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エルリーク暗殺指令-6


「どういうことだ、蛇王(へびお)!」
 錨亭から少し離れた路地裏。人目のつかない場所で、唐突に振り返ったジャッキールは、ザハークの胸倉をつかんで壁に押し付けて詰問した。
「ローゼを約束通り送り届けたといったのは、貴様ではなかったのか!」
 ザハークはいつも通りの冷静な彼で、取立て抵抗もしない。
「何故、その娘がこの街で奴を襲っているのだ!」
「殴りたければ殴ってもいいぞ」
 ザハークはあくまで平常どおりだ。小憎らしいほど冷静なまま、いつも通りの静かな瞳をして彼は言った。
「あの娘をずっとその店に置いておけなかったのは、俺の責任でもあるからな」
「何?」
 ジャッキールが眉根を寄せる。
「お前との約束通り、俺はローゼマリーを連れて奉公先として決まっていた商家に連れて行った。お前の生死が分からなくなった時は、あの娘をそうすると約束していた。あの時、お前が重傷を負ったまま行方をくらまし、俺はお前が生きているか死んでいるかもわからなかった。俺はだからこそ、約束通り娘を連れて行った。娘は、しかし、本当は商家での仕事を望んではいなかった。それはお前も知っていよう」
 ジャッキールは無言に落ち、それからしばらくしてつぶやくように言った。
「ローゼは……、俺のような戦士になりたいといった……」
「ああそうだ。しかし、娘は頑張るとは言っていたぞ。お前や俺の期待にそえるように。……しかし、半年ほど経って、俺が様子を見に商家を訪れた時、すでに娘はいなかった」
「なら、何故今までそれを俺に言わなかった! ローゼが奉公先をやめていなくなっていると!」
 ジャッキールは、激しい口調で責める。
「何故、今まで黙っていたのだ!」
「言ったところでどうするつもりだ。娘を探すか? それもできまい」
 ザハークはほとんど感情をあらわにしていない。
「……俺も貴様もカタギではない。彼女の人生を狂わせない為に、これ以上我々が関わることはやめようと言ったのは、奉公先の商家を必死で探したのは、お前だっただろう?」
 ジャッキールは黙り込む。ザハークは視線を伏せた。
「俺も、最初は彼女を探そうと考えた。……だが、カタギでない俺がこれ以上彼女の人生に関わってはならないとも考えた。あの娘はお前が考えるよりもしっかりしている。一人でも生き延びていけるとも思った。だから、俺は彼女を探さなかった。それに責任があるといわれればそれまでだ」
 ちっとジャッキールは舌打ちして、乱暴に手を離した。
「貴様にローゼを連れて行かせたのは、あの時俺が重傷を負って戻らなかったからだ。結局は、俺の責に帰することだ。それはわかっている!」
 ため息をついて、ジャッキールは痛む頭をかばうように額に手をあてた。
「しかし、よりによって刺客になっていたとは……」
 ジャッキールは乱暴に手を離して、額を抑えた。
「こんなことなら、ローゼに剣術を教えるのではなかった。俺は、あの娘に俺と同じような生き方はさせたくなかったのに……」
「だが、剣を知りたいといったのは、あの娘自身だ。その道を選んだのもな」
 ザハークは衣服を整えながら、静かに言った。
「それに、お前自身もわかっていただろう? あの娘が、もしまっとうな奉公先で生きていけなかったら、一体どういう生活をすることになっていたか。あの娘に身売りだけはさせたくないからと、お前は剣を教えたはずだ」
 ジャッキールは返答しなかった。
「あの娘が一体何をしにここに来たのはまだわからん。あの小僧も襲われたのでうまくかわしたといっていた。……娘の言い分を聞いてから、考えるしかない」
 ザハークは言った。
「どちらにしろ、まだ情報が足りんのだ。判断するには尚早ではないか」
 珍しく少し気遣うように声をかけたが、ジャッキールはその言葉を聞いていないような、思いつめたような顔をしていた。


