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十日目:女神の領域-1



 走る走る。馬は走る。
 まだあけない暗い空の星が、どんどん流れていくようだ。
 誰も何も喋らない。砂を蹴る馬蹄の音だけが響く。馬は白っぽい毛色の馬だったけれど、私はその白いたてがみを無意識につかんでいた。私の後ろには瑠璃蜘蛛が、そして私たちを覆うようにして殿様が手綱を操っている。
 傾いた月が照らす砂漠を殿様はひたすら馬を飛ばしていた。けれど、まだ空は暗い。うまく夜陰に乗じたおかげで、予想よりもうまく逃げられていた。
 ちらりと背後を見ると、後ろからまだ赤い炎がいくつもこっちを追いかけてくるのが見えていた。もう追いついてきていると思っていたけれど、殿様がうまく逃げているので思いのほか距離が稼げていた。三人乗っている馬を操って、それだけ距離を稼いだのだから、それは殿様の腕のよいところなのだろう。
 だが、相手だって私たちが神殿を目指していることは知っている。というより、神殿しか行き場がないことを知っているのだ。逆に言えば、相手はそれほど急ぐ必要はないのかもしれない。夜が明けるまでに殿様を殺せばいいのだけれど、私たちには逃げ場がないから。彼らは、じわじわと迫ってくる。
「見えてきたぜ」
 殿様がふとつぶやくのをきいて、私も前を見た。
 月明かりに照らされて大きな黒いものがむこうに聳《そび》え立っている。あれが神殿なのだろうか。周りをぐるりと壁で取り囲まれている神殿は、暗いせいで何か得体の知れない塔のように私たちを見下ろしているようだった。
 本来は、神殿は青いタイルで飾られた美しいものだという。砂漠の殺風景な色彩の中で、その目の覚めるような青い色をみると、心が洗われる思いがするのだと、夕映えのねえさまが言っていたのを思い出した。
 神殿がみえてきたということは、もうすぐつくということだ。だが、東の空はまだ明るみもしていない。まだ夜明けは遠い。
 背後から迫る刺客たちが真剣に追い詰めてこないのは、もしかしたらそのせいだろうか。神殿の扉の中に、私たちが入ることができないのを知っているから、一気につめられるはずの距離を詰めてこないのでは、とふと思った。
 同じことを殿様も思っていたらしい。
「ちきしょう。蛇の生殺しかよ」
 ぼそりとつぶやく彼を見上げると、殿様は必死の形相をしていた。
 このままだと本当に門の前で追い詰められてしまう。殿様もどうしたらよいのか、考えあぐねている様子だった。乱れた髪が汗ばんだ額に張り付いている。
 ふと、瑠璃蜘蛛が顔をあげた。
「誰かいるわ……」
 ふとそう呟いた瑠璃蜘蛛に殿様が尋ねる。
「どうしたんだ、ねえさん?」
「向こうを見て、松明が見えるわ」
 瑠璃蜘蛛は、右手で右方向を指し示した。確かにそちらの闇に赤い炎がいくつもちらついている。
「畜生、あんなところにも追っ手が!」
 苦々しい殿様に瑠璃蜘蛛は首を振る。
「いいえ、追っ手ではないわ。あれは女神の湖がある場所なの。本来、女神の巫女が禊《みそぎ》をする大切な湖なのよ。もしかしたら、神殿の関係者や巫女、いいえ、高位の神官がいるかもしれないわ」
「で、でも、神殿の扉は開かれていないんだろう? どうして神官が外に出ているんだ?」
「祭礼の日の前、あの湖のほとりで儀式をしながら一夜を明かすの。多分、武具の奉納があったんじゃないかしら」
「奉納?」
 殿様が聞き返すと、瑠璃蜘蛛がうなずいた。
「ええ、星の女神様は戦いの女神でもあるのよ。戦士達は、こういうのに敏感だから、女神の加護を受けるために、武具を神殿に送るの。普通は、女神様の加護を得て、武具は持ち主に戻されるものだけれど、事情があって持ち主に戻されないものは、あの湖に沈めて女神様に奉るの」
「事情があってもどされないって……」
「たとえば、持ち主が死んでしまったり、引退してしまったり、戦争が終わって使わなくなったり、女神様に特別なお願い事があったり。理由はさまざまだけれど、その武具が必要がなくなった場合にそうされるわ。それは、前日の湖での祭礼の最中に、女神様の湖に沈めるの」
