一覧 戻る 次へ


八日目-2


 そんな殿様も、オアシスにたどり着いたときは、少し疲れた様子だった。けれど、殿様は最後まで積極的に動いていた。薪を集めてきたり、水を汲んできたり、あなたはつかれているから私がやるからいいわ、という瑠璃蜘蛛の言葉をかたくなに断って、なにかとせっせと働いていた。左腕をかばっている気配はあったが、殿様は、大丈夫かときかれても、もう治ったと言い張っていた。彼があまりにそういうので、彼にすべて任せる形で、私と瑠璃蜘蛛は夕食の準備をしていた。
「殿様、お酒が抜けてから、まるで違う人みたい」
 私がぼんやりそんなことをいったのを拾って、瑠璃蜘蛛が笑う。
「確かに、病気といっしょに悪いお酒は抜けてしまったみたいね、あのひと」
「お酒であれだけ人が変わってしまうんでしょうか?」
 確かにそういう人もいるけれど、殿様がそうなのだとしたらどれだけ怖いものなのだろう。酒というものは。
「あの人の場合は、それだけが原因じゃないと思うけれどね。今は随分気を遣ってくれているみたいだし、頑張ってくれているみたいだけど」
 瑠璃蜘蛛は、眉を少しひそめた。
「少し無理をしているところもあるみたいだから、頑張りすぎないようにしてもらいたいわ。今は気を張っているからいいけれど、張り詰めた糸がもし切れてしまったら……」
「元に戻ってしまうと?」
 私は、彼女を見る。
「さあ、それはわからないわ。けれど、まだ多分不安定な所があるんじゃないかしらね」
 瑠璃蜘蛛が、ふと口をつぐむ。見ると殿様が水を汲み終わってこちらに戻ってくる所だった。
「お疲れ様」
 瑠璃蜘蛛がそう声をかけると、殿様はほっとした様子で水を傍らに置いた。
「これだけあれば十分かな?」
「ええ、ありがとう。もういいわ。休んでいて。もうご飯もできるから」
 瑠璃蜘蛛がそういうと、殿様も安心したのか、ようやく一息つくようになった様子だった。
 その日は、瑠璃蜘蛛が作った簡単な料理で夕食をとった。瑠璃蜘蛛は、料理も得意のようで、彼女の作る料理はとても美味しかった。
 夕食をとりながら、瑠璃蜘蛛は殿様に言う。 
「今日はずいぶん進めたわね。この調子なら、十日には神殿につけると思うわ」
「ああ、今日みたいに何もなければ」
 殿様は、難しい顔で答える。
「でも、もし、刺客があの街にまだいたとしたら、多分俺の動向に気づいているだろうな」
 殿様は、少し固い表情になった。
「今日はずいぶん飛ばしてやったし、間に街が挟まっていたから、ついてきていないと思うけど、明日はわからない」
「そうね。注意したほうがいいわ」
「しかし、南の道にもあいつらがいたのだとしたら……」
 殿様はそうぽつりという。私はふいに夕映えのねえさまが心配になった。本隊は無事に進めているのだろうか。
「ねえさま」
 ふと私がそう呟いたのに気づいたのか、殿様がやや慌てた様子で続けた。
「い、いや、奴らもさすがに俺のいないことには気づいているだろうし、護衛の多い本隊にはそう手をだせないだろう」
 そうしていると、瑠璃蜘蛛が、そうね、と殿様の言葉を継いだ。瑠璃蜘蛛は私の頭を撫でながら、こういった。
「それに、護衛がいなくても、夕映え姐さんは大丈夫よ。私の護衛が姐さんの護衛に回っているはずだと思うわ。そういう先例があったそうだから。貴方たちと一緒に巡礼をしようとしていた姐さんには悪いことをしてしまったけれどね」
「あ、ああ……」
 殿様の返事は歯切れが悪い。彼も彼なりに思うところがあるのだろうか。ねえさまの話を出したときの殿様の表情は暗かった。
「夕映えか」
 ぽつりと殿様が呟いて、かすかに首を振ったのを私は気づいていた。
「けれど、あなたのおつきの人には悪いことをしてしまったかもしれないわ。手紙が届くと驚いているかもしれない」
 瑠璃蜘蛛が申し訳なさそうに言った。殿様が顔をあげる。
「ああ、あれは仕方がないよ。無事に手紙が届いているかどうかもわからないし、間で見られたり、手紙をとられたりしたら、変なことは書けないし、むしろあれでよかったんだ」