 ***

 その男に連れてこられたのは、こぎれいな商家だった。
「奴との、約束だったからな」
 そんな風に彼は言う。男は髭っ面をしていた。普段は豪快な印象が強かったが、そうして切なげに目を細めると、素地の上品さが際立っていた。メイシアは何度となく彼を昔話の髭の王様みたいだと思ったことがあったが、そういう顔をしているときが一番似ていた。
「あたしは、ここで働くの?」
「そうだ……」
 男はただそういった。
「それ以上のことは、俺は何もしてやれん」
 冷たいようだが、と彼は言った。
 しばらく無言の時間が流れた。気まずい沈黙に耐えかねたように、男が口を開く。
「恨むのなら俺を恨んでも構わないぞ、ローゼマリー」
彼は言った。
「元はと言えば、俺が奴に言い出したことだ。お前が奴の傍にいてはお互いによくないと。それがお前と奴を引き裂いたのだとすればそうだろう。だから、俺を恨めば良い」
メイシアは、しばらく彼の顔を見上げてそれから目を伏せた。
「卑怯だなあ、蛇王さん」
 そういわれて、男は大きな目を見開いた。
「本当に、卑怯だよ」
 メイシアはそういって、男に向き直って笑った。


 その男と出会ったのは、彼女が彼と暮らし始めてからさほど経ってもいない頃だ。
「蛇王(へびお)」
 と、彼はその男のことを呼んでいた。
 背の高い髭っ面の男で一見少し怖い感じがしたが、よく見るとどこか上品な印象の不思議な雰囲気の男だった。
 その男もまた彼と同じ傭兵なのだと知ったのは、少しあとのことだが、男は彼女を見ると愛想よく笑いかけてきたものだった。その笑い方がとても無邪気で愛嬌があって、怖い雰囲気と警戒を一瞬で溶かす人懐こさがあった。
「ははは、可愛い娘だなあ。エーリッヒと一緒にいるのか?」
 そんなことをいいながら、男は彼を見上げて尋ねたものだ。
「なんだ、隠し子か? こんな大きい子というと、随分若い頃の子だな」
「違うわ! 貴様、殺すぞ!」
 彼は即答して男を睨み付けた。大抵の人間は彼にそんな風ににらまれると怯えるものだが、その髭の男は平然としていた。メイシアは、珍しいこともあるものだと思った。彼とこんな風に普通に話ができる人間は、限られていたからだ。
 第一、彼を訪ねてきたのは男の方だった。文句を言いながらも、彼は男に珈琲を淹れてもてなしてもいたのだ。
  殺すだのなんだのと物騒な話ばかりしていたが、口ほど彼らが険悪でないことはすぐに分かった。彼の態度の悪さも、何となく照れ隠しみたいに見えていて、傍目にはまるで友人同士のやり取りのようにも見えたからだ。
「あたしは、隊長に買ってもらったの」
「ほう、買ったとな?」
「ローゼ、誤解を招くようなことは言わなくていい」
 やや不機嫌に彼は話に入ってきたが、男を無視するように視線をそらした。
「行く場所がなかったから、隊長が引き取ってくれたの」
「そうか。意外といいところがあるではないか、エーリッヒ」
 男はにやにやしながら、からかうように彼に視線をやるが彼は表面上、無視を決め込んでいる。
「でも、隊長の娘じゃなくてどうせならお嫁さんに間違われたかった」
 そんなことをさらっというと、向こうで彼が飲んでいたふきだして咳き込んだ。慌てる彼を無視しながらも楽しそうに、男は首を振った。
「そんなことをいってはいかんぞ、娘。それでは幼な妻というやつになってしまう」
「え? 幼な妻って?」
「幼な妻というのはな……」
 きょとんとして聞き返すと男が丁寧に教えてくれようとしていたが、急に彼が慌てて走ってきた。
「蛇王、妙なことを教えるんじゃない!」
「ははー、男前は辛いな、エーリッヒ」
 明らかに面白がる男を彼は睨み付けながら、なにやら言い合いはじめていたが、そんな様子はメイシアから見ても面白いものでもあった。


 男は、メイシアを可愛がってくれていた。男は不器用な彼とは性格が違っていて、わかりやすく愛情を注いでくれた。
