辺境遊戯・幻想の冒険者達/©渡来亜輝彦2005


  
 

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5.冷酷
「勝利の余韻と暗闇」

「楽しそうですね。」
 訊かれて、この国の宰相であり、かつこの戦の参謀でもある男は振り返る。目の前は火の海だ。兵士達の喚きや叫びが、地獄の釜の音のようにぐつぐつと聞こえてくる。
「ああ、まあ楽しいでしょうな。」
 煙管をくわえたまま、尊大というよりは、全く興味のうせた口調で彼は言った。宰相という割にはまだ若い。実際、三十前後だという話をきいている。少し細くて鋭い瞳がひどく特徴的で、痩せ型の長身に黒いマントを羽織っている。その姿は、少し禍々しくて、何となくこの男の印象にあっていた。
「戦場でよくそのように喜べるものですね。…人が死んでいるのに…。大体、敵の将軍をあなたが騙したときいておりますが。」
 青年は、もう一度言った。ハールシャーの良心に訴えたつもりだったが、彼の表情は変わらず、寧ろ口元には笑みすら浮かぶ。
「作戦の成功を喜ぶのは参謀として自然なことではありませんか? それともあなたは、この勝利に不服でもおありか?」
 レックハルド=ハールシャーは、うっすらと笑んだまま言った。その目には動揺も興奮もない。ただ、静かだが激しい光がそこに宿っているだけである。ハールシャーは、大した感動の表情も浮かべないまま、煙草を吸っていた。口の端から出ていく煙を見ながら、彼はこの戦場の真の支配者が彼であることに気づく。
 すべては、この男の掌の上のことだ。全部、あらかじめ見破り、見透かし、そして仕組んだ事だ。最初から、この男の頭の中の計画書どおりに進んでいる。この戦で人が死ぬのも、生きるのも、全て知っているかのような顔をしている。燃える空を見上げる瞳は、まるで猫のように何となく遠くを見ているようで、その冷たい空気が、戦場の空気には全くふさわしくなかった。
「まあ、私は気に食わない事もあるんですがね。…ちょっと移動が遅すぎたようでしてね。だが、これは将軍殿にどうにかしてもらわないと。」
 そういうことを訊いたのではない。青年は、首を振った。
 ああ、やはりこの男には才能がありすぎる。
 ありあまった才能を振るうのが楽しくてたまらないに違いない。そうでなければ、こんな戦場には出てこない。そのはずだ。だから、戦の最中、こんな顔をして立っていられるのである。すべて自分が仕組んだこの地獄絵図を見て、煙草をゆっくりと吸えるのだ。
 青年はそう思う。
「あなたには良心というものがないのですか? あんな卑劣なだまし方をして! 寝返ればそれなりの地位を約束するだなんて言っておきながら、この所業は何です! あなたはあの将軍を殺したそうではありませんか!」
「ほう? 私に抗議とは、公もよいご子息をお持ちですな。いやはや、これからが楽しみなことです。」
「はぐらかさないでください! ハールシャー様。」
 レックハルド=ハールシャーは、うっとうしそうな顔で、彼の方を振り返った。
「お言葉ですが、ゼヴィリア殿下。…そういう奇麗事なら、あなたの恋人にでも語っておいてください。私にはいちいち、あなたの愚痴を聞いている義理はありませんのでね。大体、あの将軍についてはそれなりに手は打ちましたよ。後々誰からも恨まれる心配はありません。」
 手を打ったとは、どういうことだろう。おそらくは、関係者を殺したということに違いない。
「ハールシャー様、あなたは!」
 青年は思わず、ハールシャーにつかみかかった。
「放せ!」
 急にハールシャーの言葉が荒っぽくなった。青年がつかんだマントごと体を翻して、彼は青年の手をほとんど突き飛ばす形で払った。その勢いが激しかったので、青年は思わず地面に腰を打ち付ける。
 失礼とも何とも言わず、ハールシャーは冷たく上から彼を見下ろしていた。手を貸す気配もない。
「…いくら公のご子息といえど、これ以上相手をする気はありません。私はもとより気が短いのでね。今は重要な局面、気を散らさないでいただきたい。」
 いくら貴族の息子でも、平民出…いや、噂ではそれ以下だったともいわれる宰相よりも権力としては下である。彼に一応の敬意は表しているが、それはハールシャーの方がこれでもいくらか遠慮しているからに過ぎないのである。
「そもそも、一体人を殺さぬ戦争があるとでもお思いか? …私はこれでも努力したつもりですがね。」
 ハールシャーは、ふっと煙を吐いた。
