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無双のバラズ-12

 *

 何となく脱力してしまったシャーと裏腹に、バラズはまだ賭博師無双のバラズとしての気配を保ったままだった。
「すまない。爺さん。本当にありがとう。おかげで店も俺も助かった」
 ファルロフは素直に頭を下げて礼を言った。
「いやー、別にいいんだよ。私はお前さんの持ってた指輪をあいつらに取られたくなかったからね」
「ああ、あの指輪か。どうやら何か曰くがあるみたいだな。いいよ、助けてくれた礼だ、爺さんに渡すよ」
「それはどうもありがとう。やれやれ、おかげで私も肩の荷が下りるよ」
 バラズは深々とため息をつく。流石にここで指輪を返してもらえないなどということになると、リーフィに面目が立たない。それ以上に、リル・カーンにどう説明していいかわからないところだった。
「あんた、すごいんだな」
 ファルロフが感心したようにつぶやいた。
「あの状況で、まさか獅子の五葉を引いてしまうなんてさ」
「ん?」
 バラズは、ふと扇を畳んで振り返る。
「はは、お前さんはまさか私が本当に獅子の五葉を引き当てたと思っているのかい?」
「いや、しかし、神の手もそうだが、あんたはそれ以上に……」
 ふっとバラズは笑みをゆがめる。
「あれこそ如何様だよ」
「え?」
 きょとんとするファルロフに、バラズははっきりと宣言した。
「流石の私もそんなにツキが回ってくるはずがないじゃないか。それに、相手は確実に如何様をしている。そんな状態で何もせずに勝つなんて無理なことだよ。乙女の札を一枚、相手がすり替える前に持ち出しておいたというわけ。奴がすり替えた筈の乙女の札は、私があらかじめ用意していたものだよ」
 といってから、バラズはあわてたように付け加えた。
「あー、でも、君との勝負に小細工はナシだったからね。私が如何様を使うのは、相手も如何様師だった場合のことさ。それ以外は男の勝負だからね」
 バラズはにやりとした。
「言っただろう? 外道と戦う時には外道と戦うなりの方法があるとね。あんな奴に正面から立ち向かって負けても、腹が立つだけだ。それなりのやり方で制裁を下す必要があるというわけさ。あの”神の手”は、昔から技術を誇りすぎて油断をする。私はそこを突いてやったのさ」
 ふと息をついて、バラズは尋ねた。
「ところで、指輪屋。お前さん、貴族の生まれだね」
「え? なんでそんなこと?」
 ファルロフがドキリとしてバラズを見やると、バラズは振り返った。
「爺さんがいただろう? ファルロフという名前のね。お前さんに最初に獅子の五葉を教えたのは、その男だ」
「あ、ああ、そうだ。俺は爺さんに名前をもらったから。しかし、なんでそんなことを?」
 いぶかしがるファルロフにバラズは笑って答える。
「お前さんの爺さんが、私の師匠だからさ」
 ファルロフが黙っていると、バラズは苦笑した。
「……はは、血は争えないものだねえ。昨日賭場で見かけてすぐに気が付いた。驚いたよ。横顔がよく似ているし、骨牌(カード)の扱い方もそっくりだ。それで思わず、熱が入ってしまった」
 にっとバラズは笑う。
「お前の爺様は、私が知る限り最強の賭博師で最高の如何様師だった。とても美しい賭博師だったよ」
 バラズはファルロフの肩を優しくたたく。
「お前さんも、きっと師匠のような男に育つのだろうね……。大丈夫さ。今日の敗北は、お前さんの糧になる。もっと強い男におなり。そうすれば、勝負の女神は、いつでもお前に微笑んでくれるようになるのだからね」
 シャーはそんな風に声をかけるバラズを見やる。どうやら二人には積もる話がありそうだ。
(邪魔しねえように、酒でも飲みに行くか)
 シャーも一応気を利かせて、そんなことを思いながら出ていくことにした。
 ビザンは人払いを舌とは言っていたが、貴賓室にはちらほらとまだ客が残っている。通路を歩いて酒をくれる給仕でもいないかなと探していたが、不意に、どうも視線を感じてシャーは立ち止まった。手前の、薄絹で区切られた区画の向こうで自分を見ている奴がいる。
「ん? んんっ?」