 瑠璃蜘蛛は、少し声を張った。
「湖の方に向かって!」
「え? で、でも……」
「もしかしたら、協力してくれるかもしれない。私、話してみるわ」 
「でも、いきなり声をかけて……」
「大丈夫よ。私が星の女神の乙女だということを話せば。いきなり攻撃されることはない」
 瑠璃蜘蛛の言葉に殿様はうなずく。
「よし、他に方法も思いつかないんだ。ねえさんに任せる」
 殿様はそう同意すると、方向転換して馬を湖の方に向けた。それは、殿様にとってもギリギリの判断だった。彼らが協力的でなければ、その場で追いつかれて殺されかねないのだから。
 女神の湖は、小さなオアシスを形成していた。植物が闇により黒くうつっているのが見える。
 そして、その前に十数人の人の影が見えていて、かがり火が焚かれていた。彼らの中には武装した人間がいるらしく、馬蹄の音と影でこちらに気づいているようだった。
「神官長様だわ」
 ふと瑠璃蜘蛛が、ちょうどかがり火の下にいる女を見て言った。
「神官長? あのばあさん……」
 今思えば、殿様は、神官長を個人的に知っていたのだろう。そういって首を傾げたようだった。近づくにつれてかがり火の下にいる人物の様子が、はっきり見えてきていた。豪華な冠をかぶった人物と武装した兵士達が認識できる。
 瑠璃蜘蛛は、高位の神官が儀式をしているといっていたので、神官長がいるのもおかしくない。
 殿様がそのまま馬を湖の近くまで進めた。神官長を取り囲む兵士たちが色めき立ったが、殿様がすかさず手を上げて敵意のないことを示す。
 瑠璃蜘蛛が馬から下りて挨拶をしたが、その動作が独特だったので神殿特有のものなのだろうか。それで、彼らも彼女を乙女だと認識した様子だった。
 かがり火がこうこうと焚かれる中、神官長はたたずんでこちらを見ていた。かなりの年寄りであったが、しゃんとしていて、皺の多い顔立ちも上品だった。昔は彼女も乙女だったのだろうか。きっと若いころは、その美貌をたたえられたのだろうというのが、今でもわかる。そして、その眼光から、きっと聡明な女性なのだろうということも。
 けれど、今の彼女からは、いかめしく、どこか怖くなるぐらいの威圧感が感じられる。特に、儀礼用の冠や衣服が彼女を大きく見せていた。
 瑠璃蜘蛛の言うとおり、儀式の途中だったのだろう。かがり火の下、いくつかの武具が荷馬車に積まれていた。いろいろなものがあったけれど、ひときわ上等な綺麗な青い鎧が目についた。孔雀の羽をあしらった兜や、青の軍衣やマントと一式そろえらえている。綺麗な状態だったので、あつらえられた直後に神殿に送られたのだろう。
 今からそれを湖に沈めてしまうのだとしたら、もったいないような気がした。
「神官長様!」
 そういって近づいた瑠璃蜘蛛を、ゆったりと見据えた神官長は、厳《おごそ》かに口を開いた。
「こんな夜更けに誰かと思えば、お前かい」
「私を覚えていらっしゃいますか、神官長様」
 神官長は、取り立てて表情を変えることもない。殿様や私にも冷たく視線をあびせながら、静かに答える。
「ああ、覚えているよ。お前はどこか変わった巫女だったからね。そうして、今も祭りの前だというのに、みなと同じく南でなく、北の方角から夜更けに変わった連れを伴ってやってくる。お前はやはり風変わりな乙女だよ」
「これには事情があるのです」
「ああ、いかにもそうだろう。どうやら追われている様子だね」
 神官長は、背後にちらつく炎の集団に目をやった。
「はい、それで神殿に保護していただきたいのです」
 神官長は首を振る。
「それは無理な話だ。夜明けまで門は開かない。我々とて夜明けまで儀式を続けて、ここにいるのを知っているだろう? まあ、お前は星の女神の乙女。お前がここに早くについたのは、何らかの星の女神様の思し召しと考えよう。夜明け前の儀式に加わるなら、保護してやっても良いのだが、連れの二人は部外者だ。それに我々も兵士を多く連れているわけではない。連れの二人がここにいても、我々が守ることはできないよ。門の前で朝まで待ってもらう」
 神官長の言葉に、瑠璃蜘蛛ははっとした。珍しく彼女が早口になっていたのは、彼女も不満だったのだろうと思う。