 しかし、同時に彼とメイシアが一緒にいることはよくないとも考えていた。折に触れて、男は彼にメイシアの奉公先を早く見つけた方がいいと忠告していたようだった。男はそのことを言っているのだろうと彼女は知っていた。
 実際、男の忠告が彼とメイシアを引き裂くことになることも、メイシアは当に気づいていた。けれど、それまで通り男と接していた。
「本当はわかっていたの」
 メイシアは、ふと男を見上げて言った。
「私がいるのは、隊長にとっていいことじゃないんじゃないかってこと。蛇王さんのいうことは間違ってないって」
 男は黙っていた。メイシアはつづけた。
「隊長も言ってたの。蛇王さんがもしかしたら何か私に言ったかもしれないが、それはお前のことを思ってのことだって。蛇王さんは、隊長のことも私のこともずっと心配してくれてた。私と隊長のことを本気で心配してくれてるのは、蛇王さんだけだった。私、蛇王さんが優しい人なの良く知ってる。だからね」
メイシアは苦笑した。
「もっと冷たく突き放してくれなきゃ、蛇王さんのこと恨んだりできないよ。今更恨めっていってもダメだから」
「はは、そうか……」
彼は苦々しくため息をついて笑った。
「そうだな、俺は卑怯だ」
メイシアに視線を向けて彼は告げた。
「だが、俺にはどうもこれ以上の演技はできない。冷たくしてやれなくて、すまないな、ローゼマリー」
「ううん」
 メイシアは首を振る。
「あたし、蛇王さんのこと、嫌いになりたくないよ。だから、蛇王さんは卑怯なままでいいの」
 メイシアは笑って言った。
「でもね、あたし、隊長や蛇王さんが期待する通りにできるかどうかわからない。もし、ダメだったらごめんなさい。でも、一応頑張っては見るから……!」
 その言葉の本当の意味を、多分男は十分には理解していなかったのだと思う。

 ***
 
 大きな商家の前を通りすがる。奉公人たちが大勢、忙しく働きまわっている。
(なんだか、昔のこと思い出しちゃった……)
 街を歩きながら、メイシアはそんなことを思っていた。
 シャー=ルギィズの追撃をあきらめて撤退した後、メイシア=ローゼマリーは、あらかじめ指示されていた集合地点を探しながらそちらに向かっていた。
 メイシアも、商家に奉公していたことがある。
 あれは、彼が重傷を負って姿を消してからのことだ。庇護者である彼がいなくなった時に、彼はサギッタリウスと呼ばれていた傭兵に、彼女のことをあらかじめ託してあったのだ。約束通り、彼はメイシアを奉公先に連れて行ってくれた。
 人間関係は別に悪くなかった。皆それなりに親切にしてくれたし、それほど辛い勤めもなかった。しかし、どうしても自分には向いていない仕事で、結局半年ほど勤めた後、メイシアはそれまでのお給金を資金にして旅に出てしまった。
 それ以降は、隊商の用心棒をしてみたり、賞金首を追いかけて賞金を得たりして生きてきた。
 どこかで、彼が生きているのではないかとも思っていた。そんな生活をしていたら、いつか彼に会えるのではないかと。旅につぐ旅は、彼女にはさほど苦痛ではなかったから、彼を探すようにしながら旅をする生活は意外と気に入ってはいた。
(でも、今のあたしをみたら、隊長も蛇王さんも怒るかな……)
 ちょっとだけそんなことを思ってしまう。
 隊長は、あくまで彼女を正業に就かせようとして努力してくれた。今の仕事が、いわゆるカタギの仕事ではないことぐらい、メイシアも理解していたのだった。
「おや、ローゼ。よくたどり着きましたね」
 不意に声をかけられ、メイシアはぎょっとして背後を振り返る。気配がなかった。
 商家を過ぎて、すでにメイシアは人通りのない路地に入り込んでいた。目的地までも近い。そして、いつの間にか、後ろには相変わらず中性的な佇まいのリリエス=フォミカがたたずんでいた。リリエスは赤い唇を笑わせて言った。
「お疲れ様です。お待ちしていましたよ」
「リリエス、いつの間に?」
 メイシアが眉根をひそめると、彼はにこりと笑った。