 なんだろう、この感じ、覚えがある。そっと近づきながら確かめようとしたとき、薄絹の向こうで相手の影がぽつりと言った。
「殿下……?」
「ちょ、ちょッ!」
 慌ててシャーは、その区画に飛び込んだ。相手の男は驚きの声も上げなかった。そこで一人で色気もなく酒を飲んでいるのは、一人の中年の男だ。ほっそりした長身で、理知的だがなにやら寡黙そうな男。そして、シャーもよく知る人物だった。
「ラ、ラダーナ……」
 呟くと、お静かにとでも言いたげに、ザファルバーン七部将の一人であるカルシル=ラダーナは、人差し指を口の前に立てる。
「……な、なんでアンタ……」
「バラズ殿とは親しくさせていただいておりますゆえ、相談を受け、心配になり昼間からこちらに……」
 ぼそ、とラダーナが答える。ラダーナは無口で知られており、シャー相手にもあまりべらべらと口を利かない。
「ええ、も、もしかして、あのジジイの情報の元ってアンタ」
 ラダーナは静かに頷く。
「マジで? ったく、あのジジイ、本気で油断ならねえな」
 シャーはうんざりした調子でため息をついた。
「何かバラズ殿に危険があれば、私が出なければと思っていましたが……」
「あー、オレが用心棒として一緒にいたんで出てくるのやめたのね」
 こくりとラダーナは頷く。相変わらず無駄口は叩かない男だ。
「そ、それはわかったけど、あの爺さんにオレのこと言ってないよね?」
「殿下のことは以前も今後も口外するつもりはありません故、ご安心を」
「そ、それならいいんだ。いや、アンタを疑うわけじゃないんだけど……」
 それにしても、と、シャーは唸った。
(世間狭すぎだろ。ってか、よりによってこっちとそっちが知り合いわけ?)
「ま、まあいいや。そういや、叔父貴の件とかいろいろ情報あったよね? よかったら、今度お屋敷に行くから、その他諸々いろいろ教えて……」
「御意」
 ラダーナの人形めいた顔を見上げて、シャーはため息をつく。どうも油断もスキもない。


 *


「なあ爺さん」
 帰り道。すっかり真夜中に差し掛かり、星は西の空へとおちていっていた。
 流石に今日は誰に襲われることもなさそうだ。その辺、ハーキムであるビザンも何か手を打ってくれたのだろう。さらにバラズは店で儲けた金の大半を店に寄付していったので、店から恨まれることもない。それはファルロフのメンツを考えての事だったようだ。
 バラズはファルロフになにやら助言をしていたようだが、その辺はシャーのあずかり知らぬところである。
 ふいにシャーに話かけられ、バラズは軽く振り返った。
「なにかいったかね?」
「そのさ、アンタの師匠は賭博師にして如何様師だったんだろ。アンタは、その人から如何様も学んだのかい?」
 そう聞かれてバラズは、扇をたたんだまま口元で振り回しながら頷いた。
「もちろん。私は、強くなるために手段を選んでいる場合ではなかったし、相手も、今日の神の手みたいな外道だった。そんな相手に使わないで、いつ使う技術だと思っているんだい? けれど、私は指輪屋のようにまっすぐに勝負をする者には姑息な手段は用いないよ。男の勝負なのだからね」
「それはわかってますよ。わかってるけどさ」
 ふっとバラズは何を思い出したのか笑う。
「そういえば、あの時もそうだったね。王の五陣で勝負を挑んてきた男を、私は獅子の五葉で返り討ちにしてやった」
「ああ、その話。ビザンのオッサンに聞いた。扇のバラズって言われてたんだろ? で、それに勝利して、無双のバラズと呼ばれるようになった」
「そんな昔のことは忘れたね。それに、現役の時にそう呼ばれた名前じゃないからね」
 バラズは、急にそんな風に突き放す。
「その点、扇のバラズは懐かしい名前さ。けれど、扇も師匠の案だった。元々は細工をするときに、人の目をそらすための小道具だったんだよ。人間は動いているものにどうしても視線を取られてしまうものだから。ま、もっとも、それだけじゃあないよ。相手の心理を操ろうとするときにも、役に立つ。その後は、もっぱら、その意味で使っていることの方が多いのだけどね」
「なるほどね。確かに有効に使ってるのはよくわかりました」
