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エルリーク暗殺指令-28


 ほののかにお茶の香りが漂う。
 ジャッキールは、まだ膝の上に剣を置いたまま、なんとなく甘い菓子を齧りながら、来客を見ている。
「わー、凄く美味しい」
「そ、それは良かった」
 そう答えると、来客は屈託のない笑顔になる。実年齢よりも随分幼い印象の男だ。かなり大柄だが、意外にも可愛らしいところもある。
(我ながら状況がよくわからなくなってきた)
 ジャッキールは、目の前の状況に頭を抱えそうになっていた。
「ネロ、とかいったな。しかし、良いのかな? こんなところで、茶を飲んでいてはリリエスに叱られるだろう?」
「へへっ、大丈夫。リリエス様にはわからないようにしてあるもん」
 ジャッキールの目の前で、居住まいをきちんと正して嬉しそうにお茶を飲んでいる男。
 褐色の肌に白っぽい髪をした若者で、自ら白銀のネリュームと名乗った人物だ。
 そして、彼がリリエス=フォミカの配下であるところは、ジャッキールもうっすらと覚えていたのだったが。
「でも、元気そうで良かった! 俺、とっても心配してたんだ」
「そ、そうか。それは心配をしてもらって恐縮なことだ」
(何故だ。……どうも、懐かれている気がする)
 リリエスの配下に懐かれることをした覚えはないが、とにかく目の前の青年がどういうわけか見舞いに来ている。しかも、上司であるリリエスに黙ってひっそりと。
 先程。
 ジャッキールが、この白銀のネリュームが窓辺に潜んでいるのを察して、シャーとゼダを退室させたあと、それを指摘したのだが。
「あ、すっごい。ばれちゃったー。あの三白眼の奴かわせたから大丈夫だと思ってたや」
 窓のへりにつかまっていた彼はそういうと、ひょいっとそのまま部屋に入ってきた。
「やっぱ、あんた、凄いんだなあ」
「どうせリリエスの配下なのだろう。俺も用事は早く済ませたい」
「アレ、俺のこと覚えてくれてたの?」
 そう尋ねられて思わず苦笑し、
「いや、一服盛られた後のことはあまり覚えていなくてな。しかし、そういう態度をとりそうな部下を持つ知り合いがヤツしかいないもので……」
「へえ、それでもわかるんだ! 流石だね」
 彼は感心して頷く。
「あ、それじゃ自己紹介しなきゃ。俺はネリューム。ネロって呼んでいいよ。ええっと、ジャッキールさん? エル? じゃなかった、エー、リッヒさん?」
「そんな昔の名前を出さずとも、ジャッキールでいい。そちらの方が呼びやすいだろう?」
 そう答えると、ネリュームは頷く。
「それじゃ、ジャッキールさんって呼ぶね」
 すっとネリュームが手を背中の後ろにやったので、ジャッキールが片膝立てて左手で鞘を払いかけたところで、あのっ、とネリュームが声をかけてきた。
「これ、一応、お見舞いの。あの、俺から!」
 刃物でも出すのかと思いきや、ネリュームが出してきたのは、白の花の咲く一輪の花にリボンで装飾をしたものだった。
 剣を抜きかけていたジャッキールは、思わずそれごと斬りそうになったが、半分抜いたところで思わず手を止める。
「み、見舞い?」
「いやあ、お見舞いに来るのに手ぶらとか駄目でしょ? でも、ほら、俺、リリエス様の部下だしー、だったら、食べ物とかすっごい嫌だと思って……」
 そういいつつ、ネリュームは花を差し出してくる。
「あ、でも、花も毒のあるやつだと嫌かなって思ったんだけど。あ、これ、毒はあるけど、食べなければ大丈夫だからね。きれいだし」
「あ、ああ、それはどうも」
 ジャッキールは反射的にそれを受け取ってしまう。そうすると、白銀のネリュームは、嬉しそうな顔になる。そして、
「あ、じゃあ、俺、これで……」
「ま、待て」
 と帰ってしまいそうになったのだが、ジャッキールも思わず、何も出さないのも何だなと思ってしまい、「その、茶でも飲んでいくか?」などと反射的に言ってしまったので、ここでこのような不思議な光景が繰り広げられてしまったのだ。
 見舞いに来るのも来る方だが、うっかり茶を勧める自分も自分だ。