「それは私もこれぐらいの芸当はできますよ。あなたも心ここにあらずといった風でしたから、簡単に近づけました。それで、標的と出会えましたか?」
 どうにも油断のならない男だ。そう思いながらも急に話を振られて、メイシアは、シャー=ルギィズを思い出して頷いた。
「会えたけど、なかなか手ごわい人よ。仲間が来たので、一旦退却してきたの」
 正直に話すと、リリエスはくすりと長いそでで口元を隠す。
「そうでしょうねえ。極彩獣(ごくさいじゅう)のシロウシでさえ、手を焼いているとぼやいていました。見かけによらずといったところみたいですね」
「ええ」
 いつの間にか、リリエスの傍に白いフードをかぶった少女と背の高い男が立っていた。リリエスの部下のようだ。ふと気づいてメイシアは尋ねた。
「そういえば、あなたはいつの間に街の中に入ったの? 他の人達がなかなか城門の検査を抜けられないっていってたのに。あと数日かかるんだと思ってた」
 うふふ、とリリエスが笑う。
「そうですね。城門の警備が思ったより厳しくて、私でも通れるかどうか、少し不安を感じるほどでしたので困りました。特に、荒くれものな外見の彼等にはまず通れる場所ではありません。けれど、もう皆さん、街の中に入られていますよ」
 メイシアは怪訝そうに眉をひそめた。
「どうやって?」
 リリエスはくすくすと笑いながら言った。
「陸路で入ろうとするから苦労するのです。この街に入るのには、もう一つ、方法があるのですよ」
 そういって彼が視線を向けた先をメイシアは辿る。
 そこにはちょうど橋が架かっていた。その向こうに大きな川が流れており、船が行きかっていた。
  
  *

 ジャッキールとザハークが席を外してしばらく経ったが、二人はなかなか帰ってこなかった。
「ちぇっ、せっかくオレが顔出してあげたのにさあ。何なの、あの人達」
 シャーは面白くなさげにブツクサいいながら、茶を啜っていた。
「気になるなら追っかけて行けばよかったじゃねえか」
 ゼダが呆れた様子でそういうが、シャーは首を振って例の三白眼をゼダに向ける。
「お前だって追いかけていってねえじゃん」
「そりゃあ、あのダンナの目つきみたら、おいそれと覗きにいけねえだろ。死ぬ覚悟しないとな」
「そういうことだよ。ああいう本気の目してる時のダンナは、おっかねえんだから。しかも、やったらめったら口が堅いと来てるから、頼んでも話してくれねえよ」
 シャーは忌々しげに吐き捨てつつ、やれやれと茶を置いた。
「さっきの可愛いコとダンナに何の関係があるってんだ」
「隠し子にしちゃあ年の差がなさすぎるしなあ。いくらダンナが年齢不詳っていってもさ」
「そうだよなあ」
 ろくでもないことをいうゼダに同意しつつ、シャーは立ち上がった。
「まあ、しょうがねえ。そのうち落ち着いてきたところで、一回探りいれてみるか。あの娘もまだオレ付け回すの、諦めてねえみたいだしさ」
「どこ行くんだ?」
「いや、美味しそうな菓子の焼けるにおいがしてきたから、リーフィちゃんのお手伝いを」
 そんなことをいうシャーにゼダはにやつきつつ、
「やめとけって。下心見え見えだし、おめえが行ったところでリーフィの邪魔になるだけだぞ。そんなんだから、モテねえんだよ、お前は。手伝う時は、もっと心に響くように手伝わなきゃ……」
「ちっ、うるせーな! 気障男が!」
 シャーはそう言い捨てつつ、ゼダを無視して厨房の方に向かった。
「リーフィちゃーん」
 急に猫なで声になりつつ、厨房を覗くがリーフィの姿がない。
「あれ? さっきまでここにいたような」
「リーフィちゃんなら、マディールと足りない材料買いに行ってもらったよ。あんたたちが取り込んでる間にな」
「え? そうなの?」
 不意に店の奥から聞こえた声に、生返事しつつシャーは店の外に目を向けた。声の主はどうやら店主らしいことは気づいている。先ほどから姿は見えないが、”いる”のはわかっていた。
「どうせだったらオレが一緒に行ってあげるのに。ちぇっ」
