1.「死の神が支配した」-5
要塞の居住区域の一角に、資料室がある。暗い長い廊下の隅のほうにぽつりとあるそれには、重い扉がついていた。たまに、扉があいていることもあるのだが、通り過ぎるばかりで、ナツはそこに入ったことはない。
入り口が少し低いので、ファンドラッドあたりはつかえてしまうのだろうとナツは思った。
少々不気味な資料室だ。ナツは意識的にそこを避けて通っていた。それに、ファンドラッドの態度も気になる。ファンドラッドは、ナツにあまいから、何をしても別に怒ったりしないのだが、時々複雑そうな顔をみせることはある。たとえば、ここ、資料室に興味を向けたりすると、そんな顔をするのだ。
いや、本当は資料室だけではない。ナツは、この要塞の一区画しかうろついていない。この広い要塞の全てを歩き回っているわけではない。彼が自由に歩きまわれるのは、この一区画のみであって、他の区画にはあまり出たことがない。そして、その他の場所にいってみたい、などというと、ファンドラッドが、少々苦しそうな顔をするので、ナツは黙っていることにしていた。
だから、今日、資料室が開いているのをしっていても、通りすがるのみで素通りしようと思っていた。
「あれ?」
ナツは、資料室の扉の前に、何かが落ちているのを見つけた。かすかに花を象った、少し地味な髪飾りである。だが、これは、あのライセンが身に着けている数少ない女性的なアイテムなので、ナツはよく形を覚えていたのだった。
「ライセン。資料室にいるのか?」
ナツは、それを拾い、資料室の方に声をかけた。
「ライセン、落し物だよ!」
だが、返事はない。ナツは、た、と一歩足を踏み入れた。
「ライセン!」
足を踏み入れた場所から、埃が立ち上り、ナツは慌てて手でそれを払った。
「うわ、これはひどいなあ」
暗い中、明り取りになる窓すらない。それでも、このほこりがわかるくらいなのだから、長い間ここに誰もはいっていなかったのだろう。もちろん、掃除されているはずもない。
ナツは、少し迷った後で、そっとそこに忍び込んだ。
「ライセン、いるのかい?」
開いた扉から漏れてくる光で、かろうじて中の様子がわかる。人が要る気配はないようだ。
「なんだ、いないのか」
ナツはそうつぶやき、そのまま帰ろうとして、不意に床の方に目をとめた。棚の下に、ちょうど資料らしい紙の束が落ちていたのだ。
「なんだ、コレ」
ナツは、興味本位で資料を拾い上げてみる。埃が表面にたまっていないところをみると、この資料が落ちたのはつい最近ということになるのだろう。ライセンが落としていったのだろうか、もしかして。
「えーっと……なんだろ、コレ」
何かの書類をまとめたファイルなのかもしれない。かなり古い資料なのか、すでに紙が黄色く変色して、ばらばらと崩れてしまいそうにも思えた。表紙に何か書かれていたが、それには気を止めず、ナツは中身をめくってみた。たくさんの文字と数字が、目の前に広がった。
「えーっと、なんだろ。コレ、名簿?」
ジョアンとか、アンディとか、どうやら人名らしいものを読み上げて、ナツは納得した。だとしたら、横にある数字は年齢かもしれない。ぱっとみた感じ、二十代の人間が多いように思えた。そのままめくっていき、最後の資料を見てみる。その最後の方に見覚えのある名前があるのをみて、ナツは、それを読み上げた。
「ウィンディオ=ファンドラッド? ウィンディー?」
「何してんだ」
不意に声が高いところからふってきて、ナツはびくりとした。顔をそっとあげると、暗い中で人の目が光っているのが見える。思わず悲鳴を上げて、資料を放り投げたナツは、そこに座り込んだ。
暗い中に立っていた人物は、それをみて、首を少しだけ傾げる。
「あのなァ、そういう反応しないでくれよ。傷つくじゃねえか」
「あ、何だ……」
ナツはほっとため息をついた。そこにいるのは、見慣れた青年である。
「何だ、リティーか、おどかさないでくれよ」
「おどかしてねえよ。俺だってびっくりしたぜ。こんな埃だらけの、くっらい部屋で、何してるかと思ってさ。何か探しモノか?」
