シャルル=ダ・フールの暗殺
4.青兜-4
ジャスミンの花がいいな……
オレはあの花の香りが好きだから……
だから、ジャスミンの花でも添えてくれ。
オレが、もし、この戦で死んだら…………
青い兜と一緒に、花を土塊の上にふりまいてくれ……
贅沢かなぁ、オレがこんなこというの
でもさあ、オレの唯一の願いなんだよね
ほかにはなにも望まないよ
だったら許してくれるかい?
だから、お願いだよ
……ジャスミンの花を添えてくれ…………
暗い地下の石室。しんしんと身に響く冷たさ。ラティーナは、寒そうに膝を抱えた。こんなに寒いところに、シャーも残されているのだろうか。それとも、すでに…………。
(シャーは…………どうしたかしら。)
あの男は、シャルルの密偵(イヌ)だ。
そういわれても、まだしっくりとは来なかった。確かにあんなに強いし、疑わしい言動も多いが、シャーはラティーナを守っていた。あれが、彼女の信頼を得るための芝居だったとは思えない。
かといって、疑いを完全に振り切る事もできない。何にしろ、シャーには謎が多すぎる。
(もう、どうでもいいわ。あんなやつ。)
ラティーナは、目を閉じる。考えると、今にもシャーの悲鳴が聞こえてきそうで、心配でたまらなくなる。
それに、騙したのは彼だけではない。ラティーナも、シャーを騙したのだ。
(こんなことになると思わなかったから……)
シャーが本当はラティーナを罠にかけたのなら、彼は殺されても仕方がない。計画の秘密は守らなければならない。だが、シャーを心配する気持ちと、敵であるシャーを責める気持ちは、ほとんど半々で、ラティーナは自分の気持ちを整理できなくなっていた。
(ラハッド……。あたし、どうすればいいの?)
冷たい部屋の中、不意にラハッド王子の顔が思い浮かんだ。つらいときは、あの人の面影が瞼にちらつく。
死んでしまった彼女のフィアンセ。シャルルさえ、王位につかなければきっと王位についていたはずの好青年。くるくると巻いた黒の巻き毛と父親セジェシス譲りの麗しい容貌。
あんなに無茶苦茶をやったのに、セジェシス王は、たいへん美男子だった。もっとも、行動は豪放そのもので、まったく繊細さを感じさせず、かなりアンバランスな男だったが。ラハッドは、彼の容貌は受け継いだが、性格はまるで受け継がず、とても穏やかで優しい人だった。むしろ、優しすぎて、覇気はなかった。ただ、凛としていて気品があって、王たる風格が備わっていた。弟のザミルを、もう少し温厚にした感じの青年だった。
そして、彼女にとっても、とても優しい人だった。ラティーナがわがままを言っても困った顔をするだけで、それを黙ってきいてくれた。
(ラハッド……)
ラティーナは、思い出す。彼が死んだのは、彼女が内乱を避けて王都の近くのギルギルスの町に避難していたときだった。知らせをきいて駆けつけたラティーナの前には、もはや冷たくなったラハッドが眠っているだけだった。周りに訊いたところ、毒の入った酒を飲んだのだという。最初は自殺なのかと思って哀しくてつらかったが、それが陰謀による毒殺だと知ってラティーナの心は、憎悪に煮えたぎった。犯人をみつけて絶対に殺してやると。彼女はその時に誓った。
そんな折に、王位についたのがシャルル=ダ・フールである。彼が王位について、全てが終わって、その時、ラティーナは、ラゲイラから思わぬ事をきかされた。
『ラハッド王子を殺したのは、シャルル=ダ・フールだ。』
そう推測すれば、矛盾は出なかった。そもそも、シャルルが王位につくためには、もっとも継承の可能性が高かったラハッドがいなくならなければならないのだ。
そのときから、ラティーナは何とかシャルルを暗殺するために情報集め、準備を整えてきたのである。それが、人違いという些細な……あまりにも些細なミスにより、全てが水の泡になってしまうなんて……思いもしなかったのだ。
何も考えたくなくなり、ラティーナは、昔の思い出に浸ることにした。ラハッドと一緒にいたときの、幸せな記憶の中に逃げ込めば、少しはこの辛い状況を乗り切れるような気がした。
ラティーナは、ラハッドと買い物に出かけた日のことを思い出した。その日は、さる王子の遠征隊が都を出立する日だったらしく、別れを惜しむ人々が門の前にあふれていた。
