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プロローグ

 また日蝕がおきた。これで昨日から何度目だろう。
 彼はそう思いながら道を歩いていた。
 傍目には、森が広がっていた。あの森、いや、厳密には、森というより、砂漠や平原、湿地や水辺を含む、全体的な領域のことを言ったほうが正しい。 
 あの未開の場所のことを、『辺境』と人は呼んでいる。普段は、立ち入るものはいない。あれを臨むかたちにつくられた街道から、彼ら人間は辺境のほうをのぞむのである。
 彼は乾燥地域の出身である。ここ周辺は、それに比べると湿潤とはいえたが、それでも、やはり乾いた印象がある土地だ。ただ、森を望のぞむ街道は、辺境の密林の影響なのか、いつも少しだけ涼しいところがあった。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……。今日は、三回目だな」
 その彼は、ちょうど日蝕で暗くなり行く空を見上げているところだった。彼は、粗末な服を着た長身で痩せた体をもてあますように少しかがませて早足になっていた。
 年齢は二十歳前後らしいが、顔だけ見ていると二十代半ばにも見えた。どことなく荒んだところがあるし、彼の挙動も、彼の今までの生活が、堅気でなかったものをうかがわせるところがある。その中でも、瞳に、まだ幼さのようなものが残っているのが、彼の実年齢をうかがわせた。
 頭に巻いた布から飛び出た黒い髪は、この周囲の人間には多い髪の色である。ただ、彼の瞳は、黒というよりよく見るととび色に緑が混じったような複雑な色をしていた。瞳が黒でないことは、さまざまな地域との混血が多いここでは、それほど珍しいことでもないのだが、どことなく地味な印象の強い彼には、それが一番目立つ箇所だったかもしれない。
「全く飽きずにやってくれるぜ。日に三回もこうだと、感覚がおかしくなるな」
 のんきに数えながら、青年は暗くなりゆく空を興味なさげに一瞥した。皆既日食である。徐々に影に食われて行く太陽は、だんだん光を失いつつあった。
 どうせ暗くても一本道なのだ。まっすぐ歩けば問題ないだろう。と、青年は思って、カンテラに火を入れるのをやめた。油がもったいなかったからだ。倹約が美徳だから、というより、単にケチなだけである。
 この地方で謎の日蝕が頻繁に起き始めたのは一年ほど前からだ。日蝕は多い日には日に三度から四度。少ないときは一週間に一度ほど。
 それにしても、天文学から考えるとあり得ない頻度だ。天文学の知識は、かなりある国だっただけに、周辺の国の学者どもは、原因を明らかにしようと躍起になっているようだが、今に至るまでその原因はわからない。
 予言者達が「このままではやがて世界は闇に飲まれることだろう」と騒ぎ出しても別におかしくない状況だった。
 だが、そんなことは、一般人でとりたてて天文に興味のない彼には、何の問題もなかった。しかも、彼は、今借金取りに追われている最中なのだから。
「さてと、太陽が隠れてる内にオレはとっとと逃げなくちゃな」
 彼は、自分に言い聞かせるように呟いた。いっそのこと、辺境にはいるのも悪くない。さすがの借金取りも未知の世界、辺境までは追っかけてくることはないだろう。なにしろ、辺境は人外の地であり、地の果てでもあるらしい。
 中には、得体の知れない植物と得体の知れない怪物共がうじゃうじゃそこにはびこっているというのだ。
 しかし、辺境の浅いところなら、普通の人間でも危険なく抜けられるという噂だった。獣たちは、そんなに外界の近くまで寄ってこないというのだ。
 ただし、それも、辺境の知恵のある魔物である「狼人」にあわなければの話だという。
 狼人、というのは、辺境に住む人の形をした人間ではないものたちだ。それの中でも特に男のことを狼人と呼び、より外に出てこない女のことを妖精というのだとか、青年は聞いた。連中は人の形をしているというが、人間では持ち得ないはずの力の持ち主であるといい、常に集団行動をとるらしい。
 もちろん、彼らと遭遇することはめったにないとは言われるが、彼らは人間にはない魔性の力を持っているので、何をされるかわからないという話だ。とはいえ、人間のほうも、狼人の子供をさらって奴隷にしているとかいうから、彼らが人間に悪印象を持っていても仕方がない。
 実際、青年も狼人に実際会ったことがない。
「いや、やっぱり危険な賭けはやめよう。オレの性分にあわないぜ」
 青年は、呟いた。辺境の怪物に捕まって怪物の夕食になるよりは、借金取りに捕まってどこか異国の地で奴隷になった方がましだ。すくなくとも、どこか異国の地でも人間はいるし、自分の能力なら、適当なところで逃げ出す事だってできるはずだ。まともな生き物がいない辺境で死ぬよりはいくらかましだと思った。
 日蝕が終わりつつあった。だんだんと光が世界に溢れて行く。青年はちらりと背後をみて、思わず飛び上がりそうになった。
「やばい!」
 青年は慌てた。後ろを振り向いたとき、薄暗い中でこちらに向かって馬で走ってくる男達数人が見えたのだ。間違いない。追っ手だ。
「ちっきしょう! やっぱり、異国の市場に並ぶなんて嫌だ!」
 青年は走り出した。どんどん、世界は明るくなって行く。自分の姿が見えると、男達はますますスピードをあげてくるだろう。馬と徒歩では、さすがに青年が俊速だからといっても、逃げ切れるものではない。馬がどれほど速いかは、遊牧民出身の彼が一番よく知っているのだ。
「あんなはした金で、馬まで繰り出しやがって!!頭おかしいんじゃねえか!!」
 青年は、忌々しげに吐き捨てると、そのまま、足を速めた。ここでつかまるわけには行かない。
 自分の、これからの人生のために、そして、あのひとに会うために。


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