御前様も一度差し上げたものを返せとはおっしゃらないでしょう」
 予想外のことを言われて、ジャッキールは思わず驚きつつ、
「い、いや、しかし……、ラゲイラ卿の家に伝わる宝剣を私のようなものが……」
「構いませんよ。どうせ、御前様がお亡くなりになっても、どなたも家を継ぎません。家に伝わる財物も、ハゲタカのような遠縁のものに食い荒らされ、略奪される運命だ。それなら、ジャッキール様がお持ちになっていた方が良いのです。私も、貴方に持っていていただけると良いと思います」
 ラザロにそう言われ、ジャッキールは目を瞬かせた。そして、少し考える。
「そのう、……ラザロ殿にこのようなことを尋ねるのも気が引けるのだが」
 しばらく沈黙した後、ジャッキールはそろそろと切り出した。ラザロが無言で彼の方を見やる。
「……その、先ほど、どなたも継ぐものがいないとおっしゃられたが、ラゲイラ卿には、公子様と呼ばれる方、ご子息がいらっしゃられる筈なのでは……」
「お坊ちゃんなら、随分昔にお亡くなりになっております」
 端的な返事がある。
「ああ、やはり……」
 ジャッキールはため息をついた。おおよそ予想はしていた。
 ジャッキールも、”公子様”と言われる人物がいるらしいことを知っていたが、ラゲイラ卿には家族がいる気配など寸分もなかったのだ。そして、誰もその話をしようともしなかった。
「遠くの地で戦死されました。酷い戦場でしてね、ご遺体はおろか遺品の一つすら見つからなかった。その戦場の焼けた土を埋葬いたしました」
 ラザロは静かに報告するようにそう話す。
「それは……お気の毒な」
 ラゲイラに同情して、ジャッキールも沈痛な面持ちになっていた。ラザロはそんな彼を静かに見ていたが、ふと口を開いた。
「ジャッキール様」
 普段とは違う雰囲気の彼に気おされつつ、ジャッキールは彼の方を見た。相変わらず無表情なラザロだが、その彼が少し寂しげに見えていた。
「その剣、アダマスパードは、実は……お坊ちゃんがお持ちになっていたものなのです」
「何?」
 ジャッキールは少しぎょっとして、
「し、しかし、ラザロ殿は先程、ご子息の遺品すら見つからなかったと……」
「お坊ちゃんは御前様と口論の末、屋敷を出ていかれました。その際に、アダマスパードも持ち出していました。しかし、どれほどたったころでしょうか。私宛に、お坊ちゃんからお手紙と荷物が届きました。それがこれでした」
 ラザロは静かに語る。こんな時でも、彼は感情の破片を顔に表さなかった。
「お坊ちゃんは、戦況が悪いことを手紙で伝えていました。いつ死ぬかわからない。だからこそ、この不屈の剣だけは折るわけにはいかない。せめて返したいのだと。お坊ちゃんがお亡くなりになったのは、それからほどなくのことでした」
「ラゲイラ卿はそのことを?」
「私がそれを告げたのは、すべてが落ち着いたからのことです。さすがの旦那様も、今更墓にいれよとはおっしゃられなかった」
「その、私が尋ねるのも僭越なのだが、何故そのように」
 ラザロの行動を怪訝に思いジャッキールは尋ねる。
「その時の御前様に、それをお知らせしても受け入れられないかと思いました。顔にはお出しになりませんが、とても深く悲しまれていたからです。その後も、御前様はこの剣を敢えて見ようとなさりませんでした。屋敷の奥にしまい込んでしまいました。きっと、見たくなかったのでしょう。見れば悲しい思い出を思い出してしまう。売却の話が出たのも、過去のしがらみをとりはらってしまいたかったのでしょう」
 ラザロは頭を下げた。
「ですから、このラザロめは、その剣が貴方の手に渡ってほっとしているのです。もし、本当に売られる事態になっていたら、私が阻止するか、盗み出していたでしょう。ラザロは、ですから、ジャッキール様に感謝しているのですよ。ありがとうございます」
「い、いや、その、礼を言われるようなことは何も……」
 ジャッキールは、慌ててそう言った。
「しかし、そのような剣、なおさら私のようなものが持っていてもよいのだろうか。私は所詮流れ者で、これほどの御恩をいただいて失礼な話だが、……今後もずっとラゲイラ卿の元に仕えられるかどうかわからない。ラザロ殿のご期待にそえられるか、私には自信がない」
「もし、仮に貴方が御前様のもとを離れるのだとしても、それは貴方が持っているべきですよ、ジャッキール様。いえ、貴方しか、その剣をもってはならないのです。けして手放さずに、貴方が持っていてほしい」
「それは、何故」
 強い口調でそう言い切られ、ジャッキールは自然とそう尋ねた。
 庭に夕日が差し込んで茜色が鮮やかだった。
 本当に、よく手入れをされた庭だ。美しく居心地が良くて、時間を忘れてしまう。
 ジャッキールは、薄々、この別荘自体が、大切にされた誰かのために準備された場所であることを感づいていた。
 外国のものも含めた貴重な書籍、美しい庭、簡素な部屋、そして、ラゲイラ卿が雇うにしては数が少ない、古くからいる親切な使用人達。この屋敷は、平和で美しいが、時間が止まっている感じがする。
 ここで静養をしていたことのあるジャッキールは、別の人間がかつて大切にされていた気配を感じていた。しかし、それがだれで、どうなったのかは誰も教えてくれなかったし、尋ねるのがはばかられる雰囲気だった。
 この目の前の老人が、今もこの屋敷の庭を以前と寸分たがわないようにと綺麗に整えていたのは、きっと大切な誰か、おそらくラゲイラ卿の子息の為だったに違いないのだ。
 彼が二度と帰ることがないのがわかった今も、彼は昔のまま手入れを続けている。
 逆光の彼の表情は見えなかった。いや見えたとしても、ジャッキールにその感情を判別できただろうか。
「貴方なら、もしかしたら、御前様を救うことができるのかもしれないと、思ったからです」
 ラザロは、彼にしては遠慮がちに告げた。
「私が?」
 意外なことを言われて、ジャッキールは驚いた。
「ジャッキール様、貴方ならお分かりでしょう? 体の傷は治っても、一度壊れた心はそのまま元には戻らないのです。必ずほころびが残るものだ」
 そう言われてジャッキールは思わず苦笑した。
「そうか。ラザロ殿は、私の過去(こと)もよくご存じなのだな」
「いえ、なんとなく察しがついただけですよ。このラザロも、かつては組織の狗(イヌ)でした。御前様と出会うまで、心といえるものも、自分の意志もなく、光のない闇の中で生きておりました。貴方はもっと高貴なお方だったと思います。しかし、それでもほんの少しだけ、私と貴方は同じ香りがする。ですから、貴方の頭痛の種のことも、なんとなくわかる」
 ラザロは静かにそう告げる。
「御前様は、お坊ちゃんが亡くなられたときに、お心をどこかで落としてきてしまわれた。あの時から、御前様はすっかり人が変わってしまい、好まなかった権謀術数を冷徹に使うようになってしまった。古くからいる使用人には巻き込まれないようにと暇を出すか、別荘地に追いやるかし、身辺には新たに傭兵等を集めて使うようになりました。このラザロめは、御前様に救われた身です。御前様の為ならなんでもする所存ではありますが、それでも、今の御前様のなさることは痛々しくて見ていられないのです。御前様には、どうか、昔のお優しい御前様に戻ってほしいのです。ですが、それは私の力では無理なことなのです」
 ラザロは顔を上げた。
「もし、いつか、あの方を助けられるものがいるとするなら、それは貴方なのかもしれない。だからこそ、アダマスパードは貴方が持っていてほしいのです」
「私が?」
 今まで、この男に自分は嫌われているのだとうっすら考えていたが、それは誤りだったのかもしれない。その眼差しに宿るわずかな感情を、しかし、どうとらえたらよいのだろう。
「しかし、私がラゲイラ卿にしてあげられるのは、その身を敵から守るぐらいのこと。その力はあるものの、他はすべて凡庸といっていい。……いったい、何故私をそのように買っていただけるのか」
「それは……」
 ラザロは少しだけ言いよどむ。彼にしては珍しいことだった。
「それは、貴方、ジャッキール様が……」
 ラザロが言いかけたとき、ふと別の声が割り込んだ。
「おや、ラザロ、こんなところにいたのですか? お前はまだ庭仕事を? もう夕方ですよ」
 声の方に視線を向けると、とうのラゲイラが立っていた。ジャッキールにも気づいたらしく、ラゲイラは愛想笑いを浮かべた。
「おや、貴方もご一緒だったのですか。もう日が暮れましたよ。散策には少し遅い時間です。明日になさる方が良いのでは」
「は、はい。お気遣い痛み入ります」
「急に気温も下がりますからね。ほら、ラザロも庭仕事は終わりにして、屋敷の中に戻りなさい」
「はい、御前様」
 ラザロは何食わぬ顔でそう答えると、先ほど何かをいいかけていた事実がなかったかのように、ふらっと立ち去って行った。
 ジャッキールはその後、ラゲイラと雑談をしたものの、結局、その件に関しての情報は何も得られなかった。
 