戦場に向かう兵士、将軍のなかで、そういえば、一人、ラハッドの元に駆け寄ってきたものがいた。全身を鎧で固めて、青い羽飾りのついた兜を目深に被った青年。青いマントが目に痛いほど鮮やかだった。兜が青年の顔をほとんど隠していたから、だれだかは外からはわからなくなっていた。身分はそれなりに高そうだが、しぐさはまるで一般兵士である。
彼はラハッドを見つけると笑いながら駆け寄ってきた。
「ああ、ラハッド!あんた、ラハッド王子だろ?」
ラハッドが、困っているのも構わず、青年はぱんぱんと彼の肩を叩いた。背は高かったが、体格が悪い。痩せすぎで、少し猫背なせいか、実際よりも背が低く見える。
「オレだよ、オレ。忘れたかな。ま、いっか」
ラティーナは、無礼を咎めようと口を開きかけたが、ラハッドは苦笑しながらラティーナを止めた。
青い甲冑姿の青年は、なれなれしくラハッドの肩に手を回して酔っ払いのようなしぐさをしながらいった。総じて彼はふらふらしている。
「なぁ、……あんたは優しいから……きっと大丈夫だと思うんだよ」
青年は、笑っていたが寂しそうな口調だった。
「オレがもし、この戦で死んだら……白いジャスミンの花をどうか墓に手向けてくれな」
青年が唐突に不穏な事をいうので、ラハッドもラティーナも顔をしかめたが、その青年は本気のようだった。
「……あぁ、オレって、生きてる時から花がないだろ? せめて、あっちじゃあいい匂いに囲まれてえんだよ。なあ、王子様。頼んだぜ」
「それは……」
ラハッドが何か言いかけたとき、青年はラティーナを見た。そして急にはやし立てるような口調に変わった。
「おお、こりゃ別嬪だね! やるなぁ、ラハッド王子!」
「な、何! 失礼な!」
ラティーナが、かっとしかかったとき、青年はその怒りを恐れるようにささっと身をかわした。
「あはは、冗談、冗談」
それから、彼は不意に静かになるとうっすらと微笑んだ。
「……あんたも一緒にお願いな……。綺麗どころも一緒なら、オレは十分満足だ。なぁ、ジャスミンの花だ。頼んだぜ」
青年はそういうと、馬にまたがった。一瞬振り返ってにやりとすると、サッと手を上げた。青い羽飾りにマントがひどく哀しく見えた。
やがて青年の姿は軍勢の中に紛れて見えなくなった。
そういえば、あの青年、どうしたんだろうか。と、ラティーナは思った。ラハッドがどうしたかは覚えていない。ジャスミンの花など手向けた覚えもない。ただ、あの時のあの青年の容貌が、なぜか不意に克明によみがえってきた。
「あ!」
ラティーナは小さく叫んで口を押さえた。
あの青年、どこかで見た事があるような気がする。馴れ馴れしい態度、酔っ払ったような歩き方、そして、あの口調……。
先程まで……そんな人間と一緒にいたのではなかっただろうか……。
「……シャー…………」
ラティーナは呟いた。
あの青年は、シャーによく似ているのである。背格好に口調に声。どうして今まで気づかなかったのだろうか。
なぜ、シャーがあそこにいたのか。どうして、ラハッドを知っていたのか。
それは、シャーがシャルルの手のものだと考えれば、全て納得できるような気がした。だとしたら、本当はシャーは、自分の主君の暗殺を止めるために、ラティーナに近づいてきたのだろうか。親切面して、何度も助けてくれたのも、そのためなのだろうか。
「シャー……どうしてよ」
もう、何が何だかわからない。頭が痛くなりそうで、心がばらばらになってしまいそうだ。
彼女は、心の中の、優しい彼女の恋人の笑顔を思い浮かべた。涙が浮かびそうになり、ラティーナは唇をかんだ。
「お願い、……本当の事を教えて……ラハッド……」
彼女がそう呟いた時、いきなり外で声が聞こえた。
「これはお客人」
「……あぁ、お役目ご苦労」
男の声が聞こえる。
「ご主人から娘を連れてくるように言われてね、私に引き渡してもらえないだろうか」
男は慇懃な調子で言った。そして、しばらくささやくような声が聞こえる。その密談が終わった後、看守の声が聞こえた。
「ああ、いいですよ。全部お任せします」
よほど信頼の置ける男なのだろうか、看守はあっさりと彼にラティーナを引き渡す気になったようである。やがて、がちゃりと錠の開く音がし、きしみながら扉は開いた。かつかつと、靴音がし、ラティーナはようやく顔を上げる。そして、驚いて叫んだ。
「ハダート=サダーシュ!」
銀髪の男は、苦笑した。
「困ったな。そこで名前を言われると、あまり俺としてはなあ」
そこで笑っているのは、ザファルバーンの七部将の一人である筈のハダート=サダーシュ、その人だった。