(まあ良いか。とりあえず害はなさそうだしな)
 ジャッキールは、せっかく高めた気がそがれてしまってため息をつく。
「でも、良かったー。ほら、次会ったら多分また敵同士だからさ。こんな風に会う機会ないなって思ってたんだよね」
 ネリュームは茶を置くと、笑顔で言った。
「もしかして、怒られるかなあって思ったけど、俺、どうしても普段のジャッキールさんと話してみたくてさあ。いや、正気ないときも、すごく強かったしかっこいいなあとは思ったけど、メイシアがジャッキールさんはすごくいいひとだって言ってたから」
「メイシア?」
 ジャッキールは、ふと眉根を寄せた。
「あの娘とかかわりがあったのかな?」
「うん。ジャッキールさんもう知ってると思うけど、リリエス様がメイシアをここに連れてきたから。あの子いい子だよね」
「今どこにいるのかは知っているのか?」
「ううん、それはわかんないよ。あれから会ってない」
 と、ネリュームはそっと声をひそめた。
「あと、これ、秘密だけど、メイシアのことは気をつけてあげたほうがいいから。リリエス様は、ああいう人だろ。だから、今後も何かしら利用しようとすると思うんだ」
「それは忠告痛み入る。しかし、お前は、リリエスの部下なのだろう。俺にそのようなことを言ってもいいのかな?」
 と純粋に疑問に思い尋ねると、彼は笑う。
「俺はそりゃあリリエス様の部下だけど、それはお仕事の話。ジャッキールさんやメイシアとお話したり、仲良くしたいなってのは、あくまで個人的なものだもん。ただ、リリエス様にバレるとそれなりに怒られるんだろうけどねえ」
 軽い調子でそんなことを言う彼には、ややあっけにとられるが、どうやら彼には裏はないようだ。
「あ、これはヒミツだけど、リリエス様も今のところ、メイシアがどこにいるのかは知らないと思う。ただ、リリエス様は、なんだっけ、ザファルバーンの色とりどりの動物団みたいな人達とかともつながってるし油断しない方がいいと思うんだよね。それと、この辺りにまだ潜伏してるかなってことは気づいてる。あの、赤毛のお兄さんがかかわってるかなってこととかも予想してるから」
 小声でそこまでいって、ネリュームはぱっと顔を上げる。
「これは、ジャッキールさんに美味しいお茶いれてもらったから、サービスね」
「それはありがたいな。もう一杯くらい飲んでいくか?」
 と、ジャッキールが言ったところで、ふとネリュームが顔を上げた。向こうから足音がする。
「あっ、三白眼のやつ、戻ってきちゃう?」
「ああ、どうやらそのようだ」
「じゃあ、俺、お暇しないとね。ジャッキールさんは仕事外だっていったら話聞いてくれるけど、あのひと聞いてくれなさそうだもん。結構血の気多いんだよね」
(まあ、それはそうだろうな)
 ジャッキールは口には出さずにそう思いつつ、思わず苦笑する。
 とはいえ、ネリュームの懸念も当たっている。あの三白眼は彼がこんなところで茶を飲んでくつろいでいるとしても、剣を抜いて飛び掛かってきかねないところがある。王族の身分で、命を狙われることもおおかったからだろうか。そのあたりの警戒心は、普段の自分より強い。
「それでは、ややこしくならないうちに帰った方がいいぞ」
「うん。そうするよ、ジャッキールさん」
 ネリュームはそういうと、窓際に慌てて走っていった。
「また、戦場で会ったら戦うかもだけど」
「ああ、もう対峙しなければいいのだがな」
 そういうと、一瞬彼は立ち止って笑顔を向けてくる。
「本当だね。いや、強いから戦うの楽しみだけど、やっぱりできるなら戦わない方がいいなっ。じゃあっ」
 そういうと、彼は窓の外に飛び出した。ジャッキールが窓の外を見やると、二階の窓の下にある窓のひさしに軽くたんと足をかけ、そのまま彼は下りて走っていく。
「ダンナー、持ってきたよー」
 ふとシャーの声が聞こえ、ジャッキールは振り返った。
「あ、ああ、すまなかったな」
「アレ、何。全然寒気してなさそうじゃん」
 部屋に入ってきたシャーはそんなことを言いつつ、黒い上着を弄ぶ。そして、窓際にいる彼を見て小首をかしげた。
「あれ、なんか猫かなんかいた?」
