戻る
2.怒り
古代編・「異国の寵姫」
宴は盛り上がっているようだった。離れたここにも、楽士の音楽が聞こえてくる。彼は、それをかすかにきいていたが、近くで笑う女の声にそれを邪魔される形になる。
くすくすと笑う女はすぐ近くにいる。しかも徐々に距離を詰めてきていた。 宰相としてはずいぶん若いが、特に浮ついてもいない。彼はうっすらとほほえんではいたが、目の前の美しい王の寵姫であるシャリーンを前にしても、ずいぶんと落ち着いたもので、態度を改めるでもなく、ただ柱に寄りかかるようにして立っている。
「そちらはもうよろしいのでしょう? 異国の宰相殿。それとも、まだあの宴に興味がおありでも? 美しい踊り子に興味がおありですか?」
「いえ、王の寵姫であらせられるあなた様以上に美しい踊り子などいませんでしたよ。」
いけしゃあしゃあと彼はそんなことを言った。ただ、事実、目の前のシャリーンは、真っ白な肌に漆黒の髪のつややかな美人で、少しひそめたような眉も物憂げな瞳も、王の寵姫に足るほどの美しくて艶めかしいものである。
「私は小心者ゆえ、王の動向が気になるんですよ。シャリーン様。よもや、我々が二人して宴から抜け出してきたことがばれはしまいかと…。」
小心などという言葉が似合わないほど、悠然と振る舞っている癖にそんなことを言うレックハルド=ハールシャーに、思わず女は笑った。
「陛下は、気づいておられませんわ。…だって、そうでしょう? ハールシャー様。私たちはそっと抜け出してきたんですもの?」
女は妖艶な唇をそっとゆがめ微笑む。ハールシャーの黒いマントをややつかみながら、彼女は思いの外背の高い彼の顔を見上げた。その表情からは彼の真意は伺えない。そういう男なのだろう、レックハルド=ハールシャーという男は。
「それに、わたくしもギルファレスの宰相さまとお話できるなんて、光栄ですわ。…例え、陛下にばれたとて、どうというものでもございません。」
ハールシャーはけして美男ではないし、あまり目立つ容貌でもない。ひょろりと痩せた身体に真っ黒なマントとターバン。額には赤いルビーのターバン飾りがあるが、それほど装飾は華美でもない。切れ者ではあるが、どちらかというとたたき上げの官僚であることが外見からもわかる方で、礼節がどれほどあっても貴族的な優美さとは無縁の男である。
ただ、切れ長の目には、底知れぬ野心と他の者にはない輝きがある。あるいはそれは、魅力的にうつるかもしれない。他人を魅了する力が、彼の瞳には宿っているようにもみえる。どこまでが本気かはわからないが、口がうまく、権謀術数に長けた男だけに、その辺の駆け引きにもなれていそうだ。
遊説中の異国の若い宰相という、その肩書きだけでも、ハールシャーはこの国の貴婦人からすれば、魅力的に映る立場の人間なのである。もしかしたら、貴公子達を見慣れている彼女たちからみれば、ハールシャーのような狡猾さすらにじませた男が物珍しいのかもしれない。
「それに、ハールシャー様。」
彼女はハールシャーにそっと身を寄せ、そっと上目遣いに彼を見上げる。何となく挑発的にも見える表情である。
「あなたは、遊びは危険な方がお好きな方ではありませんか?」
「ははは、参りましたね。私は堅実派のつもりでしたが? それに、私には妻もおります。妻は将軍の家柄ゆえ、実家にばれると私の身も危ういのではありますが……」
ハールシャーはわずかに目を細めて、そっと女性の髪の毛に触れる。
「しかし、たまには危険な遊びも悪くはないものです。」
ハールシャーは、シャリーンの肩を抱き、うっすらと微笑む。
「特に私など下賤の者は、王の美しい寵姫と火遊びなどできる身分ではございませんからな。」
彼は、そういってそっとシャリーンを引き寄せた。左手が彼女の胸元の薄い上着にかかる。
「…今日だけは、遊びに興じることにいたしましょう。」
そっと彼は、シャリーンを抱き寄せ、その首筋へと唇を落とそうとした。
だが、次の瞬間、シャリーンは身を固くした。首筋に当てられたのは、冷たい感触だったからだ。それが、刃物であることを理解するのに、時間はそう必要ない。
「ハ、ハールシャーさ…」
「はん。オレを色仕掛けにかけようとは、いい度胸だな?」
急にハールシャーの口調が変わった。見上げると、彼は唇を歪めてうっすらと微笑んでいる。
「誰に頼まれた?」
押し殺した声で、レックハルド=ハールシャーは詰問する。
「言え! どこの誰に頼まれた?」
シャリーンは真っ青になりながらも答えない。ハールシャーは冷酷な笑みを浮かべた。
「まぁいい。どうせ、あのフェザリアのクソガキだな。相変わらずだな、あの坊ちゃん皇帝が。やることなすこと先が読めすぎてて笑えるぜ。」
