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1.青年ハンスとエノルク書-3
 
「きゃあっ!」
 足を取られてシェイザスは転倒する。幸い、土がやわらかく、怪我をした様子はなかったが、その拍子にダルシュの手を離してしまった。
 慌てて顔を上げてダルシュの姿を探そうとした、が、すでにあたりは深い闇に閉ざされてダルシュの姿も見えなくなっていた。
「シェイザス! どうした!」
 ダルシュの声が聞こえたが、近くにいるはずなのに気配すらわからなくなっていた。
「ダルシュ! ダルシュ、どこにいるの!」
「シェイザス! どこだ!」
 ダルシュの声が、少し遠ざかる。
「ダルシュ! 私はここよ!」
 シェイザスは、声を張り上げたが、返事になるはずのダルシュの声は、どんどん遠ざかっていった。
「ダルシュ!」
 はっとして、シェイザスは、口をつぐんだ。
 暗闇の中に、冷たい不穏な空気が漂っていた。森のざわめく音がさわさわと冷徹に聞こえる。ダルシュの声が遠くで聞こえ、何か恐ろしいものの気配が彼女の側にある。
(これは、変だわ。ただ、日蝕になっただけではないの?)
 急に気温が下がった気がして、近くから、はぁはぁと獣のような荒い息遣いが聞こえる。
 シェイザスは、はっとそばの籠を引き寄せた。恐くなって立ち上がって逃げようと思ったのだ。その時、籠から時計が転がり出た。
 シェイザスが反射的に時計に手を触れようとした時、時計に手を伸ばす、もう一つの黒い手が見えた。
 シェイザスは、悲鳴を上げてその黒い手を振り払った。時計を拾い上げて、彼女は、立ち上がって走り出す。がさがさ音が鳴るのは、草むらを走り抜けているからなのか、彼女を追いかけてくる黒い手の主の足音なのか区別がつかなかった。
「ダルシュ! 助けて! ダルシュ!」
 シェイザスは、そう叫びながら森の中を逃げるが、返事がない。ダルシュはどこにいるのだろう。いつもなら、すぐに飛び出してきて助けてくれるのに。
 と、耳慣れない轟音が鳴りひびいた。その音に、思わずシェイザスは立ち止まる。
 目の前の暗闇から、強い光が目に飛び込んでくる。一直線にのびたその白い光は、森の木々を照らしながら、どんどん近づいてくるようだった。
 後ろにも何かが追いかけてきている、けれど、前からも何かが来る。シェイザスが、身動きできずに身をかたくしたとき――。
 大木を避けて、何か大きなものが目の前に飛び出した。
 はっとシェイザスは、目を見開いた。かすかな光に照らされているだけだったが、その大きなものに人が乗っていた。そのなびく髪の毛の色が金色だ。その人物が、一瞬シェイザスに視線を送る。
 その時、背後に何者かが立った気配がした。
 黒い手がシェイザスの首元に伸びる。異常に冷たい感触で、触られたところから凍り付いてしまいそうだった。
 思わず悲鳴を上げたシェイザスだったが、何かの破裂音と閃光が走った途端、その黒い手はするりと彼女を離す。
 いつの間にか、大きな乗り物が彼女の方に向かってきていた。どうやら通り過ぎた後、戻ってきたのだろう。 
 黒い手の主がひるんだ隙に、乗り物は、動けずにいる彼女の側で止まった。
「大丈夫?」
 乗り物に乗っているのは、男だった。
 日蝕が終わりはじめたのか、かすかに光を取り戻した森の中で、男の顔が見えた。金色の髪の若い男だ。男はかなりの大柄で、乗り物に乗っていても彼女から見上げなければならなかったが、碧の瞳をしていて、その視線が優しかった。
 そして、その顔は、夢の中で出会ったあの青年にそっくりだった。
 男は、ふと彼女から視線をはずして、手に持っている鉄の塊を構えた。
「あー、やっぱり、この程度じゃきかないか?」
 彼の視線を辿って振り返ると、黒いものがぐにゃぐにゃと歪んでいた。人の形に似ていたが、今はその胴体から下が不定形なものに変化していた。