 あの時、バラズは右手の扇を左手に持ち替えてあおいで、そして右手で骨牌を交換した。おそらくそのときに彼は何か細工をした。シャーにもファルロフにも、ベーフールにも気づかれないほど巧妙にだ。
「お前さん、私が助けようとした娘さんのことを知りたがっていたね。そのことについて聞きたいんじゃないのかい?」
「え、あ、ああ、そ、そうだよ」
 本当はそのことが聞きたかったのだが、本人に図星をさされてシャーは何故か言いよどむ。バラズはまだ賭博師バラズの気配が抜けきっていない。シャーはどうも、こういうバラズが苦手だ。
 バラズは振り返って微笑んでいった。
「私が勝つことで解放された彼女はね、私の妻になってくれたよ。元々体が弱くて、長生きはできなかったけれど、私と一緒に時を過ごしてくれた」
「やっぱりそうなんだな。アンタは、手に入れた力で好きな子を助けたってことだね」
 それをきいて、何となくシャーは安心した気持ちになった。助けた後で振られたなどという話をきくと、他人事だが気がめいりそうだ。
「ふふ、きれいな手段じゃなかったが、確かに師匠の言う通りさ。その手段を使うことも、師匠が言うように”抗う”ことであり”戦う”ことだった。女神は美しく戦うものには微笑みかける。私は、それで彼女を」
 しかし、とバラズはふいに苦い表情になった。
「本当はね、私は、リーフィの時もそれを使うべきだったと思っているんだよ」
「リーフィちゃんの時?」
「そうだよ。彼女が身請けされる時の話。……妓楼の女を落籍する時に、複数の希望者がいるときに籤(くじ)が引かれる風習があるの、知っているだろう?」
「あ、ああ」
 シャーが答えると、バラズはため息を深くついた。
「私は如何様の名人さ。あの時、私は籤を引くべきだった。私なら、あんな籤、細工することなどわけなかった。そうすれば、彼女を悲しませるような男のもとに、彼女をやらないで済んだのに。……けれど、彼女は言った。私には後見人になってもらいたいと。神聖な籤引きに、そんな穢れた手段を用いてはいけない。きっと私も彼女も不幸になってしまうだろうとね。その結果、彼女は屑男のもとに身請けされることになってしまった」
 バラズは扇を広げて、夜空を見上げた。
「私は随分と思い悩んだものだよ。でも、彼女が自由の身になった今となっては、彼女の言う通りだったかもしれないと思うこともある」
 バラズは軽く目を伏せた。
「彼女にとってその役目を負うべきは、私じゃなかったんだねえ」
 そういうと、いきなりバラズは立ち止まる。シャーが慌てて足を止めると、バラズはさっと振り返った。
「時にお前さん、あの指輪の話は本当かな?」
 バラズにまっすぐ睨み付けられ、扇を突きつけられてそう尋ねられ、シャーはびくりとした。
「え? ゆ、指輪?」
「恐れ多い王様の名前まで出してまで、相手を煽っていたじゃないか。指輪だよ。お前さんの左の中指にはまっているそれさ」
 ギクとして思わず左手をおさえつつ、シャーは苦笑した。
「え、ええ、あ、あー、あれは、その、似たような奴を質流れで手に入れてたから、そのハッタリに使っただけで……」
 ふっとバラズは嘲笑うように唇をゆがめた。
「どうやらお前さんの秘密は、一つや二つじゃないらしい。だが私は認めないよ。王様も前の王様も良い方には違いないだが、あの王家と関わるとロクなことがないからね。お前さんの身分が高いか低いかしらないが、どっちにしてもリーフィはやらないんだから」
「え、いや、だから違うって……!」
 否定するシャーだが、バラズは取り合わない。
「そもそも、お前さんにはできるかな?」
「え? な、何がさ」
「私は妻を手に入れる為に必死に戦い、彼女を奪い返した。お前さんもリーフィに振り向いてもらいたいなら、何もかも捨てて戦って、彼女をさらって逃げるぐらいの覚悟が必要だ。お前さんにはそんなことができるかな?」
 挑むようにバラズは笑う。
「ちぇっ、何だよ。信用ないんだな、オレ」
 シャーは、思わず苦笑した。
「そりゃ、爺さんみたいにうまくできるか知らないけど、オレも女神さんに気に入られるぐらいには、頑張って戦ってみようとは思っているぜ」
 にやりとシャーは笑った。
「リーフィちゃんは手ごわいから断言できないけどさ。でもいいの? そんなことオレに教えると後悔するよ、爺さん。リーフィちゃん、かっさらっちゃうかもよ?」