「神官長さま、この方は夕映えねえさんの護衛を勤めていた方です。シャシャは彼女の侍女です。部外者ではありません」
「祭りが始まれば部外者ではないが、祭りの開始は日が昇ってからだ。それまでは、二人は部外者だ。特にそこの男はね。そもそも、男で神殿にいられるのは、神殿を守る兵士だけだ。祭りの護衛は、祭日に乙女を守り抜いて神殿に入ることで、その時だけ女神に帰依したと認められる。侍女にしても同じことさ」
「朝まで神殿に入れなくても、二人をここで匿ってください。それもいけませんか」
「女神に帰依したお前を守るのなら別だが、侍女はともかく、特にその男は守れないね。先ほども言ったが我々の兵士も十名ほどしかいないのだ。部外者を守るために犠牲を出すわけには行かない」
 瑠璃蜘蛛は絶句したが、改めて反論する。
「今はそれどころではないんです。第一、この方は王族の方です。もし何かあったら」
 言いかけた瑠璃蜘蛛の言葉をさえぎって、神官長は冷たく言った。
「世俗の王の子せがれ風情がなんだというのか。女神様は常に強いものに祝福を与えるのだ。今まで王が変わるたびに、星の女神は彼らに王権の権威を与えてきた。今この若者を殺そうとしているものに権威が移るのなら、我々は彼らに味方することになる」
「しかし、助けを求めているものを……」
 言い募ろうとした瑠璃蜘蛛をさえぎったのは、黙って話を聞いていた殿様だった。
「いいよ、ねえさん。嫌だってんだからしょうがねえだろ」
 殿様はそういって、神官長をきっと見た。
「そこのばばあの言うとおりなんだろうぜ」
 殿様は、はき捨てるようにいった。久しぶりの荒んだものの言い方に、殿様が瑠璃蜘蛛と私には、今までつとめて優しい言葉遣いを選んでいたらしいことを知った。
「だから、俺は、聖職者が好きじゃねーんだ。意味のわからねえ迷信だかしきたりだかにとらわれやがってよ! ことに目の前のばばあは、昔からそうだったよな? 無駄に頭のかてえトコロは、本当に変わんねえな、くそばばあ」
「口の悪い男だ」
 神官長は、わずかに眉をひそめる。殿様は、そのまま彼女にまくし立てた。
「確かに俺は部外者だよ。ここに来ねえほうがよかったような人間さ。あんたが言ったとおり、俺は女神に帰依もしてないんだから、日が昇る前に助けてくれとはいわねえよ。それはしょうがねえ。でも、侍女は別だろう?」
 殿様は絡み口調になっている。
「侍女は乙女のそばにいるのが仕事だ。乙女の仕事が滞りなく行われるように手伝うのが侍女の務め。乙女が女神の化身だとされるのなら、従者がいるのも当然じゃねえか。俺はいいが、ねえさんとこの娘は助けてやれよ」
「ふむ、屁理屈を言うね」
 神官長は、ゆったりと殿様をみやりながらうなずいた。
「いったい、お前は何者だね。お前は私を知っているようだし、それに、……聞き覚えのある声だ」
「ふん、助けてもくれねえくせに、俺の名前を言ってもしょうがねえだろう」
 殿様は、それをものともせずに神官長をにらみつける。神官長は薄く笑った。
「なるほど、それも道理だ。まあ、お前が私と顔見知りというのなら、これも何かの縁だろう。お前を見殺しにするのは、私にも忍びない。門を開けることはできないが、一つ身を守る術を与えてやろう」
「何?」
 殿様は、彼女の意外な言葉に驚いたような顔になる。
「しかし、連中はどうやらずいぶん焦っているようだ。普通なら問題となるので神殿の領域には入らないだろうが、この湖にまで来るぐらいだから、神殿を血で穢すぐらいのことはやりかねない。門の中には入るまいが、敷地の中にはいた時点で助かると思わないほうがいい。だから、私が言う方法が、有効なのかどうかは、わからないよ」
「もったいぶらねえで、教えろよ」
「お前も知っているだろう? 女神の神殿は、外壁部分から中央部にいけばいくほど階段状に高くなり、その中心に塔を持っている。あれは、古い神殿部で今は通常使われていないものだ。内部から入る階段を持たず、外周部の階段からしか入ることができないのだよ。門を通らなくても上ることができるから、あそこなら夜明け前でも立ち入りは禁じられてはいない。塔の中で扉を閉めてしまえば、扉が破られない限りは、中で朝まで待機することは許される。朝まで待てば門も開くし、それ以上、連中が騒ぐようなら神殿の兵士達が連中を排除するだろう。このまま門の前に向かっても、そこで朝まで戦うのはきついだろう? そこで篭城戦を張るほうが少しはましだろうね」
