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エルリーク暗殺指令-27


「犬は駄目でしょ犬は」
 明朗な女の声が路地裏に響く。
「番犬って、そりゃー、エーリッヒも怒るわよ」
 目の前を巻毛の金髪を揺らしながら、女が歩く。
 大柄の髭男は、普段はこう見えて非常に冷静な男だが、今日はややむくれている。また喧嘩したの? と尋ねたところこれだ。
「しかし事実だ」
 ルーナに言われて、ザハークは憮然とする。
「事実を言って何が悪い。実際、あの男が一番得意なのは、番犬業務だからな」
「事実って、一番心に刺さるのよねえ」
 ルーナは呆れたようにため息をついた。
 アイード=ファザナーの別荘から少し離れた路地。ザハークは一度自宅に帰っていたわけだが、荷物を入れた袋を担いでいる。
「全く。着替えを持ってこいだの、退屈だから本を持ってこいだの、ついでに何か甘い物を買ってこいだの。あの男、俺を何だと思っているんだ」
 ザハークはそう言って珍しく不機嫌そうに言い捨てる。
「その割には、ちゃんとお使い頼まれてくれているのねえ」
「病み上がりでなければ窓から突き落とすのだが、一応、病み上がりなので仕方がないからな」
 ルーナはそれを見やりながら、思わず苦笑した。
「エーリッヒの方も大概わかりやすいんだけど、蛇王も意外と素直じゃないのよねえ」
「誤解だぞ」
 ザハークは真顔で首を振る。
「どうせ殺す予定だからな。将来殺す時に気兼ねない方が良いからだ」
「そういうところが素直じゃないっていうの」
 意外と可愛いともいえるのだが。ルーナはため息をつきつつ、両手を頭の上で組んだ。
「まあいいんだけれどね。エーリッヒのお使いってのがちょっと癪だけど、お陰で私は蛇王とお買い物デートができるんだし」
「それは良かった。お前が楽しいと俺も嬉しいぞ」
 そう言ってやると、ザハークは先ほどむくれていたのを忘れたかのように無邪気に笑う。
 気怠く平穏な昼下がりだ。
 とはいえ、実際は、どうやらそんなに悠長な状況でもないらしい。いまだに仕掛けてはこないが、ジェイブ=ラゲイラによる反乱の計画は準備万端だという話であるし、この間の事件の主犯であるリリエス=フォミカも潜伏している。アイードの様子を見ると、王都に入り込んでいる海賊達も摘発できてはいないらしい。
「でも、エーリッヒも難儀な奴よねえ。まだ前の暗殺未遂事件のこと引きずってるの? なんだかんだで、その時の雇い主に捨てられたってことじゃない。自分が裏切っても仕方ないでしょ」
「まあ、捨てられたという言い方は正しくないかもしれないのだがな」
 ルーナに尋ねられてザハークは答えた。
「でも、暗殺事件の時の実働部隊の指揮官から、アイツ外されてたんでしょ? それまで散々前線で使われてて、肝心な時にそれじゃあ、エーリッヒだって落ち込んだでしょうねえ」
「それは想像の通りだろうな。まあ、それに関してはいろんなやっかみも含めての問題があったようなのだが……。とはいえ、奴はそもそも暗殺などの実行には向いていないからな」
「あら、そうなの?」
 うむ、とザハークは頷く。
「剣の腕がああなものだから誤解されやすいが、もともと攻略戦に向いた性格ではないからな。色々余計なことを考えて、どっちが正しいのかなどと考え出すとそれこそ……」
「あー、あの面で意外と繊細だものねえ。でも、それだと、実はアイツ役に立たないんじゃないの?」
「ルーナ、それは言い過ぎだぞ。エーリッヒは、繊細な割に頭まで筋肉が詰まっていそうな馬鹿には違いないが、けして無能ではない」
 さりげなく酷い悪口を言いつつ、ザハークは続ける。
「あの男が本当に恐ろしいのは、目的がはっきりと決まっている任務に就いている時だ。自分も迷うことなく、任務に専念できる状況がありさえすればよい。そして、ラゲイラという男からは、明らかにその腕を買われて傍に置かれていた」
「というと具体的には?」
「要人警護だな」
 ザハークはぼそりという。
「それじゃあ、ただの用心棒じゃない」