「ハールシャー様、な、何を? わたくしは、ただ、あなたが……」
シャリーンは、首を振り、それが誤解であることを伝えようとしたが、ハールシャーはふっと目を伏せてあざ笑っただけである。
彼はさっとシャリーンから身を離し、柱を背にして彼女と対峙する形になる。
「それじゃあ、一つ訊いておこうか。シャリーン様。」
彼は口だけ丁寧にいいながら、手すりに片肘をついた。そして、そっとマントの中から小瓶を取りだした。思わず女ははっとする。
「触れるだけで皮膚がただれるなんざ、すげえ劇薬だな。もっとも、オレはそんなへまもしなかったがな。」
「そ、それはっ!」
「さっき、あんたの懐からいただいた代物だ。悪いな、オレの元の職業病で、人が隠し持ってるものがあると、どうにも手が出ちまう性分でね。さすがに短剣を取るのはばれそうだったから盗んでないが。短剣にこれをべったり塗り込んでるんだろ? さすがのオレも、こんなんで刺されたら死ぬだろうぜ。」
「そ、そんな!」
ハールシャーは、鼻先で笑いながら柱に背をもたせている。
「それに、オレはあんたを以前ギルファレスで見かけたことがあってな。あんた、うちの陛下がどこぞの娼館から引っ張ってきた女だろう? さっき見かけたとき、あの坊やが、ここの王にくれてやったんだろうとは思っていたが、まだつながっていたとはな。」
シャリーンは、はらはらと涙を流し始めた。
「ご、ごめんなさい。申し訳ありません。お許しを! ハールシャー様!」
急にシャリーンは、弱々しく見えた。
「…フェ、フェザリア様は、わたくしがこちらに来るまでお仕えしていたお方です…。だ、だから、わたしは、あの方の恐ろしさも全部わかっていたんです。あ、あのお方は、あなたを殺さないと、陛下を暗殺させると。…そ、そう…。で、ですから…わたしは……」
ハールシャーは、それを黙ってみていたが、やがてそっと背を柱から離した。ハールシャーの直感と目は、彼女の言葉を芝居ではないと判断したのである。
「シャリーンさん。オレはあんたを責めるつもりはない。このことは内密に。あんたの旦那の国王陛下はこのことを知らないんだろう? そうじゃなきゃ、この周辺にもっと兵士がいて、失敗したとわかった途端、オレなんかとっくに殺されてるだろうからな。」
シャリーンはわずかに顔を上げた。泣き濡れた顔は、元が美人なだけに妙に痛々しい。
「フェザリアのことならオレがごまかしておこう。…だから、このことはどうぞなかったことに。もちろん、あんたも国王にこのことを告げてはいけない。もちろん、いなくなるとか、自害するとかも考えちゃいけないぜ。それをされるとオレの立場もまずくなるからな。」
そういうと、ハールシャーはさっと身を翻した。
「これからは、あのわがまま小僧の言うことに振り回されないように気をつけるんだな。」
後ろでシャリーンが小さく何か言ったような気がした。だが、ハールシャーは止まらず、早足で歩き始めた。再び宴の会場に戻って、色々裏工作をしなければならないかもしれない。王の寵姫とともにいなくなれば、やはりそこでまずい噂が立ちかねないのだ。
廊下を進んでいる間、ハールシャーの顔つきは険しかった。唇を一文字に引き結んで、ただでさえ鋭い瞳には冷たい光が宿っていた。
別に他国の王の寵姫を使ったことに怒りがわいたわけではない。自分を陥れようとしたことも、どうでもいい。どうせ、自分は恨まれやすいのだから、そんなことが起こったとしてもなんの不思議もないし、それについてどうこう言う気はないのだった。
ただ、ハールシャーは、あのシャリーンという女を見ると、不意に自分の過去を思い出すのである。それは昔、自分がすんでいた貧しい地区で、売られる女達の光景であり、そして、金と権力と暴力で、彼女たちをほしいままにする男達の姿であり、それを眺めるだけの貧しかった自分の姿でもある。
それを思い出すと、ハールシャーのどちらかというと冷たい心の中にでも、一言では説明できないような熱い何かがぐつぐつとわき上がってくるのだった。
「あの若造が!」
ハールシャーは、持っていた瓶を床にたたきつけて割ると、それを足で踏みにじった。しゅうしゅうと得体の知れない煙を上げる液体を蹴散らすと、彼はそれを大股にまたいで先に通った。
冷たく響く石畳の廊下をかつかつと音を立てて早足で歩きながら、レックハルド=ハールシャーは、冷たく冴える目を天井の方に向けた。その目に、何か復讐者のような光がともっていることには彼自身も気づいていない。ハールシャーは、押し殺した声で唸るように言った。
「いつか、玉座から引きずりおろしてやるからな!」
宴の楽士が奏でる音楽は、実に華やかなものだった。今のハールシャーにとっては、その音はいやに腹立たしく聞こえた。
戻る