「まだ来る気だな。しつこい!」
 男はうんざりとした様子で呟いて、再びシェイザスに目を向けた。
「ここにいると狙われるよ。早く乗って!」
 男が手を差し出す。白い手袋をした大きな手だ。ふと彼を見上げると、男は優しい表情でにっと笑った。
 思わず手を握ると、男は強い力でシェイザスを引き寄せていた。
 気がつくと、彼女は乗り物の上に乗っていた。
「しっかりつかまってるんだよ」
 男は一言彼女にそういうと、急に乗り物を発進させた。ドンと、圧力がかかる感じがして、その乗り物がどれほどの速さで走っているのかを、彼女は理解した。
「おい、ハンス。こんなガキ連れてどうするんだ! 俺達は”飛び込む”つもりなんだぞ!」
 不意にそんな声が上からきこえたので目を向ける。男の肩に黒い鳥がとまっていた。カラスのようだ。今の声は、カラスの声なのだろうか。
「どうするんだっていわれても、おいていったらあいつにやられちゃうよ?」
 男は、カラスにそう答える。
「とりあえず、あいつを振り払ってからじゃないと、俺達も”飛び込めない”よ」
 彼らが何を話ししているのかわからなかった。ただ、明るくなり始めた森の中を高速で突っ切る乗り物に負けず、追いかけてくる黒いものが背後から迫っているのがシェイザスに見えていた。
「まだ来るわ!」
「ったく、しつこいんだから」
 男はうんざりとした口調でぼやく。緊急事態にも関わらず、どこか間延びしたような口調で、シェイザスは、彼が何を考えているのかわからなくなった。
「しょうがない。奥の手を使おうか」
 ハンスはそう吐き捨てると、ふと足元にある筒のようなものを持ち出して、片手でなにやら作業をしているのが見えた。
「お、おい、お前ッ、そんなもの……! この森の中で、爆弾類はやめとけ!」
 カラスが焦ったように男に言ったが、男はのんびりしたものだ。
「大丈夫。これ、煙が出るだけのやつだから」
 男はそういって紐をひっぱり、ちらりと追ってくる相手を見た。すでに森の中は薄明るくなっている。
「それじゃあな!」
 男はそういうと、正確に黒いものめがけて筒を投げつけた。人の姿を失いつつあるその黒い影が、筒を受け止めたように見えた瞬間、ぱっと閃光が走った。続けて破裂音と共に煙が凄い勢いで巻き始める。
「さ、今のうちに逃げちゃおう」
「お、おい! ハンス!」
 男が明るく言った時、カラスが何か叫んだ。
 シェイザスは男の背から顔を出して前を見る。目の前に大きな木があった。このままではぶつかってしまいそうだ。が、それよりも、目に付くものがあった。
 その木の枝が二つに分かれていたが、その間が青く光っていた。キラキラと水面のようにたゆたい輝き、稲妻のようなこまやかな光が走っている。枝の間に光の幕があるようだった。
 急に乗り物が大きく揺れた。ブレーキをかけて急激にスピードを緩めようとしたのだとわかったが、どんどん木が迫ってくる。
「ハンス!」
 カラスが叫んだが、男は何を思ったのか、急にスピードを上げだした
「こうなったら”飛び込む”しかないよ!」
 男の声が聞こえたと同時に、乗り物ががっと地を蹴って浮き上がった。飛び上がった彼らの目の前には、木の枝の間に張られた光の幕が迫ってくる。
 その間のことは、実にゆっくりと感じられた。シェイザスは恐くて男の大きな背にしがみついた。
 やがて光の幕に差し掛かったとき、パリ、と静電気のような痛みがかすかに肌に触れたが、思ったほどの衝撃は来なかった。
 幕を通り抜けた後、急に周りが真っ暗になり、体中に重圧がかかった気がした。
「しっかりつかまってるんだ!」
 男の声がシェイザスの耳に聞こえたのは覚えている。彼女は、必死で男の背中にしがみついていた。
 
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