「ただ、自分一人でついているだけならな。だが、あの男が部下を持って、本気を出して人を守る時は、そうではない。地形や事情を考慮し、人員配置まで考えつくしてきっちりと配置する。まさに猫の子一匹通さないような警護をしてな。……実際、傭兵で流している間も、そういう仕事も良く受けていたし、実際に暗殺を防いでもいる。俺などはどちらかというと狙撃の仕事の依頼も多かったが、実のところ、あの男が敵方にいるのを知って、受けなかった仕事もあるぐらいだからな」
(それ、別の理由でしょ?)
 などとルーナはそっと思ってみるが、口には出さない。どうせ出したところで、平静と冷徹を装って否定するだけなのだ。彼らの間に間違いなく友情めいたものがあることを知っているが、お互い絶対に認めようとしないのは、付き合いの長い彼女にはよくわかっていることなのだ。
「俺に言わせれば、防衛戦こそ奴の本領。となると、ラゲイラという男からは、それなりに正当な評価は与えられていたとは思うのだが」
「納得できるかどうかは別の問題だわよねえ」
 と応じつつも、ルーナは、おおよそ今日の喧嘩の原因がわかって背伸びをした。
 なるほど、どうせ将棋かカードゲームで遊んでいて、ジャッキールが思わず攻勢に出て失策したところで揶揄したからに違いない。
(まったく、どっちも子供っぽいんだから)
 ふと視線の先に路地を曲がる男が見えた。
 別にそれは不審な動きでも何でもないのだが、ルーナがその男に目を留めたのは、男が洒落た服装をしていたのと、そもそも背格好に見覚えがあったからだ。帽子をかぶっているが、そこからちらちらと覗いている髪は赤い。
「あらまあ、誰かと思ったらカワウソのお兄さんじゃない。こんなところをうろついてるの?」
「ここはヤツの庭みたいなものだろう。どこにいてもおかしくないが、あの男忙しい割には、いろんなところに出没するのだなあ」
 ザハークがそんなのんきなことを言う。
「本当ねえ。カレ、こんなところで遊んでる場合ないんじゃないの?」
 ルーナがやや呆れ気味に同調する。
「口ヒゲの似合うなかなかいい男なんだけど、ちょっと頼りないのよねえ」
 ルーナがそういうと、ザハークは首を振る。
「さて、それはどうだろうな」
「あら、蛇王はそう思わないってこと?」
 ルーナは悪戯っぽく笑いかける。
「そういえば、シャー君からきいたわ。カレ、エーリッヒの剣を受け止めたとかなんとかだって? 偶然だって言ってたそうだけど、シャー君も半ば疑ってたわ。本当は強いのかもしれないとかなんとか」
 ザハークはにやりとする。
「”強い”という形容詞はあの男には似合わんだろう。あのカワウソ男は、強いというより”上手い”。一言でいうと、恐ろしく器用な男だ。ちょっと器用貧乏の嫌いはあるがな」
「へえ、蛇王にしては高評価ねえ」
「もちろん。単に強いヤツよりああいう器用な奴の方が怖い。しかし、三白眼のヤツ、今回はずいぶんあの男に惑わされているのだな。まー、いろいろと事情が事情で、流されているのかもしれないが」
 ザハークは片目を閉じつつ、
「三白眼のヤツ、見ていたくせに気づいていないようだが、あの男、あの片手剣でエーリッヒの剣を受けたのも、真正面から受けていたわけではないのだ。間に入る時の角度やら動きやらで、エーリッヒの力を最大限流して、自分に一番負担がかからないようにして受け止めた、ということ。もちろん、偶然でやれるものではない。すべて計算ずくだし、咄嗟にそれができるということは、あのカワウソ男、相当な実戦経験があるということだな」
「でも、将軍としては、そんな戦績なかったって言ってたわよ」
「それはそうだろう。将軍の戦い方ではないからな。あの男、身のこなしが上品なくせに、三白眼などよりよほど戦い方が泥臭い。ということは、実戦経験があるとすれば、実に”個人的”なものだ」
「ということは、昔やらかしてたってこと?」
「そこはわからん」
 ルーナに尋ねられてザハークは楽しげに笑う。
「まーしかし、ああいう男は、往々にして怒らせると怖い。それこそ、エーリッヒよりもな。三白眼のヤツは、あの男だけは怒らせない方がいいと思うぞ」