「そういわずに、これでも食べて待ってればいいんじゃないか」
 ガッカリしているシャーに、背後から聞こえた声がそう続けてなにやら差し出してきた。焼きたてのお菓子が乗っている皿のようだ。やたらと良い香りが漂っていて、そんなに菓子の好きではないシャーでも、生唾が湧き出るのを禁じ得ない。
「え、ああ、すまないね」
 どこかで聞いたような声だが、別に敵意も殺気もないものだからシャーは取り立てて注意を払わず、皿を受け取った。
「そんじゃ、いただきま……!」
 そのまま、菓子をつまもうとして彼はぎょっとした。その焼き菓子、アーモンドの粉を練って作った焼き菓子だが、それが可愛らしいカワウソのように成形されていた。女の子が好きそうなちょっと可愛い動物の形のお菓子、だが、その時のシャーにとってはそんな平穏な気分ではいられない。
「悪かったですね、カワウソで……」
 同時にそんな声が間近で聞こえて、シャーは慌てて振り返った。
「えええええっ!!」
 ゼダに配慮して少し小声だが、彼は明らかに動揺して背後の男を見やった。
 厨房で明らかに菓子を焼いていた風な、甘い香りをさせた長身の男は、その赤い髪を今日は頭巾の中に隠していたが、それでもすぐに誰であるか判別できた。
「カワウソ……じゃなかった、ア、アイード……、な、なんで、こんなとこにいるわけ?」
 そこにいるのは七部将の一人、アイード=ファザナーその人だ。アイードはため息をつきつつ、
「それは俺が言いたい台詞ですけどね」
「な、何? ココあんたの店なわけ? な、何やってんの、こんなトコロで? つーか、リーフィ”ちゃん”とか言ったよね? なんで、あんたとリーフィちゃんが知り合いなのさ?」
 矢継ぎ早に質問を浴びせてくる主君を鬱陶しそうに見やりながら、アイードは首を振る。
「俺だって正直殿下に、この店の事知られたくなかったんですがね。あと、リーフィちゃんと知り合いなのは、俺がどうしてと聞きたいですけど」
 シャーに一杯食わせることができたせいか、アイードはいつもよりやや強気だ。間近で見ると緑がかった青い海のような色の目を、まっすぐにシャーに向けてくる。
「いや、それはその……。お友達に決まってるじゃん」
 シャーは、アイードの態度に少したじたじになりつつ、気を取り直して訊いた。
「いや、それより、アンタこそ、なんでこんなトコにいるわけさ! アンタには色々任務がある筈でしょ!」
「そ、それは、まあ、その……」
 痛いところを突かれて、アイードは少し困りつつ、
「い、いえ、息抜きです。根詰めすぎると士気が下がっちゃうから」
「ほーん、そうですかー」
 人の弱みを握るとシャーは、急に落ち着きを取り戻してきた。
「へへえ、アイードさんにもこういうサボリ癖があるとはねー」
「そ、それは、で、殿下も、同じでしょう?」
 シャーはそういわれても余裕の笑みを崩さない。
「オレは有名だけど、アンタのサボリ聞いたことなかったからねー。ほー、へー、ふーん、そうなんだー。アンタの叔父上に告げ口したらどうなるかなー」
「ちょ、ちょっと待ってください。それは、それは困ります!」
 アイードは、叔父のジェアバード=ジートリューの名前を出されて焦る。確かにあの真面目な叔父の事、こんなことをしているのがバレたら思い切り怒られてしまうだろう。シャーは得意げだ。
「黙ってるってば。そのかわり、オレのことも黙っていてほしいね。なんだ、オレ達同好じゃん。仲良くしてもらいたいね」
「殿下」
「ちょっ、その呼び方厳禁!」
 最初の勢いはどこへやら困った表情になってきた彼にシャーはびしっという。
「リーフィちゃんの前でそんな言い方したら、アンタ、簀巻きにして海の中放り込むから」
「え、ええ、……わ、わかりましたけど、じゃあどう呼べば」
 困惑するアイードに、シャーは意地悪な笑みを浮かべながら言い放つ。
「自分で考えてよ、テキトーなやつ。ね、カワウソ兄さん」
(この三白眼の屑野郎!)
