※注!この小説には、暗殺編のネタバレがありますので、ご注意下さい。
シャルル=ダ・フールの王国
ジャスミン香る木陰
カッファ=アルシール邸は、王都の中心から少し離れたところにある。もとより身分があまり高くないカッファは、カリシャ朝ザファルバーンに仕えてきた下級武官の家の出である。現在では、セジェシスに気に入られたこともあり、そこそこ大きな屋敷には住まっていたが、それでも、将軍を輩出してきた軍閥ジートリュー一族などからすると微々たるつましい屋敷だ。
カッファは当初、仮にも王家の血筋をひく者をこんな東屋のような所に住まわせると思うと、かなり申し訳ない気分になっていたのだが、当の本人は宮殿にいるときよりも、こちらにいる方が落ち着くらしい。その様子に、徐々にカッファも安堵してきていた。
その家の中庭には、大きな木が一本立っていた。砂漠の地方では涼しいとはいえ、ここも夏にはかなり暑くなる場所である。だから、その木が一本立っているだけで、屋敷は少しだけ陰の分涼しくなっているのだった。
大きな葉をつけた木の下のかげはいかにも涼しげそうに見えるし、実際涼しい場所だった。それを経験的に知っている少年は、どこからともなく敷物を持ち出してきてよくそこに敷いて寝ころぶのが好きだった。
今日も彼は小さな体で、自分の二倍はある敷物をずるずる引きずりながら現れる。後にこの木の一番したの枝に頭をぶつけるほど高くなる背も、このころはまだ引きずっている敷物より小さいほどだった。苦労しつつも粘り強くそれを引きずり、ようやく日陰まで行き着くと、彼はふうとため息をついた。
「えいっ!」と声を上げて、シャーは敷物を引き出してその場に広げた。木陰にちょうどおさまった敷物の上にべったりと寝ころんで、丁寧にしわを伸ばす。だが、手でしわを伸ばした一方で、足でしわをつくっているので、結局綺麗にはなりきらない。それに気づいて、シャーは、慌てて元に戻すが、かえって反対側がぐしゃぐしゃになってしまった。
少しだけ首を傾げて、仕方なくシャーは妥協することにした。きっと、自分だけではこれ以上綺麗にするのは無理だ。
「うん、きれいにできなかったけど、でも、大丈夫かな。オレは普段こんなので寝てるし」
うんうん、とうなずいて、シャーは、思い立ったようにそこから、たたたと早足で建物の陰に置いてあったゆりかごに向かった。そこには、彼よりももっと小さな赤ん坊が毛布に包まれて眠っている。その側には、一輪のしろい花弁のジャスミンの花が、不器用に引きちぎられてはいるものの、そうっと大事そうに飾られている。微かな爽やかな香りがそこから漂っていた。
そうっと優しく、しかし、抱き上げなければいけないので精一杯に力を入れて、シャーはその子を抱き上げる。まだ短い黒髪が毛布から見える。安らかな寝顔を見て、シャーは頬をゆるめた。
リュネザード、という名前を与えられたこの子は、カッファの娘に当たる。
『カッファの娘って事は、オレの妹でいい?』
そう訊いても、カッファはやや複雑な顔をしていた。それはそうだ。預かっている王子に、主従の規律を乱すような真似をさせるのが心苦しかったのだろう。だが、今まで街で親も知らずに生きてきた彼を思うと、何となく断り切れず、なし崩し的にカッファはそれを認めてしまった。
実際、シャーはよくリュネの面倒を見ていたし、かわいがってもいた。レビ=ダミアスがまだ養子にならない頃、シャーは宮殿に兄弟らしい兄弟を持たなかったので、その寂しさゆえに余計に妹が可愛かったのかもしれない。実際、シャーには、半分血のつながった、または血のつながらない「実の」妹もいた。だが、後に戴冠してからも、彼はあまり妹に会ったことがない。そういう意味でも、リュネは彼には大切な家族でもあったのだ。
世話係が帰ってくるまで見てくださいと言われて、シャーは正直嬉しかったのだ。嬉しさのあまりに、どこかの庭園から無断でジャスミンの花を摘み取って、それをリュネの髪の毛に飾ろうとしたものの、短い幼子の髪の毛にはさすこともできない。ゆりかごに一輪のジャスミンの花がのっているのはそういうことなのだった。
「リュネも涼しい方がいいよな〜」
そういうと、シャーは、そうっと彼女を起こさないようにしながら、木の下まで運んでいった。
暑い夏の日差しは、まだ小さい彼女にはきっと毒だとシャーは思っている。それに、いつかすごい美人になるかもしれないのに、この白い肌に日焼けなんかさせてしまったら、カッファにも申し訳ない。
毛布をそうっと下に置いて、シャーはリュネを寝かせると、隣に座った。どこからか取ってきたらしい扇で、はたはたと仰ぎつつ、シャーは一人にっこりと笑った。
「しばらく、ここで涼もうな〜、リュネ」
涼しい風が吹く中、シャーは木の幹によりかかった。上から木漏れ日が降りかかる。風はほとんど吹いていないが、それでも随分涼しかった。
「くそっ! あの三白眼小僧が! これで三日目だぞ」
カッファはやけに怒りながら、自分の邸宅を歩き回っていた。
「全く、いい加減文字の読み方ぐらい勉強しろと言うのに、目を離した隙にするっと抜け出して! 今日こそは捕まえて無理にでも机に座らせてやる!」
怒りながら、カッファはふと大きな木に目を留める。あそこの日陰は涼しくて、時々シャーはあそこで昼寝していることがあるのだ。
ずかずかと歩いていくと、案の定、くるくると巻いた髪の毛が見えた。
「殿下、いい加減に…!!」
大声でそう言いかけて、カッファはふと声をのむ。彼の目に飛び込んできたのは、木陰で彼の娘と並んで眠る小さな少年の姿だったのだ。