 *

 開いた衣装箱の中は、目を引く明るい色彩にあふれている。そこにあるのは、色とりどりの衣装だった。
「なんだ、これ……」
 衣裳部屋に衣類など珍しくはない。しかし、とりわけ目を引いたのは、それらの鮮やかな色合いと、それになにより、それが明らかに異国風のものだったからだ。
 伊達男のアイードには、異国風の衣装など珍しくもない。この部屋でも何枚もみつけている。が、それは他のものとは明らかに趣が異なっていた。
 色鮮やかな大きな羽のついた帽子。刺繍入りの異国風の上着。東方風の幾何学的な紋様が美しい飾り帯やスカーフ。金の象嵌細工の留め金のついた上等な黒の片マント。装飾された靴。宝石のついた短剣類。
 そして、ひときわ目を引く美しい鞘のついた新月刀。
 そっと手前の帽子を手に取ってみると、天測具などの航海道具らしいものが薄い布に包まれて、丁寧に置かれている。その手前に携帯用らしく小さめだが、分厚い本のようなものがあった。
 そっと手に取ってみる。開いてみると、ザファルバーンの文字と異国の文字が交互に書かれていた。日付と現在地などが書き込まれている。
(日記? いや、航海日誌みたいな?)
 そんな考えを巡らせながら、ふと背後にいるゼダのことを思い出し、シャーは顔を上げた。
「なあ、コレってもしかしてあのカワウソの私物……」
 そういいかけて、シャーは思わずぎょっとした。
 というのも、ゼダは衣装箱の中身を一心に凝視していたからだ。呆然としているようにも見え、また何か怒っているような険しい顔にも見える。
「おい」
「え?」
 もう一度声をかけられ、ゼダははっとシャーを見る。
「ど、どうしたんだよ? なんか変なものでもあるのか?」
「え、あ、ああ」
 ゼダは慌てて取り繕うように笑う。
「な、なんでもねえよ。いや、珍しい服だなあって……」
 そう言いながら、ゼダは動揺を隠せていない。シャーが大きな目を瞬かせながら、彼の反応をうかがっていると、ふとゼダは言った。
「そ、そうだ。すまねえ。オレ、ちょっと用事を思い出したんだ!」
「え、な、なんだよ、用事って?」
「い、いや、大した用事じゃねえんだけど……。大した用事じゃないけど、急ぐんだ。ほら、ダンナも意外と元気だったことだしさ」
 ゼダはそろっと後ずさる。
「ダンナにはヨロシク言っといてくれよ! じゃあな!」
「あっ、おい!」
 どう考えてもゼダの様子は普段と違う。シャーは後を追いかけかかったが、どうやらそのまま門の外に走って行ってしまうゼダの後姿をみとめて、足を止めた。
「なんだよ、急な用事って……」
(もしかして、なんかカワウソ野郎がからんでることなのか?)
 この衣装箱の中身を見た途端、あの態度だ。追いかけて行って事情をききたい気持ちもあるが、一応病み上がりのジャッキールを一人で放置するのも気が引ける。第一、今日は見舞いに来たのだったし、ここに来たのも、彼に用事を頼まれたからだった。
 それに。
 シャーはため息をついて、手の中の日記を見た。
 日記。おそらく、個人的な航海日誌を兼ねた日記帳だ。
 名前は書かれていないが、どうも筆跡に見覚えがあるように思う。アイードの文字によく似ていた。
 ところどころ外国語で読めないものの、読めるところを拾っていく。日付を見ると、どうやら十年近く前のことらしい。ということは、まだシャーもアイードも参加している、最大のリオルダーナ東征より以前の話だ。
「この年代じゃ、アイツまだギリギリ十代か?」
 ペラペラめくると立ち寄った港町の名前など、地名らしきものが見られるが、それはザファルバーン西部の太内海側の沿岸部分にあたる。
 アイードは、東征前には北部諸島に留学していたはずで、そこも確かに太内海沿岸ではあるのだが、太内海では東岸にあたり場所が全く違う。
(やっぱ、北部の諸島部への留学って嘘なのか? しかし、あのジェアバードまでそんな風に嘘を言うって、一体なんなんだろう)
『本日、天気は晴れ。波はやや強いが、予定通り”シマ”につく』
 いくつか気になる場所を拾い読みしてみる。

『”シマ”で、”北風”の親父と会う。久しぶりだ。
 親父ときたら相変わらずの様子だが、北風がザファルバーンに帰順を決めてから、どうやらちょっと足元が危ういとの噂。なるほど、ザファルバーンに帰順するからには、ザファルバーン船籍の商船を襲ったり、太内海沿岸での奴隷狩りが全面禁止になるから、それに反発するものも多いんだろう。親父には気をつけるように言いおいて、俺達はシマを離れた』