「うーん、猫というか犬というかなんというか……変わった来客だった」
 そういいつつ彼が戻る先に、いつの間にか一輪挿しに白い花が活けてある。
「アレ、その花何だっけ? さっきもあった?」
「夾竹桃だな」
 ジャッキールはこともなげにあいまいに答え、窓を閉める。シャーもそれ以上は追及しなかった。そのまま、上着を受け取るがすぐには羽織らずに首を傾げた。
「ネズミはどうした?」
「あ、いや、なんか急に帰るって。アンタも元気そうだったしって。でも、ちょっと様子が変で……」
 そこまでいったところで、シャーはふと口ごもった。
 そういえば、あの事件以来、ジャッキールと一対一で対面したのは初めてだ。急に色々と話をすることがあったことを思い出し、唐突にシャーは気まずくなる。
 ジャッキールはというと、素知らぬ顔で上着を羽織って、茶器を片付け始めている。
(どうしよう。謝るなら今謝っとかないと……)
 誰かほかの人が来ると、多分素直に謝れない。
 指輪のことで彼やメイシアを巻き込んだことや、この間、うっかりと殺しそうになったことや。
「あの……」
「すまなかったな」
 声をかけた瞬間、ジャッキールの方から、素直に謝罪があってシャーは思わず面食らう。
「どうも随分と心配と迷惑をかけたらしい。特にお前には、心労をかけたようだ。改めてすまなかった」
 ジャッキールはそういって、ふとシャーが呆然としているのを見て苦笑した。
「まあ、そんな面をしていないで座れ。お前も話があるようだが、俺も話がある」
 そういって座るように促され、シャーは素直に応じる。ジャッキールも新しく茶をシャーに淹れてやりながら座った。
「悪かったな。ことのいきさつはリーフィさんや蛇王から聞いている。すまないが、俺はあの時のことはあまり覚えていなくてな」
「あ、いいんだ。いや、その、オレの方こそ……、無関係のはずのダンナやメイシアを巻き込んだと思って……」
 ジャッキールの方から折れられると、逆に居づらいような気がして、シャーの声は小さい。
「ほら、オレ、勝手にダンナの名前使ったろ。あの、リリエスってやつ、それでメイシアを呼んだんだろうなって……」
 シャーは、指を組む。
「あの、メイシアって子、素直でかわいい子だよな。どんな事情があったかは、詳しく聞いてないけど、幸せになってほしいから別れたんだろうなってのはわかるから……」
「ふふ」
 ジャッキールは笑った。
「ローゼは、可愛い子だろう? 俺は、彼女と会ったことは覚えていないが、お前が素直な子だというので、安心した。彼女は、昔のままなのだな」
「ああ。とても素直だし、ダンナのこと心配してたよ」
「そうだろうな」
 ジャッキールはため息をついて苦笑する。
「おおよそお前の予想の通りだ。リーフィさんには話したが、俺のような人間と一緒にいては、彼女の人生が汚れてしまうと思っていた。その矢先に事件があって、彼女とは別離した。そんな彼女が王都に来ていて、あのような男に騙されているのだと知って思わず飛び出してしまった」
「うん」
 ジャッキールは首を振る。
「しかし、これとそれは別の話だ。リリエスという男とは、昔から因縁がある。ローゼも、奴と面識がある。俺とローゼは、奴とは無関係ではない。遅かれ早かれ、あの男はローゼを利用したはずだ。奴に関しては、俺がきっちり落とし前をつける」
 そう言ったジャッキールの言葉は、どことなく殺気をはらんでいていつもの彼の剣呑さを感じさせる。
「それに関してはお前が気にすることではない」
「でもほかにもあるし。止める為とはいえ、オレ、危うくダンナ殺しちゃうとこだったかもしれない。前もそのあとも助けてもらってたのにさ。一瞬前まで、そのつもりだった……」
「なんだ、そのようなことを気にしていたのか」
 ジャッキールは苦笑いすると、少し優しげな口調になった。
「お前は俺を殺さなかっただろう。そういう言葉はな、俺のような取り返しのつかない人間になってから言うことだ。自分の意志で止められたのなら、そのようなことは言わなくてよい。特に俺が相手なのならな。お前も知っているだろうが、俺はひとより丈夫にできているからな」
