辺境遊戯・レックハルド=ハールシャー
牢中酒宴
「おい、酒持ってきたか?」
態度のでかい捕囚はそういって、牢の中で一人座っている。鋭くて細い切れ長の目。三十路をすぎている割には若く見えるが、けして若すぎてみられることはない。痩せているのは元々で牢暮らしのせいではなく、その体を冷たい石壁にもたせかけていた。彼はやってきた男を気持ちよさげにみる。それは、牢にやってきた「彼」が、彼の要望を聞き届けてちゃんと手に酒を持っていたからである。途端笑みをみせた彼は、頭の後ろに手を当てたまま、満足そうに言った。
「なかなか、素直でいいねえ。あんた。狼人も人間もやっぱり素直が一番だな」
そういってひねくれた口調でいう彼に、その台詞はあまりにあわない。
黒いマントに黒い服、頭には黒い布。唯一の奢侈品は、ルビーをあしらったターバン飾りぐらいである。大国の要人にしては地味な装いだといえるかもしれない。
レックハルド=ハールシャー。彼はその捕虜の名前を思い出す。ギルファレスの宰相で、メルシャアドに来た説客でもある。評判はそんなによくない男だが、かといって悪いかというとよくわからない。貴族には嫌われているが、官僚には好かれているという話もある。少なくとも、「彼」が覚えている限りは、ハールシャーは悪政を行ってはいない。また、戦乱の世の中で、ここまで国内を穏やかに保ったのは、彼の業績でもあるかもしれない。
その彼がどうして牢の中にいるのかということなのだが、それを説明するには、彼と現ギルファレス王との確執について触れなければならないだろう。元々、ハールシャーは、前国王にとりたてられた男である。かれがまだ三十を少しすぎたばかりの若さで、一国を束ねるようになったのも、前国王の遺言が効いているからにほかならない。しかし、前国王の息子である今の王は、ハールシャーと元々仲が悪く、事あるごとに彼らの意見は対立した。それがたたって、ハールシャーは、ある小さな失敗をとがめられ、交戦中のメルシャアドに休戦協定を結ぶために送り込まれることになる。もちろん、それは命がけの任務である。失敗はつまり死。メルシャアドで処刑されるか、無事に戻っても難癖をつけられて処刑されるだろう。彼に残された唯一の生き残りの方法は、メルシャアド王のカルナマクをその口一つでたぶらかして、休戦協定に同意させる以外ない。
だが、その方法も絶たれたのである。ハールシャーは、もう少しでカルナマクをうなずかせるところだったはずが、客分としてメルシャアドにいたサライ=マキシーンが乱入してきて、彼の嘘を突いて論破してしまったのだ。そうして、舌戦に敗北したハールシャーはとらわれの身となったわけである。
「まったく、こんな狭くて暗いところにいると、辛気くさくていけないぜ」
「そうだな…。できれば、もっと日の当たるところに出してあげたいけど」
彼がいうと、ハールシャーは、肩を揺らして笑った。
「無理は言うなよ。気休めで言ってくれてるんだろうけど、オレだってそこまで期待しちゃいないさ」
そういって妙に陽気に笑う。彼は、そんなハールシャーが何となく可哀想になるのだ。彼を生かしておけなくなったという上層部の話を、彼はそれとなく知っている。それもあって、彼は、ハールシャーに親切にしようと思っていた。それに、実際しゃべってみると、案外子供っぽいところもあるのだ。捕虜のくせに、酒が欲しい、飯はうまい方がいい、煙草をよこせ、など、平気で言う。牢番を金で買収しようとしたという噂も聞くが、それが本当なのかは彼はよくわからない。挙げ句の果てに、彼を相手にカードゲームのいかさまなどや手品を教えて遊んでいるのだ。
本人に自覚はないだろうし、言えば恐らく怒るだろうから言わないが、レックハルド=ハールシャーは実は変な奴なのである。そう思うと、彼はハールシャーがどうしても憎めない。
「酒は持ってきたけど、でも、大騒ぎはあまりできないからな。他にも見張りがいるし」
「わかってるさ。オレが騒ぐような男に見えるのか?」