 *

 それ以降もラザロとは顔を合わせる機会は何度もあったのだが、あの時彼が何を言おうとしていたのか、聞きそびれてしまった。
 しかし、普段、感情を全くあらわにしない彼の言葉は、ジャッキールには重く残っていた。
 例のシャルル=ダ・フール暗殺未遂事件の際、最終的にジャッキールが持っており、地下水道でシャーと対峙した時に彼の手にあった剣こそ、このアダマスパードだった。
 ラゲイラ卿のもとを去る時に、返却しようとも考えて持ち込んだものだったが、ラザロの言葉が頭をよぎったこと、ラゲイラ卿本人に会うことができなかったこともあり、結局返却できないままになってしまった。
 だが、今ではそれは良いことだったと思う。
 ラザロの言う通り、あの時のラゲイラ卿にこの剣を返しても、きっと受け取ってもらえなかっただろう。
 あの頃は、ラゲイラが病んでいると聞かされてもピンとこなかったジャッキールだったが、今となっては、ラザロの気持ちも理解できた。
 ラザロ達、昔馴染みの使用人を遠ざけ、自分を含めた傭兵で周りを固めていたのは、彼がこれからすることに自分の昔馴染みを巻き込みたくなかったからなのだろう。
 ラゲイラ卿は、ただひた走っている。政権奪取の野望を隠れ蓑に、旧王朝派貴族の復権を掲げながら、多分彼の本当の目的は違うものなのだろう。
 しかし、その向く先は、ただの破滅なのだ。自分すら犠牲にして、何故好んで破滅に向かっているのか。
「あの方と対峙するなら、お前を使うしかないな。アダマスパード」
 ジャッキールはそういうと、刀身を鞘におさめた。


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