「うん」
 シャーは思わず目を伏せて頷く。
「それに、くだんの指輪の件もな。お前は自分の失策で俺を巻き込んだのだと思っているようだが、あの指輪の策自体は当たってはいるのだぞ。指輪の牽制がなければ、ラゲイラ卿はすでに行動を起こしている筈だ。あの男が動かないのは、見せかけだけの総司令職を置いたのは何故か目的がわからないから。あの男は警戒心が強い。警戒している間は、準備が整っていても安易に動かないはずだ」
 不意にラゲイラの話を振ってこられたので、シャーはちょっと慌てた様子で顔を上げる。
「ラゲイラ卿のこと……」
「聞きたかったんだろう? 俺に。お前が彼についての情報を得られるとすれば、それはハダート将軍ぐらいなもの。しかし、一番詳しいのは紛れもなく俺だからな」
 ジャッキールはそういって飲みかけていた茶を置いた。
「迷惑をかけた詫びだ。俺が知っていることは何でも教えてやる」
 シャーはしばらく彼を黙ってみていたが、
「ダンナは、ラゲイラ卿に長いこと雇われていたんだもんな」
「ああ、五年ほどな。オレにしては、一つ所に随分といたものだ。五年も務められたのは、彼のところだけだな」
「いい主君だったんだな。アンタがそんなに長いこといられるんだから」
 そういうと、ふっとジャッキールは笑った。
「主君か。いや、俺は実は彼とは主従ではないのだ。正式に仕えないかと勧めてくれたのだが、俺の方が踏ん切りがつかなくてな」
「でも」
 シャーは、少しためらってから尋ねる。
「慕ってたんだよな、その人のこと」
「そうだな」
 素直にジャッキールは答える。
「ラゲイラ卿は、俺にとって雇い主というより、友人や師のようなところがあった」
 組んだ足を下ろして、腕を組み彼は続ける。
「実地的な戦術や処世術にとどまらず、上流社会での振る舞い方、深い教養。身の守り方。いずれ、俺がこの国の貴族の中でも生きられるようにと。だが、俺はそれを活かしきれなかった。彼の期待に沿うことはできなかった」
「そっか」
「だが、俺はな、今でも彼のことを尊敬している」
 ジャッキールは静かに言った。
「今でも、彼のことはまるで師のように思っている」
 シャーはその言葉を聞き終わり、ため息をついた。
「そっか。じゃあ、聞けないや」
「何故だ?」
 きょとんとしたジャッキールにシャーは言う。
「だって、ダンナは今でも、ラゲイラ卿を裏切ったこと、後悔しているんじゃないかなって思うから。オレの味方をしてくれるのは嬉しいけど、でも、ダンナを裏切らせるのは本意じゃない」
「裏切りか。まあ、そういう風に思われるだろうな」
 ジャッキールは苦く笑う。慌ててシャーは補足する。
「オレは、アンタが離反したことをとがめるんじゃないよ。あの状況ならそうするのが当然だと思うから。でも、オレに負けたから、信頼を失ってああなったんだろ。そうじゃなきゃ……」
「はは、随分と買いかぶってくれるな。だが、あの時のことはそれはそれで良い。第一、あの時、俺が失脚していなければ、お前とこうして話すことはなかったわけだ」
 ジャッキールは再びゆったりとした動作で足を組み、その上に片頬杖を突いた。
「それに、俺の失脚はお前の暗殺に失敗したというのも原因の一つだが。俺が彼のもとを立ち去ったのは、他の原因によるものが大きいからな。だから、お前はその点についても、気にしなくていい。これは俺の問題だ」
「他の原因?」
 シャーは怪訝そうに首をかしげる。ジャッキールは思わず苦笑するとため息をついた。
「俺はお前と違って人望がなくてな」
 ジャッキールはそう言いおくと、少し寂しげに続けた。 
「だからこそ、あの時、彼に信じてもらうことができなかったのだ」

  *

 運河の流れる街。
 カーテンを開けると、気だるげに昼の川面がゆらゆらしながら、太陽の光を反射する。ぼんやりとした、平穏な街。
 いっそのこと、彼にはそれが嘘くさい、非現実なものにも思える。
 窓に目隠しのカーテンのついた輿に乗り、彼は昼の街に出てきていた。
 すでに必要な人員は配置し終えている。後は、彼が一言命令を下せば済む。