不本意そうにハールシャーは訊いたが、実は彼は酔うと結構からむタイプなのである。酒は強いことは強いのだが、絡まれるのも厄介なのだ。
彼が何も応えない内に、ハールシャーはすでに渡された瓶のコルクを抜いていた。そこから漂うかぐわしい香りに、彼も少しだけ安堵したような気分になる。
「にしても、お前がいるおかげで、オレの囚人生活もバラ色とはいかねえが、まあ不自由しねえな。それには、感謝してるんだぜ」
「だったら、それはよかった」
そういう風に相づちを打つ。ハールシャーは、上機嫌で杯に酒を入れると、一人で口に含みながらにやりとした。
「でも、お前も暇してないだろ? オレと話せてちょっとは得しただろうが」
「少なくとも、そうだな、カードには強くなったような気がするよ」
「ふふん、感謝しろよ」
恩着せがましく言うのは、それでもきっとハールシャーなりの軽口で冗談みたいなものなのだろう。それがわかっているので、彼は腹を立てたりはしない。一人で飲んでいたハールシャーは、ああ、そう、と呟くと、ようやく彼に気づいて、もう一つの杯に酒をついでわたしてくれた。それに礼をいい、彼はそれを手に取った。自分が持ってきたものに礼をいうこともなかろうが、ハールシャーの性格を考えて礼を言うことにしたのだ。
「うーん、でも、お前は……割合に信用はおけるかもな」
不意にハールシャーが言ったので、物思いにふけっていた「彼」は、顔をあげて表情で聞き返す。
「お前になら頼んでやってもいいかもなあ」
「え?」
きょとんとした彼に、ハールシャーはにやりと笑った。
「オレのかわいい女だよ。お前なら手を出さなさそうだから、後を任せてやれるかもなあとかな」
軽く笑ってハールシャーは目を閉じる。
「オレも色々不安定な身の上だからな…。まぁ、覚悟してるわけじゃあねえが」
彼の言う「女」が、ハールシャーの政略結婚したという妻なのか、それとも別にいるかもしれない愛妾なのかは知れない。ただ、彼は、覚悟はしていないという彼の台詞に切ない思いを感じていた。それは、ごまかしにつけたしたものにすぎない。
(ああ、そうか…)
わずかに嘆息しながら、彼は思った。
(やっぱり、もう大体予測はついているんだな)
彼は居たたまれなくなる。やはり、彼は知ってしまっているのだろう。上層部が、彼をどうしようとしているのか。
そして、「彼」は大体予想がついているのだ。きっと、ハールシャーに手を下す役目は自分に回ってくるだろう。そう思うと更に切ない気分になる。
少なくとも、この男に何かと親切にしてやっている内に、彼は、ハールシャーに対し、好感情を抱いていた。それを友情と言っていいものかどうかはわからない。もしかしたら、ただの同情かもしれない。
ただ、もし、立場が違えば、と考える。そうすれば、もしかしたら、気のいい友達になれたのかもしれない、とも思う。だが、もう、全ては遅いのだ。最初から、すでに彼らには立場がある。
だから、せめて、その時までは、ハールシャーには本当の事をいわないでおいてやろう。そして、できるだけ、彼に親切にしてやろう。それが、せめてものハールシャーへのはなむけというものだ。
「どうした? 飲まないのか?」
怪訝そうなハールシャーの声で、彼は我に返った。ハールシャーは、彼の思惑に気づいているのかいないのか、無邪気にそう訊いてきた。彼は慌てて笑みを浮かべると、杯の酒を口に入れた。
「まあ、どうせなら、それなりに楽しもうぜ」
ハールシャーの言葉に、彼は、ああと応えてうなずいた。
ハールシャーはもしかしたら全てを気づいているのかもしれない。あの、全てを見通す猫のような目が、自分などの思いを見抜けないはずがない。それでも、気づかない振りをしている以上、こちらも話さないでおこうとおもう。今はただ刹那的に、この牢の中の酒宴をせいぜい楽しんだほうがいいのだから――
そして、彼らのそうした関わりが、その後に大きな影響を与えるとは、まだ、誰もこの時は、知ることもないのだった。
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