 少しため息をつきながら、彼は続けた。
「ねえさんが俺が死んだようにみせかけてくれなければ、すぐに動けない俺の止めを刺しに来ていたはずだ。あの対応には感謝しているよ。そりゃ、あの人も、心配しているかもしれないが、俺が死んだとはいってないんだ。きちんと事実を確認しに神殿にまで来るよ」
 殿様が内心心配しているのは、すぐにわかった。彼の顔は苦しげだった。
「責任を取るのだとしても、俺の死体ぐらいは確認してからにしてくれるよ、あの人は。だから、俺も、神殿にいかなければ」
「そうね」
 この前まであいつ呼ばわりだったかの人の呼び名に、私は殿様の本来の気持ちをそっと感じることが出来たように思う。
 炎がはじける音がする。しばらくの無言のあと、ふと、殿様が思い出したように切り出した。
「そういえば、その、ねえさんの、護衛になったひとはさ、その、どんなひとだったんだい?」
「どんなひとって?」
 瑠璃蜘蛛がきょとんとして彼を見る。
「え、いや、変な質問だったら、答えなくてもいいよ」
 殿様は、あわててごまかすようにいながら、
「その、いま夕映えを守っているっていう護衛のさ。……だから、その。ねえさんみたいな人の護衛に選ばれるぐらいだと、よっぽど立派な人じゃないかって……。そういう風にねえさんに思われるような人が、ちょっと、その、いいなって思っただけだから」
 無難な言い回しを選びながら、殿様は少し声を落としてきいた。殿様は、相変わらず瑠璃蜘蛛相手に話す時に緊張しているように思える。
「貴方が思っているようなことはないわ」
 瑠璃蜘蛛は、苦笑した。
「私は、護衛の人を特別に選ばないようにしていて、いつもお店のひとを選んでもらうのよ。ただ、今回来ているひとには悪いことをしたかしら。その人は、貴族のひとで私にとてもよくしてくれるのだけれど」
「ねえさんをごひいきにしている客なんだね」
「ええ、それはありがたいことなんだけれど、私は護衛には誰かを特別に選ばないようにしているから、今回もお断りしたの。けれど、お店のほうに頼み込んで、護衛に選んでもらってついてきてしまったのね」
「そっか。それじゃ、ねえさん目当てにきたけど、ねえさんがこっちきちゃったからすっぽかされた感じなんだね」
「そういうことね。悪いことをしたわ」
 殿様は、少し考えた後、そろりと切り出す。
「それじゃ、そのう、ねえさんは、特別な客っていうのがいないのかい? こう、なんというか……、たとえば、好きな人とか」
「こういうお商売だもの。そんな風に思う人が出来たら、苦しいだけだわ。でも、お仕事に恋愛感情を持ち込まないようにはするものだけれど、そういうひとがいる子が羨ましいときもあるわね。私は、ずっとそういう姿勢でいたから、なにかそういうときめきがなくなってしまったわ。だから、そんなひともいないのよ」
「そ、そうなのかい。そ、それは、残念だね」
 残念だなどといいながら、殿様の言葉尻に、少しだけ安堵の感情が混じる。私は、そのとき、殿様は瑠璃蜘蛛が好きなのかもしれないと思った。
「年季が明ければ、誰かとは結婚するんでしょうけれど、そういった感情は私は無縁かもしれないわね」
 瑠璃蜘蛛がほんの少しさびしげにいう。殿様は慌てた。
「そ、そんなことは、ないと思うけど。いや、いつかつりあう人間が出てくるかもしれないじゃないか、……、ねえさんは、その、……とても綺麗だしね」
 殿様はそういって瑠璃蜘蛛をかばいつつ、綺麗、といったところで少しだけ殿様がうつむいたのがわかった。照れたのかもしれない。
「ありがとう」
 瑠璃蜘蛛は、そんな殿様の様子に気づいているのかいないのか。
 ふけていく夜を明るく月が照らしている。それをふと顔を上げて見やる瑠璃蜘蛛に、殿様がひっそりと見とれていたのを私は知っている。
 その日は、その後すぐに寝て明日早くからの出発に備えた。




一覧 戻る 次へ