手伝ってやろうか、といわんばかりの顔で、リティーズが言った。
「いや、探してないよ。ただ、ライセンの髪飾りを拾ったからさ」
「なんだ。俺のほうは、バルトのヤツを探して捕まえた帰りだ。なんか、さっき、あのジジイの部屋の前に誰かいたような気がするんだけどなあ」
「幽霊じゃないか」
にやりと笑ってそんなことをいうナツの頭に、リティーは手を置いて、軽く体重をかける。
「そういう不吉なこというなよ! 俺、そういうの苦手なんだよ」
「ええー、リティー、それも駄目なのかよ」
「うるせえな」
リティーズは、少々恥ずかしそうなそぶりも見せるが、すぐに開き直る。
「だって、苦手なもんは苦手なんだよ! だ、大体、お前、こんなとこいてもいいのか。ウィンディーに見つかるとおこられんぞ」
そういってから、リティーズはため息混じりに補足する。
「とはいえ、あの男、お前には甘いもんな。多分ぜってえ怒らないだろうなあ」
猫かぶり野郎が、とリティーズは吐き捨てる。それに、ナツがふと眉をひそめた。
「リティー、それこそ、きかれたらまずいんじゃないのか?」
「えっ、ああっ! お前」
ナツは、だまってにやりとわらっている。リティーズは、にわかに慌てだした。
「お前、つげ口するなよ! アイツ、真綿で首絞めるような真似するんだぞ!」
「知ってるよ」
「知ってるって……!」
リティーズの慌てた様子に、ナツは忍び笑いをもらした。
「心配するなってば。オレはいわないよ」
「本当か? マジでいうなよ!」
「うん、さすがにリティーが血祭りにあげられるのを見るほど、悪趣味じゃないよ」
「……なんか、たとえがこう、不気味だが、まあ、それならいいか」
ほっと一息つき、リティーズは安心した様子を見せた。
「じゃあ、とりあえず、出ようぜ。ここにいると息が詰まりそうだしさあ」
「そうだな」
ナツは、リティーズの先にたって歩き出す。ナツが放ったままの資料を、歩きついでに拾い上げ、リティーズはその辺の棚になげやる。埃がたったのを気にせず、資料室の扉を閉め、彼はそのファイルが何の資料であるかを特に気にもしなかった。
その表紙に残された不吉な文字にナツは気付いていただろうか。いや、気付いていれば、リティーズもナツも、こんな風にのん気でいられないはずだ。暗闇で見えなかった、その、彼らにとって旧知の仲の男の名前が載った資料の表紙には、大きく「戦没者名簿」とかかれていたのだから。
煙の立ち上る室内で、ファンドラッドは低く笑った。火をつけた煙草をくわえて、煙を吐きながら、ふと先ほどの下らない文面を思い出す。
「死の神が支配した。確かにな……」
そうかもしれない。ファンドラッドは、要塞の外の情景を思い浮かべて、その文言だけは言いえて妙だと思った。
ナツは、要塞の本当の「外」を知らない。あえて、自分が見せないようにした。あんなもの、見る価値もない。
そして、ウィンディーと少年が呼ぶ自分を外の連中がどう呼んでいるかも、本当のことを教えていない。それも、別に知る価値がないことだからだ。
彼はこの要塞の外に出ないほうがいい。真実を知ることが、すべて幸福に直結しているわけでもないのだし、真実を知れば彼は深く傷つくことだろう。
でも、と、ファンドラッドは、ふと笑みを凍らせる。本当にそれだけだろうか。本当は、単に知られたくなかっただけかもしれない。自分と、この要塞の本当の姿と、そして、外の世界の過酷さを。
「私は……間違ってはいない」
言い聞かせるようにファンドラッドはつぶやいた。目を伏せるとリティーズが去ったままで、おかれたチェス盤が目の端に見える。
「私は――……ただ、あの子に辛い思いをさせたくないだけのことさ」
煙が立ち昇り、ファンドラッドは、目を閉じる。それは、おそらく、彼なりの言い訳であり、彼の最高の免罪符だった。
どこか皮肉めいたものを自分で感じながら、ファンドラッドは、ため息まじりの煙を吐いた。
外は一面の赤い荒野
ああ、そうだ、この世は死の神が支配した――