 それだけで、この平穏な風景は炎に包まれ、地獄と化すだろう。
 ――まるで幻のようなものではないか。
 そんな風に考える。
「御前様」
 ふと声をかけられ、彼はカーテンを開け外をのぞく。
 彼にはなじみの配下であるマクシムスが、まだあどけなさの残る顔を覗かせる。
「一体どちらまで行かれるのですか? 打ち合わせの後はまっすぐ帰られた方が」
「昼に動くのは危険すぎるというのですね」
 マクシムスは、はい、と静かに頷く。
 ジェイブ=ラゲイラは薄く笑い首を振る。
「お前の心配ももっともですが、今日は少し会いたい人間がおりましてね。居場所については、先ほど使いの者が知らせてきましたから、この辺りの道を行けば会えるでしょう。それが終われば長居は無用です」
「それならよいのですが」
 マクシムスはそういって頭を下げたが、ふと、思い出したように彼をちらりと見やった。しかし、言葉を発するわけでもなく、また目をそらしてしまう。
「どうしたのです、マクシムス」
「いえ、御前様」
 マクシムスは、少しためらうようすをみせるが、あまり表情の上には出ない。ラゲイラに古くから仕える彼の祖父がそうであるように、元から表情が乏しいところがあった。しかし、それはそうみえるだけで、感情は豊かなのだとラゲイラは知っている。
「”彼”が気になりますか、マクシムス」
「御前様」
 先に主にそう言われて、青年は困ったような顔になる。
「彼は、お前にとっては師のようなものですからね。気にするなという方が無理があろうというもの」
「あの方は、今では裏切者です」
 マクシムスは不機嫌そうに言った。
「どうなろうと構いません」
「そのような心にもないことをいうものではありません。それに、私は、別に彼が裏切ったとは思っておりません。もとよりそういう契約でもなかったですから」
 それに、とラゲイラはため息をつく。
「彼を切り捨てたのは、私の方が先になるのでしょうから」
 そういいつつ、彼はマクシムスから視線を外す。
 そういえば、かつてはマクシムスの位置にいる男こそ”彼”だったのだ。


「私は貴方を利用価値のある男だと思っているのです」
 常にラゲイラは、”彼”にそう告げていた。
「利用価値があるからこそ、育てる価値もあるというもの」
 そういう時の彼は、納得したようであり、少し寂しそうであった。しかし答える言葉も、大体同じだった。
「私は……、ラゲイラ卿のご期待にこたえられよう努力します」
 それは彼の本心に他ならなかったのだろうとは思う。
 彼は自分に認められたがっていた。それゆえに、彼を重要な役割から外したことに、彼が覚えた失望がどれほど大きかったかを、ラゲイラは彼に会わなくても知っていた。
 彼を切り捨てる。そういう決断をしたとき、彼が自分から離れていくであろうということは、最初からわかっていた。


 ラゲイラが拾ったその男は、仕事については間違いのない男ではあった。
 もともと名のある傭兵だったというが、それにも納得のいくところだった。ただ、彼は少し精神的に不安定なところがあり、さらに戦場では常軌を逸することもあったらしいが、与えられた仕事はきっちりとする男だった。
 ラゲイラは、彼が身辺の護衛に適役だということを早くから見抜いていた。彼が常軌を逸してしまうのは、戦場の狂気に飲み込まれてしまうからだ。しかし、人を守るという目的を持たせてあれば、責任感の強い彼はそう簡単には狂気に負けることはない。
 おまけに彼は容姿が優れており、見映えのする男だったので、高貴な身分の人物の護衛としてつけさせても違和感もなかった。
 そういうこともあり、ラゲイラ卿も身辺警護に彼を指名していた。もっとも、彼を傍に置いていたのは、周囲の貴族たちに彼の顔を覚えさせるためもあった。
 ラゲイラには、彼をいつかちゃんとした武官として取り立ててやろうという気持ちがあった。ただの用心棒で終わらせるつもりはなかった。
 それがゆえに、上流社会で必要な教養や知識を含め、彼には色々学ばせた。
「ラゲイラ卿は、ただの傭兵である私に、何故それほど親切にしていただけるのでしょう?」
