女の足は思ったより速い。もしかしたら先ほどの女とは違うのかもしれない。ようやく、彼は気づき始めていたが、もうどうでもよかった。
女であればいい。そう、今夜の獲物は女であればいいのだ。
なぜ気づかなかったのか。
彼は、握り締めた剣に力を込めた。ぎりり、と、皮を巻いた柄がきしんだ音を立てる。それが心地よく、彼に語りかけてくるような気がして、彼は再び、「答え」を求めようとするのだ。
そう、なぜ気づかなかったのか。今まで、斬ったのは男ばかりだった。昨夜、あの少女を斬っておけば、何かわかったかもしれないのに。
彼はそう思う。
ハルミッドの剣の業は玄妙すぎて、並みの玄人にもわからない。彼の作る剣は、なにか、とてつもない魔力のようなものを秘めていることが多かった。
けれど、側で見ていても、こうして剣をとっても、師の剣の秘密はわからなかった。だから、彼は最終手段に出たのだ。
 それは、人を斬ることである。
 師は、剣を決して芸術品にはしなかった男だ。この剣、メフィティスが、どこか異形味をおびているのは、師がこれを芸術的な目的で作らなかった証拠でもあるのだ。ハルミッドは、剣を実際使われるものとしてしか作らなかった。
 そして、剣の実用は、人間同士の戦に最も求められるものである。そして、あのジャッキールは、何かしら師の求めるところを掴んでいたようだった。あんな傭兵如きにわかるものではないはずなのに。
 だから、彼は思ったのだ。無差別に人を斬っていけば、なにかわかるのではないだろうかと。師の剣の秘密が。そうすれば、自分も、いい剣が作れるかもしれない。
 師は、ほとんど自分に剣を作らせてくれなかったが、自分でも、師のような剣は作れるはずなのだ。その秘密さえ知れば――。
 いいや、それは、本当は、彼が美しく異形の姿のメフィティスに誑かされてそう血迷っただけのことかもしれない。だが、彼はそれを信じた。
 そして、掴んだのである。師の剣の秘密を。師の狂気的な剣に注ぐ気持ちを。
 しかし、最後のひとつがわからない。実際、今日も剣を打ってみたが、師の持つ独特の気品と美しさだけが出なかった。
 ――なぜだ。
 彼は考え、すぐに思い至った。そういえば、今まで、男ばかり殺してきて、女を一人も殺していなかった。きっとそのせいだ。
 美しさと気品は、きっと女の血を吸わなければわからない。私の本当の姿は、女の血を吸わなければ見られない。この美しい夜に。この美しい満月の光を浴びて。
 メフィティスが優しく囁いたような気がしたのだ。
 ――そして、彼はその言葉に従うことにした。

 目の前の女は、まだ走っている。あれを逃がすわけにはいかなかった。先ほどの女であろうがなかろうがどうでもいい。とにかく、今夜、この満月の夜、それが最後のチャンスなのだ。




 鋭い金属の音が交わる音が、立て続けに聞こえていた。悲鳴があがり、身を翻し、背後にした相手が倒れる。シャーは、後ろに振るった刀を軽く持ち替えて、後ろは見ないで前を見やった。
 泡を吹いて倒れている男は、気絶はしているものの、死んではいないようだった。数人、その場に倒れているのが見えたが、後は逃げてしまったものもいるのだろうか。そこにいる人間はまばらになっていた。
「カディンさん、いるんだろう!」
 シャーは、にやりと笑いながら声をかけた。
 闇の中、腕利きらしい男に守られている色の白い男が、月光で青白く見えていた。
「下郎、貴様……」
 挑発されたと感じたのか、歯噛みするカディンにシャーは軽く刀を回しながら言った。
「さて、オレはジャッキールと違って、多少の手加減はしてやるけどな。悪行が過ぎたアンタには、貴族審理院のジジイ共が、鬼の形相でお待ちだぜ」
 貴族審理院は、その名のとおり、貴族を専属的に裁く部署である。主に、ザファルバーンの旧王族・貴族や現王族とその外戚が対象となっている。内乱が起こった経緯もそうだが、この国は彼らをどうコントロールするかが平和な治世を長引かせる条件になっていた。
「ジャッキール(アイツ)は、火の粉を払う程度の気持ちしかなかったみたいだが、オレにはちょっと個人的な理由があってね。アンタみたいな、貴族をのさばらせておくわけにもいかねえ事情もあるのさ。貴族審理院のジジイには、それほどの義理はないんだがな」
「貴様が何を知っているというのだ!」
 カディンは、ややヒステリカルな声で叫んだ。
「貴様が訴え出たところで、証拠などあがるものか!」
「そうだな。オレにはあんたを糾弾する証拠がないね。だけど、たたけばいろいろ出てくるだろう? それに、あんたには現時点でちょいとききたいことがある」


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