「大丈夫。リーフィは手ごわいから何も心配してはいないよ」
 バラズは、ふっと笑ってシャーに背を向けた。
「それでは、さっさと帰ろう。お前さんと付き合っていると夜明けが来てしまうよ」
「それはオレがいいたい台詞だっての」
 自分が長話にしたくせに。シャーは口をとがらせながら、バラズの後をついていった。

 
  *
 
「本当に、心配しましたよ。殿下」
「本当にすまなかった。ナズィル」
 翌日、隠れ家にはリル・カーンの後見人であるナズィルが自ら迎えに来ていた。
「本当に皆さんにはお世話になりました。バラズ先生にもリーフィさんにも……」
「指輪が見つかってよかったわね、リルくん」
 リーフィがうっすらとほほ笑んで言うと、リル・カーンは頷いた。
「ええ、バラズ先生とシャーさんのおかげです」
「シーマルヤーン殿にも、まことに迷惑をお掛けいたしました」
 ナズィルが礼を言うと、バラズはいやいやと手を振った。
「気にすることはありません。まあ、これも何かの縁というもの。無事に殿下に指輪をお返しできて何よりでした」
 そんな風に答えるバラズは、もはや普段のファリド=バラズで、あの賭場で見せた気迫も殺気も何もまとわない、ただののんびりした男だった。今日も猫を連れてきていて、バラズの足元でごろごろと地面の上に寝転がっている。
「どうにか一件落着のようだな」
 隣で茶を飲むジャッキールにそういわれて、シャーは大あくびをしながらため息をついた。
「ちッ、他人事だと思いやがってさ。大体、なんでダンナ、ビザンの事オレに話してくれなかったわけ? あのオッサンがハーキムだって知ってりゃ、もっと話は早かったのにさ」
「聞かれなかったからな」
 ジャッキールは、つーんとすました顔でそう答える。
「第一、あの男、積極的に隠しもしていないが公にもしていない。必要ないと思ったから言わなかった」
「だけど、オレには教えてくれてもいいでしょ? そろそろ付き合いも長いのに、ひどいよねー、ダンナってば」
 シャーが拗ねた口ぶりでそういうと、ジャッキールはやや気まずそうにしている。もう少し苛めてやった方がいいだろうかと思ったとき、隣にいたザハークが、まあまあととりなしてきた。
「エーリッヒは、気のきかんところもあるからなー。しかも圧倒的に素直でないし、謝るのが下手だから、本当は、言わなくて悪かったと思っているんだが、言い出せないだけだ。まあ許してやれ」
 手元で珈琲のいい香りを立ちのぼらせながら、ザハークがそういうとジャッキールがむっとして彼をにらむ。が、ザハークは全く相手にしていない。
 この二人相変わらずらしい。
「蛇王(へびお)さんがそういうんじゃ仕方がないねえ」
「皆様にもご迷惑をお掛けしました」
 ナズィルがこちらに歩みを進めてきて、彼らに深々と頭を下げる。
 ザハークはそのままだが、ジャッキールはあわてて立ち上がって、いやいやと声をかける。つられてシャーも立ち上がってしまった。
「殿下は、外に出てここまで楽しい体験をしたのは、生まれて初めてだとおっしゃっておりました。本当に、皆さまにはお礼の言葉しかありません」
「いや、私などは余計なことをしてしまったのではないかと心配していたが……。そうおっしゃられたのであれば、私も気が楽だ」
 思わず、お抱え武官のような口をきいてしまうジャッキールである。
(なんだ、そっか)
 シャーは、そんなナズィルとジャッキールの会話を聞きながらぼんやりと思う。
(リルがいい子なの、ちゃんとした人に育てられたからなんだな)
 あの女狐サッピア王妃。シャーにとっては仇敵でしかない女。その一味であるはずのナズィルは、しかし、とても優しく親切だ。カッファが自分にするように、リル・カーンを愛していつくしみ育てているのだろう。今まで、どうせ彼らは自分のことを恨んでいるのだろうと思っていたシャーには、何故かそのことが意外であり、感慨深く感じるのだった。
 そんなことを考えていると、不意にリル・カーン本人が近づいてきた。
 その左手の中指に昨日シャーが取り戻したばかりの指輪が収まっていた。収まるべきところに収まっているそれは、リル・カーン自身を落ち着かせているようだった。今の彼は、確かに王子としての気品も自信も取り戻している様子だった。
