(あの方は、すばらしいお方だった。もう、あれほどの逸材は居るまい)
 生死不明の先王が生きてさえいれば、自分もこんなことをしなかっただろう。ただ、あの宰相のハビアスのやり方が気に食わなかった。シャルルにも恨みはない。セジェシスがいないのなら、誰かが後を継がなければならない。ラゲイラは、別に誰が王になろうと構わなかった。ハビアスが強引にシャルルを即位させて、さっさと引退してしまったことが気にくわないだけなのかも知れない。
 ラゲイラは静かに自嘲した。これでは、まるで彼への嫉妬のために行動しているようなものではないか。
「卿も時には恐ろしくなるのか?」
 ラゲイラの浮かぬ顔を、戦慄の表情と取ったのか、ザミルが不意に尋ねた。ラゲイラは、丁寧な愛想笑いを浮かべる。
「ええ。時には――」
 それからこうぽつりといった。
「特に、今から、我々は命をかけた勝負にでようとしているのですから。そういうときには、多少、恐れたほうがよいかもしれませぬな」
 ザミルには、ラゲイラが何を考えていたのかわからなかっただろう。それでいいとラゲイラは思う。
「では、手はず通りに。ハダート将軍と彼らが騒乱を起こしたと報告し、そして、裏口からはいった私の私兵が寝室に突撃する。……あなた様は、報告をするだけでよいのです。けして、自分からすぐ手を出してはなりません」
「……あの男に手ずからとどめを刺せないのは癪だが…………」
 ザミルは、不満そうに言った。
「だが、新王が自ら殺したとあっては、周りの目もあろう」
「ええ。ですが、どうしてもタイミングが合わないこともございます。それに、きっとラティーナ様はききません。もしかしたら、シャルルに襲いかかるかも知れません。その場合は、ラティーナ様の所業に見せかけてあなたが手を下すのです」
 ラゲイラは冷たく言った。ザミルは顔をあげる。
「ラティーナをか?」
「……ええ。彼女に手を貸したのであれば、……先ほども言われたとおり、美談でございましょうから」
 ラゲイラの言い方は、なぜか皮肉っぽくて、ザミルは癪にさわった。むっとして彼を睨んだが、ラゲイラは視線を合わせようともしなかった。
 月がさっとかげり、一時闇夜が訪れる。ラゲイラとザミル、そしてラティーナを乗せたまま、馬車は宮殿に入っていった。



 この水は、どうやら街を流れるサーフェスという川から流れ込んできているようだった。水量は浅いところではくるぶし程度だが、深いところでは、ひざまであった。流れは激しくない。王都には地下水脈が豊富である。砂漠地方のこの街を支えているのは、ひとえにその水のおかげとも言えた。
 さらさらと流れる水を激しく蹴り飛ばして進むことはできない。まさか、こんなところに見張りもいるまいが、それでも細心の注意が必要だ。
 ざぶざぶと流れてくる水をかきわけながら、進んでいるのはラゲイラの私兵である。彼らは、ハダートとともに行動を起こす部隊と、そして、ジャッキールとともにシャルルの寝室へと忍び込む部隊のふたつに分かれていた。特に、こちらはジャッキールが指揮していることからもわかるように、どちらかというと隠密行動にすぐれた方の傭兵達が構成メンバーとなっていた。
 いくつか通り道らしい、水を被っていない地面があったが、三十人はいるこの集団で一時にそこを歩くと、遅くなるため、彼らは水の中を歩いていた。
 これは先発部隊である。彼らの後、十五人ほど残しておいた後続部隊が、続いてくる手はずになっていた。が、その成功如何は、すべて先発隊の仕事が成功するか否かにかかっている。
「しかし、現れないな。あいつ」
「大方逃げたんじゃねえのか?」
 あいつというのは、例のシャーのことだ。今のところ、彼が姿を現したという情報はなかった。朝があけてから、彼の姿はまったく見えなくなってしまったのである。 
 シャーの言ったとおり、カタスレニアのある空家の枯れ井戸を降りていくと、水路に繋がっていた。なかなか大きな水路で、おまけにあちらこちらにわずかに意匠をこらした飾り物がある気配がする。手持ちの灯りの明るさからでは、その形跡をわずかに認められるだけだった。
「なんだか、気味が悪ぃな」
 前を行く男がポツリとつぶやいた。
「お偉方の趣味なんて、大方こんなもんだろうさ」
 他のものが言う。
「悪趣味なんだよ、大体」
「こらっ! 静かにしろ!」
 後ろにいた男が鋭く、しかし小声で制した。
「後ろに、ジャッキールさんがいるんだ。……無駄口叩いているのがわかってみろ、何をされるやら……」
 ざあざあ水が流れている。男達がごくりとのどを鳴らした音も、その水音にかき消されていった。
「うわあっ!」


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