 流石に面と向かって呼ぶと怒られそうな名前を思いつきつつ、アイードはぐっとこらえて
「わかりましたよ、それじゃ、三白眼さん……」
 三白眼ボーヤだの屑野郎だの、腐れ三白眼だの、湧き上がってくる悪口を含む呼び方を抑えてそう呼んでみる。何のひねりも無しかよ!! とばかり、シャーはいい顔をしなかったが、殿下よりマシなので文句はいわない。
「はー、まったく、相変わらずのカワウソっぷりだよね、アイードさんはさ」
 シャーはため息をついて肩をすくめた。頼りないな、と思っているのをシャーは全く隠さない。こう構えずに話せるのは彼のいいところだが、せめてもうちょっとしっかりしてほしい。
 そんなことを考えていた時、
「おーす!」
 いきなり威勢のいい声が聞こえて、小声で話し合っていた彼等ははっと入り口を見た。
「押忍! いないのかい?」
 もう一度、やたらと雄々しい挨拶の声が聞こえて、二人は入り口を見やる。
「あ、なんだ! そんなとこ隠れやがって!」
 と、そこにはその挨拶にはいささか似つかわしくないほっそりとした人物が立っていた。男にしては小柄だが、すらりとたたずんでいるその姿は小柄に見えない。この国でも金髪はそれほど珍しくはないが、金色の巻き毛をしていて青い目をしているのは目立ちはするだろう。しかも、女性にも見まがうばかりの繊細な顔立ちの美青年だ。
 服装からして船乗りのようだが、ただの船乗りでなく、軍の高級将校だということはいでたちを見てすぐに分かった。装飾品の多い剣を腰に提げているが、短めの片手剣だ。しかし、それも船乗りたちが使うもののようだ。
「なんだ、大将の店、こんなとこにあるのかよ」
 その美青年が、やはり似つかわしくない乱暴でからっとした口調で言った。
「なんだー、意外としけた店だなあ」
「ゼ、ゼルフィス」
 シャーの隣でアイードが唸ってあちゃーと頭を抱えた。
「ゼルフィス?」
 シャーがきょとんとして思わず鸚鵡(おうむ)返しする。その名はどこかで聞いたことがある気がする。それに目を留めた彼がシャーを見た。
「はは、名前に聞き覚えがあるってか。これは西方由来の名前だが、見かけによらず、アンタ博識そうだな」
 無遠慮に美青年は言い放った。
「実は、西方にゼフィルスって風の神様がいるんだ。私の名前はそこからきてるんだが、親父がそれを西の人間から聞いてうろ覚えしててねえ、それでちょっと間違いがあるのさ。だからゼルフィス」
 からっと明るく彼は言う。
「へ、へえ、そうなんだ。てことは、アンタ、西方の生まれかい?」
「ああ、ザファルバーンは北方から連なる内海、太内海(たいないかい)の沿岸の生まれさ」
 確か、ゼフィルスとは、西風の神。蝶のこともそう呼ぶのだと、誰かからうっすらと聞いたのをシャーは思い出す。確かに彼は西方沿岸の地理にさほど詳しくないシャーからしても、内海の異国情緒な気配を漂わせているように思えた。
「ゼ、ゼルフィス。一体何しに来たんだよ」
「え? そりゃあ、大将に報告しに来たに決まってんじゃねえか。私を何だと思ってるんだ?」
「え? 何だと、って何? あの人、どなた?」
 シャーが小声できくとアイードはため息をついて首を振り、小声で答えた。
「三白眼さんはそういやこいつと面識なかったですね。……俺のところの副官です」
「ええ? 副官?」
 こんな威勢のいいお兄ちゃんが? とシャーが顔を見合わせる。どう考えても覇気のないアイードでは、副官と釣り合いが取れなさそうだ。
「しかし、報告しにきたって、結構大事なことか?」
 アイードが尋ねると、ゼルフィスはにっと笑う。
「大事じゃねえけど、ちょっと気になることさ」
「気になることって?」
 ああ、といいながらゼルフィスは、椅子を引き寄せて乱暴に座った。
「川で不審な船を捕縛したんだが、その船員から懐かしい名前がでてきたので報告しにきたのさ」
「懐かしい名前?」
 怪訝そうなアイードに、笑っていたゼルフィスはちょっと挑むような目をしてこう告げた。
「”緋色のダルドロス”って名前」
 シャーには聞き覚えのない名前だったが、その名前を聞いたところで、はっとアイードが表情を変えた。
 そして、離れたところにいたゼダが、その名前に反応したことにまだシャーは気づいていなかった。 

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