『市場でいたところ、”北風”の親父の手下筋からの情報を得る。
 どうやら、親父の部下の”南風”一味が俺に対して反感を持っているという。それは元から予想がついていたのでなんということはないが、問題は”南風”ラーゲンのヤツと”西風”との関係だ。北風の親父に何かあれば、”西風”が跡目ということになるのだろうが、それが認められるかどうか』
 
 北風、西風、南風。
 普通に読むとこれは海賊の名前のようだ。
(アイードのヤツ、なんで海賊とかかわり持ってるんだ? 元々北部諸島へは航海技術や水軍を率いるための勉強をするってタテマエだったはずだ。たとえ、場所がザファルバーン西岸だったとしても、これじゃ全然……)
 まるで自分で船をもって自由に動き回っていたかのようだ。
 商船にでも乗っていたのか。いや、そうとも思えない。ところどころ読めない文字で書かれている場所があるが、そこはどうも”商売”の記録をしてあるように思える。
 数字だけが、彼の想像を掻き立てる。これは”売上”と”手数料”収入の記録なのでは。
(アイツ、まさかガキの頃……)
 そんな思いに駆られつつも、重要な部分はやはり異国の文字を併用して書かれていてうまく読み進められない。もどかしく思いながらもページを繰ると、久しぶりに読める文字で書かれていた。
 どうやら、これを書いた人物、もしそれがアイードなのだとしたら、おそらくザファルバーン側の人間に読まれてマズイ部分を異国の文字で、逆に仲間内に読まれたくない私的な事情についてはザファルバーンの文字で書いているのだろう。そういう使い分けがしてあるように思う。

『”北風”の親父の件だが、”南風”の叛乱以降行方が杳としてしれない。あの親父のこと、どうにか生きているとは思うが、心配だ。
 ”西風”は即座に”南風”に対抗しているようだが、数の上では勝負にならないだろう。”東風”にも手伝ってほしいとの要請が出ていて、それに対して部下たちがざわついている。
 俺にしてみればそっちの方が問題だ。そもそも、”南風”はすでにザファルバーン西岸の町を無差別に襲ってきたし、今もすでに襲撃を再開しているという話だ。そこで当然奴隷狩りも行われている。
 ターリクなどは、部下も含めてもともとが逃亡奴隷で、それがゆえに”南風”に対する心証が元々悪い。
 あいつは頭はいいが、意外にも気が短い。もし、何かそっちに挑発されてキレてしまえば、俺でも暴発は止められない。
 しかし、暴発して”南風”に喧嘩を売れば、即対立することになる。”南風”は、しかし数の上で圧倒的に有利だ。あいつに真の意味で対抗するためには、俺も腹を決めなければならないだろう』
 
 慌ててページをめくる。しかし、日記はそこで途絶えていた。その後は白紙で、航海の記録すら書かれていない。
 シャーはページを戻し、それらの記載のあった日の現在地を確認した。
 それは、アーヴェにほど近い場所だ。太内海ではザファルバーンの中心的な交易ルートに近く、今でも海賊の襲撃事件が多い場所でもある。
 しかし、かつてアーヴェに関してはザファルバーンへの帰順が認められていたことがあったと、シャーもなんとなく聞いていた。
 その時の彼は、東方を担当していたのでそちら側のことはあまり詳しくはないのだが。
「もし、”北風”っていうのが、アーヴェ総督だとしたら、確かヴァレアースとかいう海賊? だったら、確かに生死不明で、叛乱後にアーヴェは再び海賊が支配してるって話なんだけど……」
 シャーは小首をかしげた。
(カワウソのヤツ、そんな時分にアーヴェにいたのか? 確かにあいつ、西方の言語を使いこなしていた。しかし、何故? 北部諸島への留学なんてみんなに嘘をついているのは……。いや、もし、これを書いたのがあいつだったとして、オレの予想の通りの”商売”をしていたのだとしたら――)
 名門ジートリュー一門から排出され、その象徴である赤い髪をしたファザナーの御曹司が、まさかそのような”商売”をしていたのだとしたら。
 そして、彼がまだファザナーの当主を継ぐ前の話なのだから。
「そりゃあ、甥っ子のそんな話、公なんかにはできねえよな、ジェアバードでも」
 シャーは、日記を衣装箱の中に戻しながら立ち上った。
 以前の彼なら、こんな風に疑わなかったかもしれない。
 けれど、今のシャーは彼を知っている。
 太内海のような穏やかで暖かい碧の瞳を向けたまま、威圧感と殺気を静かにたたえて、王ですら恐れぬ彼のことを。
 視線を落とす。衣装箱の中の衣類は、誰かの過去をかすかな海の残り香と同時に漂わせ、窓から入る太陽の光に鮮やかに輝いている。
 シャーは、思わず先程と同じ言葉をここにいない男に投げかけていた。
 