「あの、神殿の壁伝いの階段をひたすら上った先からいける塔? あの本殿の屋上にある塔のことを言ってるのか?」
「ただし、塔の中に入るには、男一人では無理だがね。乙女の同行が必要になる。祭礼の朝だ。塔には大神官と護衛の兵士たちが詰めているだろう。ただ、塔の上で祭礼を行う乙女は、まだ到着しておらず、乙女を夜明けまで待っているのさ。あの塔で祭礼を行うのは、一番初めに神殿入った乙女が行うものだが、夜の明けないうちに一番乗りの乙女が到着したとしても、それは神の思し召しということになるだろう。そういう意味でも、塔の上で行われる祭祀をその娘が執り行うという大義名分が必要だ。要は乙女をここにおいて、お前一人で戦うか、娘二人を連れて塔まで逃げるか、どちらかを選ばなければいけない」
「そ、それは……」
 殿様は、困った様子になった。彼とて、自分のことでこうなっているのだから、私たちを巻き込みたくないのだろう。答えあぐねた殿様の代わりに、口を開いたのは瑠璃蜘蛛だった。
「神官長様。彼と私が一緒に行けば、塔まではいけるのですね」
「ああ、そうだ。ただし、塔までの外周部から連中を排除することはできないよ。出入りが自由なのは、連中も一緒。お前の身も危険に晒される」
「けれど、ここで全員を保護しては下さらないのですものね」
 瑠璃蜘蛛は、殿様の方を見た。
「一緒に塔まで行きましょう。それしかないわ」
「で、でも、それはねえさんを危険に晒す」
 瑠璃蜘蛛は、かすかに微笑む。彼女の顔色はいつものままで、それは命がけの判断をしているような様子でもなかった。
「だって、ここじゃシャシャも貴方も助からないわ。私一人で待つなんて嫌よ。一緒に行きましょう」
「あ、ああ」
 迷っていた殿様は、瑠璃蜘蛛にそういわれて軽くうなずいた。
「わかった。二人は絶対に俺が守るから」
「ええ。あなたなら大丈夫よ」
 瑠璃蜘蛛の言葉が、殿様にどれほど救いになったのか、彼女自身はわかっていないかもしれない。
 殿様は、きっと神官長を睨むように見て笑った。
「にしても、相変わらず意地悪なことしか教えねえな、ばばあ」
 殿様は、腰の道具袋から革紐を取り出して口にくわえ、乱れて流されたままの髪の毛を整え始めた。肩より下の長髪だから、暑いのだろう。
「私にしては親切なつもりだよ。これ以上は、どうにもならないからね」
「へへ、どっちにしろ、俺にとっちゃ地獄の始まりさあ。まあいい、それじゃ、ついでに餞別をもらってくぜ」
 殿様は、ひねくれた言い方で神官長の後ろにある甲冑一式を指差した。それは、私がひときわ目を引いていたあの青い新しいものだ。
「どうせそれ、捨てるんだろ。だったら地獄に行く予定の俺にくれても同じことさ」
「捨てるわけではない。女神様にささげるのだ」
「同じことだろ。どうせ湖に沈めてしまうんだ。だったら、死ぬ予定の俺が女神に直接渡してきてやるさ」
 殿様は、ふと向こうのほうをみた。たいまつの光の群れが静かに近づいてきている。
「連中が来る前に俺にくれといってるんだ。それぐらいいいだろう?」
 神官長は何やら考えていたようだが、目をつぶって答えた。
「ふむ、よいだろう。お前が着られるものなら、それも神の思し召しというものかもしれない。着ていくといい」
「はん、そりゃ着れるにきまってんだろうが、ばばあ。第一そりゃ俺の……」
 殿様は、以前のように荒んだ言い方をしたが、ふと瑠璃蜘蛛の視線が気になったのか、急に口をつぐんだ。殿様は、器用に髪の毛を纏めてしまうと、甲冑に近づいた。
 そこにあるのは兜と甲冑一式で、マントや衣服、軍靴などもあった。その全てが青で統一されている。殿様の着ていた白い上着は、先ほどの騒ぎで焦げていたので、殿様は上着を急いでそれと取替え、慣れた手つきで甲冑を身に着けはじめた。
 まだ向こうの炎はゆるやかに近づいてきていた。自分達と別のたいまつの炎に異常を感じたのか、彼らは遠巻きにこちらを伺っているようですらある。