「このぐらいの戦で嘆くほど、私は聖人にはできていませんな。それに、予想できていたことです。」
 その冷たい言葉に、青年は顔をあげた。
「あなたって言う人は!」
「はっ…。何だ、その顔は。」
 ハールシャーは嘲笑い、ざっと踵を返す。
「…そういうなら、自分でもあの渦の中に飛び込んでくるがいい。それもできないくせに、なんだ?」
 ハールシャーは、彼を睨んだ。
「…あなたは、戦場というものを知らない。世の中というものを知らない。…ふっ、ガキが高見の見物か? 羨ましいことだねえ。」
 急にハールシャーの言葉遣いが変わった。彼は、いつもの慇懃さからは信じられない絡み口調になると、ぎらりと輝く目を彼に向けた。底知れぬ憎悪に彩られたような冷たい目だ。
「だから貴族上がりは嫌ぇなんだ。手も汚したこともねえくせに、口だけは一人前を叩きやがる。かわいそうに、坊や。あんたには、わからねえんだろうな? この高揚感も命がけのやりとりにしか得られない快感ってやつも。…それともわかる必要もないってか? ああ、お前達にはわからねえ感情か? 大体、命なんかかけたことないもんな。…オレが、一体裏でどんな思いをして遊説してまわってるかなんて考えたこともねえんだろう?」 
 にやりと彼は笑った。冷ややかだが、しかし残虐な笑みだ。唇の端を何かが引きつるようにあげて、彼は長いマントを翻す。そのマントの端が、青年の頬をぴしりと撥ねた。
「血みどろの泥水で顔でも洗って来い…。そうすれば、嫌でもオレの気持ちがわかるようになるさ。」
 うなだれた青年は返事をしない。彼に気を止めずに前に歩いていたハールシャーは、ふと思い出したように振り返った。公爵の息子である彼にとんだ暴言を吐いたのはまずいと思ったのか、少し後戻りして、奇妙に優しい言葉でこう告げる。
「口がどうもすぎたようですな。…口が悪いのは私の常。…気になさらぬよう。」
  ハールシャーは形式だけ謝ってみせていた。これでもずいぶんな譲歩ではある。ハールシャーがもっと機嫌が悪ければ、彼は殺されても仕方のない立場なのだった。それに周りの反応も冷たかった。周りで戦っている者達には、平民上がりが多い。ハールシャーの言葉をもっともだと思っているらしく、青年には冷たい視線を浴びせていた。ただ、儀礼的に彼に敬意を表しているだけである。
 いや、このハールシャーに丸め込まれているのかもしれない。邪悪なハールシャーだが、人を魅了する魔のような魅力だけは持っていた。そのせいで、前の国王も宰相も、時には将軍までがハールシャーの後ろ盾になっていた。
 何という恐ろしい男だろう。青年は、冷や汗が流れるのを感じた。
「しかし、ハールシャー様。…考え直してください。」
 青年は、最後に頼み込むように言った。
「こんなことを続けていれば、我が栄光なるギルファレスがなんと言われるでしょう? こんな卑怯なことは、これでやめてください。」
「…やめないと言ったらどうしますか? あなたは謀と相手を手玉に取る言葉を私に捨てろとおっしゃるのかな?」
 青年は、静かに頷いた。
「ああ、しかし、策略と詭弁は、私が発揮できる唯一の能力にして、そして楽しみなのですよ? 捨てることなど無理ですな。」
「ハールシャー様!」
 ハールシャーは興味がないらしく、彼の方に顔を向けなかった。
「だったら、殺すおつもりか? この私を?」
 ハールシャーはこともなげに言った。ぐっと詰まった彼に一瞬目を向けて、ハールシャーはせせら笑った。
「できないことを口にするのは、やめたほうがよろしいですよ。殿下。」
 去っていく男の痩せた背中を見ながら、彼は、不意に殺意のようなものがこみ上げるのを感じていた。
 ――この男は危険だ…。
 そう直感的に思った。溢れ出る才能にこの男が踊らされる前に。この男が、これ以上の支配欲に目覚める前に殺さなければ、ギルファレスは無茶苦茶になる。 
 ――殺さなければ…、この男を殺さなければ…きっと世界は闇になる。
 ハールシャーはまだうっすらと笑っていた。勝利の鬨をあげさせろ、と命令を下し、差し出された赤い葡萄酒を口に含みながら、悪魔のように笑んでいた。


 それが後に、ハールシャーと対立することになる国王フェザリア=エルン=ギルファーレス付きの士官になるゼヴィリア公爵となるということを、この時は誰も知らない。

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©akihiko wataragi