いつの間に入ってきたのかはよくわからない。たくさんの灯りで煌々と照らされながらも、この部屋にも夜の闇がある。それに紛れて忍び込んできたのか、兵士に紛れながらそうっと現れたのか――、どちらにしろ、彼は兵士達がザミルとカッファに目を奪われている内に、部屋に忍び込んでいたようだった。
 シャーは、その時無表情だった。そうしているとまるで別人のようだった。だから、ラティーナは一瞬名前が出てこなかったのだ。その「殿下」と呼ばれた男の名前が。
「……シャー…………」
 シャーはこちらを向かなかった。ただ、真剣な面もちで、ザミルの方を睨み付けていた。
「カッファ、下がれ。……あとはオレがやる」
「は、はっ」
 静かな彼の声に、思わず気圧されてカッファは反射的に応えた。
「シ、シャルル…………」
 レビ=ダミアスが、声をかけるとシャーはようやくそちらに顔を向けてにっと笑った。
「兄上、お久しぶりでございます。相変わらず顔色が悪いんじゃないの? ちゃんと静養しなきゃ駄目だっていつも言ってるでしょうが」
 シャーは、そういってレビに軽く挨拶をすると、ザミルの方を見た。
「ふふん、人のお部屋で勝手な真似してくれるじゃなあい? 不作法な弟だな、ザミル君。大体、なんつーまねをするんだよ。ラティーナちゃんはお前の姉御だろ? で、レビ兄上とカッファにも、敬意を表さないといけないんじゃないのか?」
「シャルル=ダ・フール……!」
 ザミルは、ぽつりと呟きながら、目の前のへらへらした男を見た。緊張感のかけらもないくせに、妙な殺気がその背筋あたりから漂ってきていた。
 そして、部屋の片隅にあるまっぷたつにされたテーブルを見て、ああっと声を上げた。
「あっ、うそん……。あの机、使い物にならないじゃないかよ」
 わざとらしく、そんな情けない声をたてながら、シャーはザミルの方を見た。
「オレ、あの机気に入ってたのよねえ。後で弁償してよ。もー、ザミルちゃんなら、そのくらい払えるんでしょ?」
「ふざけるな!」
「ふざけてなんかないさ」
 シャーは、ふっと表情を固め、少しだけ口調を変えた。
「オレは常にまじめだぜ。ザミル」
 そして、口許だけを綺麗にほころばせた。それは、貼り付けたような笑みだったが、奥に潜む怒りが透けて見えるような笑みでもあった。ラティーナは、思わず身をすくめた。シャーのそんな顔など一度も見たことがなかったからだ。
「ああ、そういや、お前とこうして差し向かいで口をきいたのは初めてだったな、ザミル。それがこんなことになって、オレは悲しいぜ」
「都合のいいときだけ兄のように振る舞うな」
「冷たいなあ、ザミル。お兄ちゃんは辛いな。それとも何か?」
 シャーは、冷たい視線をザミルに向ける。
「戦ばかりしてたような野蛮な兄に親しみなんかもてないか? それもそうかもしれねえな」
 痩せた体をふらっと寄せて、シャーは、普段とは違う眼差しでザミルを見ていた。不穏ではなく、その目にあるのはおそらく憤りと寂しさの混じった複雑なものだった。
「種明かしをしてやろうか、ザミル。……お前はオレの事、つまり、アズラーッド・カルバーンと名乗る男が影武者だと思っていただろう? それはオレとカッファと将軍数名で組んでついた大嘘さ」
 黙り込んでいるザミルに、彼はそういってため息をついた。
「街生まれのオレには、王子だの将軍だの扱われるのは窮屈でねえ、それで名も無き青兜として通したのさ。時々、それでもシャルルとして扱われることもあったみたいだが、そのせいで、陣中にシャルルが二人いる、つまりどっちかが影武者だって説がたっちまって……でも、オレはそれでいいとおもった。だから、その噂を利用して、ずっと影武者の振りをしてたのさ。なかなか居心地は良かったぜ」
 そうして、きっとザミルに目を向けた。その目に複雑な色が浮かんでいた。
「笑えるだろ、ザミル。影武者と言われてたのが、まさか本人だったなんて……。情報操作なんて、案外簡単なもんだ。……オレが病弱だって事にしておけば、今ならどこでだってそれでまかり通っている。そうだろ?」
 ザミルは応えない。シャー、いやシャルルは微笑を口に、そのままゆっくりと近づいてきた。
「なぁ、オレのかわいいザミル」
「よるな!」
 ザミルは不快そうに顔をしかめ、手の剣をひきつける。シャーは気にせず、ふらりと彼に近寄っていく。
「つめてえ奴の多い兄弟のうちで、お前のにーちゃんはオレに優しかった。遠征ばかりで疲れ果ててたオレを慰めてくれた。といっても、あいつ、オレの顔もろくろく覚えない内に死んじまったみたいだけど……。兜なんて被らなきゃよかったぜ」
 くっとシャーは苦笑した。


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