「手伝うわ」
 すばやく身支度をする殿様に、瑠璃蜘蛛はそっと寄り添って手伝いを勝手出た。そして、そっと声をかける。
「貴方、鎧をきてどうするの?」
「そりゃ、戦うしかないさ」
 殿様は、観念したような口ぶりだった。
「重さで体力削られるけど、丸腰のままよりは、多少はマシだし、気合も入るだろうからね」
「塔のこと、神殿の構造はわかっているかしら?」
「ああ、階段を上るのがキツイが、大体の構造は覚えてるよ。何もない門の前よりは狭い階段で戦う方が、挟み撃ちにされなきゃ、多少有利さ」
「そうね」
 殿様の着付けを手伝いながら、瑠璃蜘蛛の指先が少し震えているように見えた。私は、気丈に振舞っている彼女も、本当は怖いのだとそのとき知った。それなのに、瑠璃蜘蛛は、表情にひとつも出さないから。
 殿様もそれに気づいたのだろう。目を伏せた。
「ねえさん、本当ごめんよ。俺のことに巻き込んじまって。でも……」
 殿様は手袋をはめて手甲をつけると、兜を手にとって顎紐をきゅっと結び上げた。つけたマントがわずかに揺れる。
 そして、彼は瑠璃蜘蛛のほうに振り返る。
「ねえさんは心配することないから」
 笠のような形の兜には、孔雀の羽飾りが数本つけられていて、何本かは青く染められている。衣装は上等な布で作られていて、マントには細やかな刺繍で飾りがつけられていた。それが殿様にあつらえたように似合っていた。
 紅楼で居座っていた時のだらしなくはだけた派手な衣服のときも、白い粗末な巡礼者のような衣服のときも、殿様というとどことなく王族にはふさわしからぬ雰囲気の人だったけれど、この服装の殿様をみたとき、私は殿様が王子だというのを思い出した。
 まるで、絵物語の騎士のように、殿様の姿は華やかで、涼やかだった。いつもはそれほどしゃんとしていない彼の背筋も伸びていて、全身がきりりと引き締まったように凛としていた。
 その殿様は、有無を言わさぬ口調で告げる。
「俺が必ず守ってやるよ」
 殿様が準備を終えるまでに、追っ手たちはずいぶんと迫っていた。向こうで声が聞こえるのは、神殿の兵士たちと何か問答しているのだろう。あなた方に危害は加えないとか、ある男を捜しているだけだとか、闇のほうから聞こえてきた。
「さあ、行こう!」
 殿様は、瑠璃蜘蛛と私を急かし、馬に乗せた。殿様が一番後ろに乗り、背後からかばうように乗せてくれたものだ。
 青い武装をして白い馬に乗っている殿様は、まさに若武者という印象で、世辞抜きでとても格好よく見えた。殿様に対して、そういう風に感じたのは、実はこれが初めてだ。それは、瑠璃蜘蛛にしてみてもそうだったのかもしれないと、私は後になってから思う。
「一応、恩にきておくぜ、ばあさん!」
 殿様は、神官長にそういいおくと、馬に鞭をくれて走らせた。
「いたぞ!」
 刺客達が、殿様に気づいて声を上げた。殿様はその声に振り返らない。ただ、私たちを連れてまっすぐに神殿に馬を走らせる。
 暗い中、月の光に照らされて、神殿はくろぐろとそびえていた。
 普段は美しさで知られる正面の門も、今は暗い闇の中に沈んでいる。わずかに青のタイルで彩られているらしいことが、時折月光で青ざめてきらりと光ることで予想ができるが、砂漠の中の宝石のように歌われているその姿を想像することもできなかった。
 それは、神殿などという神々しいものに見えなくて、むしろ、とても怖い場所のように冷たく重苦しい。
「神殿の門というより、地獄の門に見えるよな。あのばあさん、助け舟出してくれるなら、もっと楽なのにしてほしいよな。でも」
 不意に私の心を見透かしたように殿様が言った。
 彼は、心なしか青ざめた顔に、ひきつった微笑を浮かべていた。そして、誰にいうでもなく、ぼそりとつぶやいた。
「おかげで俺にも、ようやく火がついてきたぜ」
 その顔は、紅楼の殿様でもなく、このところ一緒に旅をしてきた気のいい青年のものでもなかった。
 それは、多分、殿様の戦士としての顔だったと思う。





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