「ジャッキール先生もありがとうございました」
「ああ、俺の言ったことを忘れんように励むのだぞ」
 妙にジャッキールがそんな師匠面をするので、シャーはきょとんとした。
「え? 何、先生って何?」
「い、いや、その……」
 シャーが素っ頓狂な声を出すと、ジャッキールはちょっと恥ずかしそうにしている。
「坊主の剣術の先生だからなー、エーリッヒは」
「蛇王さんも先生ですよ。弓矢を教えていただきました。お二人にはとてもよくしていただいて……」
 ザハークが口を挟むと、リル・カーンが楽しげに微笑んでそう付け加えた。
「はは、そうだったなー」
「ちょ、ちょっと、オレの知らないところで、リルに何教えて先生面してんの? アンタたち」
「い、いいだろう、別に。それぐらいの武芸は、この国男のたしなみではないか」
 ジャッキールがそういうと、ザハークが頷いて静かに付け加える。
「まあ、強くなりたいという、いたいけな少年の願いを断れない大人だからな、俺たちは」
「アンタらむしろ大人ってか、でっかい子供みたいなもんだけどね」
 シャーは思わず毒づいた。
「シャーさんも……」
 と、不意にリル・カーンに声をかけられ、シャーはあわてて振り向いた。リル・カーンは、改めて頭を下げる。
「シャーさんも、本当にありがとうございます。バラズ先生と一緒に指輪を取り戻してきてくれて、本当にありがとうございました」
「はは、困ったときはお互い様だろ。気にするなよ」
 礼を言われてやや照れたように答えるシャーだ。
「第一、一番活躍したのは、バラズの爺さんだからな。あっちに礼言ってくれりゃいいって。オレはついていっただけだから、今回」
 リル・カーンは頭を上げた。
 背の高いシャーが頭をかきやるその左手の中指に、銀の指輪が嵌っていた。リル・カーンは思わずそれを見た。
 普段シャーは指輪をしない。剣を握ったときに、それが柄に当たる感触が気に食わないからだ。しかし、昨夜は帰りが遅く、シャーは帰り際に左手にはめた指輪をそのままにして寝てしまっていた。そして、まだそれを外していなかった。
 王家の指輪は、何の変哲もない銀の指輪。かすかに形状や装飾はあるが、基本的には質素な銀の指輪だ。ところどころ、手入れが悪くて変色しているその指輪だったが、しかし、身に着けている当事者は、四六時中見ている為に本物の特徴をよく知っている。
 ギライヴァー=エーヴィルがそうであったように、リル・カーンも。
「貴方が、もし……」
「え?」
「いえ」
 きょとんとしたシャーに、リル・カーンは少しためらった後にはっきりした声で言い直す。
「私の兄が、貴方のような方ならよかったのに……」
 シャーは、その言葉に一瞬詰まってきょとんとし、それから一拍置いてようやく意味がわかったというように、ふっと笑った。
「馬鹿なこと言うなよ、リル。お前の兄ちゃんが、オレみたいな、半端者のどうしようもねえ与太者(よたもの)だったら、ホント大変だぜ? まかり間違ってもそんなこと言うなってば」
 わざと明るい声でそういいながらシャーは、リル・カーンに優しく微笑みかけ、肩に手をかけた。
「でも、嬉しいぜ。そんな風に言ってくれたのさ」
「はい」
 リル・カーンは嬉しそうにうなずいた。
「また、遊びに来てもいいですか?」
 そう聞かれてシャーは、にっこり笑って答えた。
「もちろんさ。いつでも来いよ」
 外の空気は、晴れやかで清々しかった。いつもそうだが、こういう日はシャーとていつも以上にのんびりしたいものだ。
 少し眠いが、昼からはリーフィの酒場で茶での飲んでゴロゴロしようか。ああ、しかし、それにはリーフィの横にいるファリド=バラズが邪魔をしそうだ。大体、今だってリーフィの足元にはバラズの猫がすり寄っていた。どうも今日は相手にされそうもない。
 爺さんが心配するまでもなく、普通に難攻不落すぎるよ。
 シャーはこっそりとつぶやいて、猫のように伸びながらあくびを一つしたものだった。

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