 その厚遇がかえって不審だったらしく、彼は不安げにそう尋ねてくることもあった。
 なるほど、確かに彼にしてみれば、ただの傭兵の自分にそれほど入れ込む理由がわからなかったのだろう。
 それに対して、ラゲイラはいつも同じ回答を彼に与えていた。
 彼に利用価値があるからだと。利用価値のある人材を育てるのは、自分の為なのだと。
 彼はそれに納得してはいるようだったし、自分もそういって自分を納得させていた。
 ――しかし。

 ある時、とある貴族と会談して帰宅する際、扉の向こうで待っている彼のところに戻ろうとして、ふと足を止めた。
 彼は雑談をしているようだった。とりとめもない会話だ。
 しかし、その声と後ろ姿を見て、彼は思わずぎくりとしたのだった。その瞬間、立ちすくむラゲイラに気づいた彼は、慌てて話を打ち切り戻ってきた。そして、少し怪訝そうな顔になった。
「如何いたしましたか?」
「い、いえ……」
 ラゲイラは苦笑した。
「このところ、髪を伸ばされているので、こちらのご令息かと見間違いましてね」
「あ、ああ、これは」
 とそのころ、姿を変える意図もあり、髪を伸ばし始めていた彼はやや慌てていった。
「いえ、今まで旅に旅を重ねる生活であったので、手入れがしやすいよう短髪でしたが、今はラゲイラ卿のおかげで定住させていただいておりますので。……おかしいでしょうか? 元に戻しましょうか?」
 彼はまじめな様子で尋ねてくる。
「いえ、よくお似合いですよ。先ほども言いましたが、そうしていると貴族の子息のようです」
 彼は安堵した様子になった。
 貴族の子息、というのはあながち間違いではない。しかし、この家の令息と間違えたというのはあからさまに嘘だった。
(似ている……やはり)
「それでは、参りましょう」
 そう声をかけられる。
(成長したあの子と、歩いているかのようだ)
 容姿はそれほどでもないが、仕草や雰囲気が似ている。そして、最も似ているのはその声だった。
 その子もまた武官だった。年齢も彼と似たような年ごろだった。一人息子だったその子は、大切に育てられた。しかし、多忙であった父とはすれ違いが多くなり、やがて父の反対を押し切って都で武官となった。そうして、ある時、父と大喧嘩の末、青年になった子は飛び出して行ってしまった。
 その後、二度と戻ることはなかった。戦死したのだと聞かされた。
(ただ、私は気まぐれで傭兵を拾っただけなのだ)
 ラゲイラは自分にそう言い聞かせ、その面影を目の前の男から消そうと必死だった。

 ジェイブ=ラゲイラが彼と最初に出会ったのは、彼がザファルバーン東方に所有していた領地でのことだった。当時はリオルダーナとの戦争が激しい時期で、ラゲイラは自分の領地からそちらに視察をしていたところだった。
 戦争自体はザファルバーンが辛勝した形になり、結果的に両国は講和した。リオルダーナは当時の国王が戦死し、撤退を余儀なくされていた。しかし、激しい戦闘により周囲は地獄の様相を呈していた。
「ひどいものだ」
 命を落とした兵士たちの死体の山を眺めながら、ラゲイラはそうぽつりとつぶやいたものだった。
 リオルダーナとの戦争には勝利したものの、ザファルバーンにも大した実入りはなく、その成果はむなしいものでもあった。
 そこに広がっていたのは生命の息吹すら感じられぬ荒れ果てた土地だった。
 ラゲイラは視察を早めに切り上げ、自分の領地に戻る途中のことだった。
 帰り道で、彼らは死体を見たのだった。水を飲もうとして力尽きたのか、それとも倒れた場所に水があったのかはわからないが、川に顔半分をつけたまま倒れている男がいた。
 まだ若い男だった。水に現れ、血や泥が落ちていて顔がはっきり見えたが、人形のように白い。それでいてなかなか美しい顔立ちをしていた。それだけに血塗れで倒れている姿は、凄惨に思えた。
「哀れな」
 ラゲイラはぽつりとつぶやいた。
 凄惨な場面をみて、もはや動かす心もないはずだったが、ふとそのように感情を動かされたのは、男の年齢が彼の死んだ息子と同じ年頃だったからだった。