「む…これは……」
カッファは思わず唸った。すやすや眠るシャーは、リュネの横でいかにも気持ちよさそうに寝ている。こんな微笑ましい様子を見せられて、カッファはどうしたらいいものやらわからずにやや狼狽した
「うう……ここでたたき起こしたら、私が鬼のようではないか。……あ、相変わらず逃げるのがうまい!」
唸りながらカッファはため息をつく。本当にこの王子には敵わない。
仕方なく、カッファは、今日の所の不満を飲むことにした。そうして、シャーはその日の勉強も免れたのだった。
「あの木、全然変わらないんだなあ」
ぼんやりとシャーは呟く。視線の先には、さらに葉をしげらせた木が好き放題にのびている。だが、少しぐらい大きくなったからといって、外観と印象はそうも変わるものでもない。
「今のオレなら、木陰から足が出ちゃいそうだね」
「なに気持ちの悪い感傷に浸ってるの?」
長い黒髪をまとめた少女が、冷たくそう言う。大きな目の可愛らしい少女だが、意外に言葉は辛辣だ。
「相変わらず冷たいなあ、リュネちゃんはさー」
シャーは、苦笑するというより、諦めたような口調で言った。
久々にカッファの家に来たというのにコレだ。昔は可愛かったのに、などと思いながら、シャーは足をばたつかせた。
実はシャーは、二階のこの部屋の窓に引っかかったまま話をしているので、そろそろ足場のないここがきつくなってきたのだ。
「それとねえ、リュネ、話しかけてくるなら、せめて部屋にいれてくれない? オレ、さすがに窓枠に手を引っかけたまま長話できないよ? 大体ここ二階でしょ?」
だらりと二階の窓枠にのっかかったまま、やや困った様子のシャーに目を向けてリュネは当然のように言う。
「だって、お父様が今日はいれるなって……。また何かやったの?」
きかれてシャーは、うぐ、と詰まる。
「……い、いや、思い当たる節がおおすぎて……。あれかな、この前、酒場ででろんでろんに酔ってるところ見られたらしいんだよね〜」
「それはまずいわよねえ」
「まずいわよねえ、ってそんな……」
急にシャーは、肘を窓にひっかけて、無理に手をぱんとあわせた。
「ねえ、お願い、リュネちゃん。カッファに取りなして〜。オレ、昨日、いつものお仲間がいなかったから、何も食べてないの」
「ええ、また? いっそ、お城にいけば、豪華な食事が食べられるわよ?」
「駄目駄目、あんな所いったら、まず怪しまれて牢にぶち込まれるのがオチだから。ねー、じゃあ、リュネちゃんが、何か恵んでくれるだけでいいんだってば! ていうか、リュネちゃんは、オレが餓死してもいいっていうのお?」
「じゃあ、せめてお父様に会いに行ったら?」
「カ、カッファに今あったら、オレ殺されそうな気がする……」
恐る恐るそういう彼に、じいっと下から見つめられ、リュネは眉根を寄せた。比較的慣れてはいるのだが、この目に見つめられると、何となく神経を逆撫でにされたような感覚が一瞬走り去るのである。
リュネが物心つくころには、彼は遠征でいないことが多かった。しかし、それでもシャーは、帰ってくる度に彼女に会いに来ては、妙に兄貴風を吹かせて土産などを持ってきたりしていたので、リュネとしても、シャーのことをよそよそしくみているわけではない。
「全く、そんなんだから街で変質者と間違えられるのよ!」
リュネはため息をついて、やれやれと言いたげに窓枠に近づいた。
「本当にお腹がすいてるの? シャー兄」
「みてわかんないかなあ、このオレの切羽詰まった感」
「……うーん、微妙な所ね。いつもと変わらないもの」
冷たいことを言ってリュネは根負けしたようにため息をついた。
「わかったわ。こっそり何か持ってきてあげるわ」
「ありがとう! もう、それだから、リュネちゃんは可愛いなあ!」
「ハイハイ、気持ちの悪い事言わない」
軽くあしらいながら、リュネは奥に引っ込んで何か探してくるようだった。あ、とシャーは声をあげる。
「リュネちゃん。珍しいじゃない。花飾ってんの?」
「え? あたしだって花ぐらい飾るわよ、女の子だもの」
そういいながら、リュネは机の上の花瓶を見る。その控えめな色の花瓶には白い花が飾ってあった。
「あら、これ、ジャスミンの花よ? ……どういうわけかわからないけれど、あたしは、ジャスミンが好きなの、昔からね」
「へえ、そう」
シャーは思わずにんまりとする。
「なるほどね、オレもその花好きなんだよな〜」
「ホント、シャー兄様の場合、顔と相談した方がいいわよ」
きついことをいって、シャーの悄然とした顔を見ながら、リュネはすたすたいってしまった。その物言いのきつさに辟易しつつ、シャーはわずかに微笑んだ。
「っーたく、ホント……かわいくなくなっちゃって……」
深々とため息をつく。
「昔は守ってやらないと消えちまいそうに小さかったのに、オレの助けなんてもういらないよなあ。アレは……」
さすが、カッファの娘だ、とシャーは思う。
「あれじゃ、女傑候補だよなあ。くわばらくわばら……」
懐かしい木の陰には入っていなくても、何となくその涼しさが身に伝わってくるようだ。その涼しさに紛れて微かに香るジャスミンの花の香りが、シャーにはひどく懐かしいものだった。
リュネが、食べ物を調達して帰る前に、窓枠にぶら下がっているシャーが、カッファに発見されて一悶着あったのは、また別の話である。
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