酒場から聞こえてくる声は、妙に明るい。近づいてくるごとに、それは普通に歓声だということがはっきりわかり、シャーは首をかしげた。あんな悄然としていた連中が、何をいきなり騒いでいるのか。
 酒場に出る扉を開け、シャーは怪訝そうな顔のままそこから現れる。そして、シャーは、思わずきょとんとした。
「あ、兄貴! いらしてたんですかー!」
 しらじらしく舎弟たちが声をかけてくる。普段なら少々腹をたててもいいのだが、シャーはそれに気がつかないほど、別のものに気を取られていた。
 ちょうど、弟分たちに囲まれている男がいたのだ。
「いや、本当にすみません。無理をいってしまいまして」
「いえいえ、いいんですよ〜。どうぞ、ご主人様によろしく」
 ぺこぺこと頭を下げる男に上機嫌で声をかける舎弟たちをみつつ、シャーは、思わず唖然とした。
「ちょ、ちょっと待て! お前達、そこにいるのは……」
「えっ? ああ、兄貴。こちらの方は」
 そういって弟分たちが、示したのは、どことなく気の弱そうな顔立ちの青年だ。だが、彼の顔を見た途端、シャーの顔が、大きく歪んだのはいうまでもない。
「商家のリャタン家からいらした方だそうですよ! 何やら、兄貴がそこのお坊ちゃんを助けたそうで……それで、オレたちにまでおごってくださってですねえ!」
 上機嫌の弟分たちの様子に、シャーは思わず声をあげそうになったが、それを押し殺す。
(何いってやがる!)
 ごまかしに笑ってみたが、思わず唇の端がゆがんだ。
(悪名高いカドゥサ家の間違いだろうがよ!)
 思わず私情が噴出してしまいそうなシャーだったが、かろうじて食い止める。
「今日は、ご主人さまの命で、こちらの方にお酒と料理を振舞いに参りました。よろしければ、シャー様も」
「いや、兄貴に気をつかわなくてもいいんですよ」
 ゼダがそういうと、周りの舎弟たちがちやほやする。どうやら、酒と料理をおごられてすっかり買収されているらしい。
「兄貴なんて、ちょっと頭下げとけばそれで十分礼になりますって」
「そ、そうですか。ありがとうございますー」
 ゼダは、多少戸惑ったふりもしつつ、にこにこ笑いながら、人のよさそうな顔を向ける。どちらかというと童顔のゼダは、こうしていれば、穏やかでかわいらしい顔立ちの心優しい少年にも見えそうなのであるが。ちらりとシャーに目を向けたとき、それは一瞬にして、蛇のような視線に変わる。
(こ、この野郎ッ!)
 シャーは、ぎりりと歯噛みした。挑戦だ。これは挑発に決まっている。
(この野郎! オレの聖域たる酒場でえええええ! いつの間にか、人気者になってるんじゃねえか!)
 ついで、ゼダの唇が一瞬歪んだのをみて、シャーは、思わず眉を引きつらせた。これだ。間違いなく、コイツはあのネズミ野郎だ。
 舎弟に向けたとき、すぐに偽の笑顔がはり付く辺り、正直自分よりもたちが悪いとシャーは思う。
(あの顔見ろよ! アイツの本性はアッチなんだよ! あっち!)
 いらいらするシャーに、ふと嫌に愛想のいい笑顔を向けながらゼダは言った。
「ああ、でも、シャーさん。少しあなたとはお話があるのです。よければ、表にでてくれませんか」
(喧嘩売ってんのか、コイツ!)
 表に出るということは、イコールで勝負しろととっても仕方のないことだ。それをわかっていっているのだろうか。いや、わかっていっているのだろうな、とシャーは納得した。
「いいぜ。お望みどおり表で話しをしましょうじゃありませんか。表でね」
 シャーの浮かべた笑顔が凍りついていることに、弟分たちは気付かない。彼らは、ゼダの持ってきた金で頼んだ料理と酒が運ばれてきたので、そちらを見ているのだ。わいわい騒ぎ始めた彼らに、一度ちらりと目をくれて、ゼダは偽の笑顔を捨て去ると、ふっと歪んだ笑みを見せた。



夜空に笑い声が響き渡っていた。明らかに対象を馬鹿にしたような声に、シャーは、えらく不機嫌な顔をしたまま腕を組んでいる。もちろん、その対象が自分をふくんでいることをしっているのでなおさらだ。
ゼダという男は、すぐに目の色が変わる。先ほどは、どこにいるかわからない死んだような目をしていたくせに、今といえば、どこか獣を思わせるような生命力を感じさせる目だ。
 ふははははと軽い声で笑い転げるゼダに、そっぽをむきつつシャーは言った。
「なんでぇ。言いたいことがあるならとっとと言えよ!」
「いやあ、はっはっは、愉快だなあと思ってよ」
 笑いを止めて、ゼダはにんまりと笑った。
「なあにが愉快だ! ネズミ野郎!」
「何がって? お前の連れの頭のめでたさに笑ってんじゃねえか」
「うるせえっ! 大体なんでこんなところにいるんだよ! てめえ、よりにもよってオレの聖域でー!」


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