 ――アイード。一体お前、何なんだ?
 
 
 *

 その建物の二階からは、川の上がよく見える。
 しかも、向こう側からは死角になって見え辛い場所で、観察にはちょうど良い。
 アイード=ファザナーの副官であるゼルフィスは、欠伸をしながらその様子を眺めていた。
 いくつかの船が停泊しているが、その一つは本来は海洋船だ。小ぶりの船なので、運河も問題なくのぼってきているが、どこかしら洒落て上品な姿が貴婦人を思い起こさせる。周囲の船と比べても、どこかしら優雅だった。
 そしてその船の前にわらわらといる者たちは、わかりやすく人相が悪かった。荷物を運んだり、なにやら、集まって座談しているようだ。
 しかし、目立った動きはなく、ゼルフィスはそろそろ飽きてきて、軽く伸びをしながら大欠伸をした。
 と、不意に誰かの気配がする。
「待たせたな」
 すっと彼女の視界に入ってきたのは、洒落た服装の男だった。帽子を外していたが、風になぶられて赤い髪が炎のように揺れる。その男の左頬に刀傷が見えていた。
「お、大将、思ったよか遅かったねえ。なんだ、野暮用か何か?」
 ゼルフィスはからかうように笑いかける。
「おい、誤解招くようなこと言うなよな。俺は、本当に忙しいんだよ。ほら、差し入れ」
 アイードは困惑気味にそう答え、手に持っていた袋を投げてよこした。ゼルフィスはそれを受け取り、中から焼き菓子を取り出す。
「ははー、流石大将気がきくよなあ。ありがたくいただいとくぜ」
 ゼルフィスは、さっそく口にほおばりつつ礼を言うが、返答がない。彼は付き合いのいい男だ。何らかの相槌を打ってくることが多いので、ゼルフィスはきょとんとして視線で彼を追う。
 アイードはというと、首にかけていたスカーフを外し、それを頭に巻いているところだった。空の方に視線を向けていたが、その表情が少しだけ険しい。
 ゼルフィスは、菓子をほおばるのをやめてにんまりと笑った。
「へえ、珍しいじゃん」
「何が?」
 頭にスカーフを巻いて赤い髪を隠していたアイードは、そういわれてさすがに彼女に目を向ける。
「大将、ちょっとイラついてんだろ?」
 悪戯っぽい顔をしながら、ゼルフィスが尋ねた。
「アンタがそーゆー面してんの、久しぶりだから」
「べ、別に、イラついてるわけじゃないさ」
「そんなトゲトゲしてるの、久しぶりだぜ? 絶対イラついてるにきまってるだろ」
「まあ、そりゃ、ちょっと……」
 といいかけてアイードはため息をつく。
「久々にイラっとしたことがあったからさ。でも、本当にイラついてるのはそっちじゃなくてな。いくらなんでも、ちょっと言いすぎたかなあって」
「言い過ぎた? あー、もしかして、アレかな」
 ゼルフィスは、思い当たることがあったのか、笑いながらじゃれかかるように言った。
「あの三白眼の兄ちゃんだろう? なんだよ。昔の自分に似てるとか?」
「ま、まさか、俺はあのボーヤみたいな重たいモン背負ってた記憶はないね」
 詰め寄られてアイードは思わずたじろぐ。
「そうじゃなくて……」
 といいかけたところで、思い出しむかつきでもしたらしく、アイードは不機嫌になる。
「ふん、ちょっと予定外のことがあっただけで日和りやがって。大体、背負ってるモンが違うっていってんのに、俺なんかに対抗したってどうしようもねえんだよ。大体、なんでそんなに、俺のこと信用しねえかな。こんなに骨折りしてんのに、イチイチ疑いやがってよ!」
 吐き捨てるように愚痴りながら、ゼルフィスのそばに腰を下ろす。珍しく口の悪いアイードだが、それがかえって面白いのか、ゼルフィスはにやにやしていた。
「ごたごた言わずに、テメエは黙って後ろにどーんと座って構えてりゃいいんだよ」
 ゼルフィスは笑い出す。