 せめて手厚く葬ってやりなさい、そんな風に言おうとしたとき、彼の手が動いた。まだ息がある。
「あの男は、ジャッキールという傭兵です。名は知られていますが、悪魔憑きエーリッヒとの異名のある男ですよ」
 助けてやろうとしたとき、彼とは同業者の部下の一人がそう言った。ジャッキールという、彼の名前はラゲイラももとより知っていた。
「それにもう助けようのない深手です。関わらない方が得策です」
 ラゲイラはしばらく黙って彼を見ていた。そしてため息をついた。
「そのような男でも、このような冷たい土の上より、柔らかな褥の上で死にたいものでしょう。助からなくてもよい。情けをかけるのも、我々の功徳にもなろうというもの」
 ジェイブ=ラゲイラはそう指示をして、彼を連れ帰った。
 結局彼は、一命をとりとめた。回復した彼がどうか礼を申し上げたいというので、ラゲイラは彼に会いに行くことにした。高名な傭兵でもあるので、確かにそのときは恩を売っておけば利用することもできるだろう、との打算もあった。
 しかし、部屋の前で彼は思わず驚いてしまった。
 部屋の中からたどたどしく読み上げられる四行詩の朗読の声が、封印していたはずの記憶の扉を開けてしまった。
 慌てて部屋の中に入ると、少し驚いた様子でその男はラゲイラを見やり、読み上げていた詩集を閉じた。男は思わず赤面していた。
「し、失礼をした。このような、稚拙なものを聞かせてしまって……」
 異国風の訛りはあるが、話しかける声がどこか懐かしい響きを持っていた。
「私は、ジャッキールと……。失礼だが、貴方は?」
 目を瞬かせながら尋ねられ、彼はすぐに返事ができなかった。
 姿かたちは違うが、その男は死んだあの子と同じ声色を持っていた。
 それは、まるで死んだ息子が姿かたちを変え、記憶をなくして、彼のもとに戻ってきたかのような錯覚を覚えさせていた。
 しかし。
 ――このことは、もう忘れなければ。私は、あの時、既に人の心を捨てたのだから。誰にも、このことを悟られてはならない。
 


「マクシムス、本当は彼が心配なのでしょう?」
 ラゲイラは、そう尋ねた。マクシムスは答えなかったが、その表情で彼がどう思っているかはわかる。
「大丈夫ですよ。あの程度では、死ぬような男ではありません。しかし……」
 と彼は目を伏せた。
「あのようなことになるのは、彼の望むところでもないでしょうけれどね」
 ふいに輿が止まった。
 ラゲイラは窓からその男の姿を確認すると、輿を下ろさせて外に出た。
 その向こうで、女が先に角を曲がる。そのあとを、大柄の男が追いかけていくのをラゲイラは呼び止めた。
「お待ちください」
 そう声をかける。ラゲイラの背から、沈み始めた昼の太陽がさしかかる。男は日陰の中で足を止めた。建物に囲まれた狭い路地だ。
「貴方は、サギッタリウスですね?」
 そう声をかけると、男は振り返った。そしてラゲイラを目にしても取り立てて態度を変えずに、ただ静かに答える。
「その名は俺が名乗った名前ではない」
「しかし否定もしないというわけでしょう。……私とお商売のお話はできますか?」
 男は、ふっと冷たい笑みを浮かべる。どうやらそれは肯定のようだった。
 普段はどちらかというと陽気な彼に、あっという間に冷たい凄みが走って別人のようになる。それでいて、彼はどこかしら高貴な気配を漂わせていた。
「ある男を殺していただきたいのです」
 単刀直入にラゲイラは告げる。
「貴殿が誰かは知らぬが、受けるも受けないも俺の自由。それに、俺に頼むなら、それ相応の報酬は用意してもらわねばならない」
「わかっております。サギッタリウスは、気に入った仕事でないと受けないとの評判ですから」
 しかし、とラゲイラは静かに言った。
「その男は、貴方にしか殺せないのです。そして、貴方にはそれを受ける理由が確かにある」
 男がかすかに眉根を寄せる。
「まずは、私の話を聞いていただきたい」
 ラゲイラは静かに彼に歩み寄った。  
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