今日の酒場はがらんとしていた。働いている店番の娘が一人いるだけで、店主も誰もいない。だが、それでも、シャーが酒場に来ると、いつのまにやら弟たちがやってきて、そこそこ人が入るようになった。酒を飲むシャーの右手には、包帯が巻かれているので、彼らは幾分か怪訝な顔になった。
「あれ、兄貴、どしたの? それ」
「あー、昨日、珍しく料理しようとしたらずばーっと切っちゃった」
 シャーはぬけぬけとそんなことを言いながら、大きな目玉をひょいっと彼らに向けた。やる気のない、少々眠くなるような目だ。彼らは気のないシャーの目を見ながら、どうでもよさそうに納得しあう。
「なるほど」
 よく考えるとシャーが切っているのは左手でなく右手だ。右利きのシャーが、包丁で右手を切るはずがないのだが、彼が「やっちゃった」といえば、それで信用されるあたりもまた彼の人徳といえないこともない。確かに、普段のシャーを見る限り、右手に包丁を握りながら、右手の甲をうっかり切りそうな気配がある。
「ねえ、ウェイアードって知ってる?」
「ウェイアード?」
 急に隣でシャーのことなど知らぬ顔で茶を飲んでいたカッチェラが、口を挟んできた。
「ウェイアードってカドゥサのウェイアードですか?」
「そう、多分それじゃないかなあ」
 カッチェラはため息をついた。
「兄貴、いくら女遊びがしたいからって…。あいつとつるんだんですか?」
「そうじゃないってば。ただそのお方とお知り合いになれば、オレみたいな文無しでも、郭遊びなんて夢のまた夢が〜、うふふふふ〜って思っただけ」
 カッチェラはあきれ果てたような顔をした。
「脳天気でいいですね、兄貴は。そんなこと考えてると、ウェイアードに殺されて、砂漠で干からびてそうで、オレは不安になりますよ」
「えっ、何それ」
 シャーは意外そうな顔をする。
「ありゃ、その道では結構名が知られてるんすよ。まぁ、カドゥサも相当きたねえ商売してますからね」
 カッチェラは情報通だ。王都の暗黒組織の情報から、うまい料理を出す店まで、この街のありとあらゆる情報を収集しつくしている。ただの好奇心かららしいが、彼が一体どこから情報を得ているのかはよくわからない。だが、さすがのカッチェラでも、シャーのことはよく知らない。多少シャーが暴れていても、シャーという男の普段のあまりの駄目っぷりに、噂が全く広まらないのである。根も葉もないということで、あっさりと立ち消えてしまうのも、もしかしたら彼の人徳というやつなのかもしれない。
「噂によると、そりゃえれぇ美男子らしいですから、ホントは金なんかなくても、女がよりつくタイプらしいんですけどねえ」
「それじゃ、フツーじゃない。それって、そんな奴にオレみたいな妙なのが近づいたら、女の子の親衛隊に蹴り殺されるっていいたいの?」
「兄貴は怪しいですから、あり得ないとはいえませんけど、そうじゃないんですよ」
 怪しいところは綺麗に否定せずにカッチェラは言った。
「あの野郎、相当腕が立つんですよ」
 一瞬、酒を飲むシャーの手が止まり、目がいつもと違う光を帯びたことを、おそらくカッチェラは気づいていない。
「えぇ、なんだかわかんないですが、奇妙な武器を使うとかで」
「奇妙な武器? どんな?」
 分かっている癖に、シャーは、すっとぼけてそんなことを訊く。表情はいつものままなので、おそらく誰も怪しまない。
「オレもよくしらねえんですが、剣の部類なんですけど、鎌みたいに、こう、切っ先に向けて刀身が極端に曲がってるんですよ。お陰で鞘にはいらねえんで、吊り下げたまんま歩いているってはなしですぜ。…もっとも、普段は布にはくるんでるそうですが」
「へぇ、そうなんだ」
「ええ、元々、カドゥサってえのは、ザファルバーンの人間じゃねえらしいですからね。元々の故郷の武器なのか、それとも、どこかで覚えてきたものなのか…」
「なるほど。…そういえば、西の国には、そんな武器があるっていうよね」
 シャーは、別に酔っているわけでもない目を、壁の方に向けて、あごをなでた。と、その時、不意にせわしない足音が聞こえた。
シャーがひょいと入り口の方に顔を向けると、ちょうどサリカとリーフィが並んで入ってくるところだった。今日はサリカの酒場にきたわけなので、サリカがいるのはまあ当然である。だが、リーフィは一体何をしに来たのだろう。自分に会いに来たわけでもなさそうだった。
 なにやらぶつぶつとサリカは酒場には行って来るなり文句を言っていた。リーフィはそれをなだめているようだったが、サリカの機嫌はおさまりそうにない。「サリカ、そんなに焦っても仕方がないでしょう?」


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