「仕方ないよなあ。そりゃ日和りもするだろ。アンタ、キレるとイチイチ怖いんだもんよ」
「べ、別に俺はキレたわけじゃないんだけどな」
「キレてなくてそれなら余計コワイってさあ」
 そう言われてアイードが困った顔になるのを、ゼルフィスは楽しそうに見やる。
「ま、でも、私はアンタはちょっとぐらいトゲトゲしてた方がイイと思うんだよなあ。その方が毎日刺激的でさあ」
「冗談。毎日くさくさしてたら、俺の精神がもたないってーの」
 アイードはうんざりとそういうと、深々とため息をついた。
「まあそれはそれとして、奴等の動きどう?」
「んー、今のとこ目立った動きはないなあ」
 ゼルフィスは遠眼鏡を持ち出して、アイードに投げてよこす。
「ソレでちらちら見てるんだけど、今のとこ、あんまり見た覚えのある面のヤツがいないんだよな」
「それは期待外れというか、よかったというかだけどさ」
 アイードはそっとそれをもって壁から船を見やる。
「だけど、あの船があるってことは、絶対顔見知りがかかわってるってことだからな」
「そうだろうな。でもよかったじゃね?」
「何が?」
 不謹慎なことを言うといいたげに、アイードは眉根を寄せてゼルフィスの方を向く。
「だって、アレ、”紅い貴婦人”だろ。とっくの昔に沈んだとか思ってたんだからさ。死んだと思った恋人が生きてたみたいなもんじゃねえか」
「あのなあ……」
 アイードはため息をついて、頭に手をやる。
「その例えがあってるとしたら、俺は滅茶苦茶フクザツな気持ちだと思ってほしいぜ」
「そうかぁ? 奪われてたなら取り返せばいいだけじゃねーか」
「お前は気楽でいいよな。つくづく見習いたいもんだぜ」
 アイードは、より深々とため息をついて疲れたような顔になる。
「そういや、あのラゲイラってオッサンの方はどうなってるんだ?」
「さてね、ラゲイラ卿みたいな狸親父の考えは俺にはわからんよ。正直、対策しろって言われても俺じゃ無理」
 アイードは他人事のように言いつつ、ほんの少しだけ真剣な顔になる。
「でも、あの男が動かないのは、何かに警戒しているからさ。そっちはラダーナ将軍が見てくれてるんだけど、でも、この海賊《ロクデナシ》共の動きとも何らかの関係があるはず。ってことで、俺はこっちを担当しているというわけさ」
「でも、これって、別にあんたがやることじゃないよな?」
 ゼルフィスがにやりとして、青い瞳で挑戦的に彼を見上げる。
「別にって、これは”俺”にしかできねえ仕事だぞ。それはお前も知ってるじゃねえか」
 アイードが小首をかしげて答えると、ゼルフィスは挑発的に目を輝かせた。
「それは”ファザナー将軍”としてじゃないよな。この仕事、”任務”のつもりじゃないんだろう。大将?」
 そう尋ねられてアイードは思わずふきだす。
 アイードは苦く笑い、ふと向こうに浮かぶ船の方を見た。
「しかたねえよ。だって、相手はあんなにイイ船《おんな》だぜ。上品ぶってめかしこむだけじゃ、相手にしてもらえねえ。お坊ちゃんのままじゃ、いられねえだろ」
 そういいながらアイードは、目を伏せた。
「何だよゼルフィス。俺も、あの三白眼のボーヤのこと言えたクチじゃないってか?」
 ゼルフィスが黙ってにやにやしているのを見て、アイードはやれやれと肩をすくめ、左ほおの傷跡をなでやる。
「なんだったら止めてくれてもいいんだぜ、副官殿。職務放棄をとがめるのがお前の仕事だろうからよ」
「ははは」
 ゼルフィスは、その返答に歯を見せて笑った。
「やっぱ、アンタ、ちょっとトゲトゲしてるぐらいの方がイイ男だよ」
 ゼルフィスは嬉しそうにそういうと、まだ残してあった菓子を一気に口の中に放り込んだ。
 
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